故郷


 たった今見ている雪や木の葉っぱが=美しい故郷であること、これを言葉や思想でどういっても届かない、わずかに自分というたがを外して、風景というこの中にすっぽり入ってしまう、
「群生の永しなえにこの中に住す。」
という、あるいは、
「人間の如来は人間に同ぜるが如し。」
という、他にむかって、故郷をまったく求めない自分に行き合うんです。
 
 これなければ、いつまでたっても、故郷は遠くにありて想うもの、そして悲しく歌うっきりなく、遠くにおけば一見美しく、帰れないと思えば純粋に悲しく−うそなんです、美しくも悲しくも、だって人はだって自分はという一札が入る、故郷の山川まで破壊する今様社会はという、故郷なしは心もない、心身喪失だなどいいだす、単なる甘え根性です。
 真相ではないんです。

「向こうの山からぬうっとゴジラが出そうな日和ですなあ。」
 ほんとうにゴジラが出たら、うわって思うでしょう。日常の皮っつらはげて、山河大地がいっぺんに強烈。
 自分という嘘の皮が破れほうけ。
 悟りっていう、徹底というそうですよ、するとゴジラの十倍ぐらい、どはっていう実在感、
 存在観っていう陳腐な云い草も故郷も、いっぺんに吹っ飛んで、
「ふるさと? な−にそれ、う−ん、ああここのこと。」というんです。
けりがつくとは、満足する−食い足りるんです。

 おぎゃあと生まれて、もと故郷なんかなかったんです。物心ついても、自我という自分という嘘っことには、あんまり縛られない。三つのころまで心行くあった。あるいは十までも過ごす。あとっからそれが故郷になったんです。
 無理強いの故郷です、どう足掻いたってそりゃだめです、三つの子ども以前にいったん立ち返る、それ以外になんの方法もないことを知るんです。これが仏教です。
 故郷とは何−汝が父母の生まれる以前の汝が眉毛。


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