心は傷つかないことを知る


 人間は傷つきやすいものです。傷つきやすいほど、真卒であるいはナイ−ブなんです。傷つかぬほどに、傲岸で行徳の俎板−ばかですれてるって感じで、あるいはそっぽ向いてるんです。禅の修行は俗に不動心とかいって、鍛えたり傷つかぬ心を作るんじゃないんです。そりゃにせもんです。その反対です。いわば裸で剥き出しにする、どこにも隠れ場所のない、生まれついての自分です。
 そんなことすりゃ、傷つき無惨な破れほうけと思うでしょう、そりゃ傷つき悲しいたってね、傷つける相手のどうしようもなさ、不備欠陥が丸見えたってね、アッハッハ一目瞭然−赤ん坊のようにです。でも、
「心は傷つかない」
 んです、たといどんなことあったって、取り返しつかないことしたって、心はまっさら無傷です。
 これを知るのが仏であり、救いなんです、
「心は傷つかないことを知る」=坐禅。
 傷つけあう人たちも、自分を省みるということを、ちらっともすれば、ことは収まるんです、だって自分とくとくとしてたって、傍から見ればなんてこっ恥ずかしいって思う、どうしてあの人はって、丸見えなのがやっぱり世間です。  
 わたしの住むど田舎も同じ、しょうがないなあ、あいつはっちゃ、みんな暮らしている、
「知らぬは我が身ばかりなり」
です。
 これねえ、機会があっていうだけいったら引く、これ以外ないようです。石っころはよけて通るってしかない場合、よけて通りやいいです。
 そうして自分はそういうものにならないんです。外見りゃ紅葉あり、月あり風あり「傷つきやすい心=まったく傷つかぬ心」に答えてくれるものいっぱいあります。そうして世間にも答えてくれる人あるんです。一人でもありゃ(ほうらわたしにとってのあなた)他の傷つけ会う(いたらぬからですよ、愚かなんです)千万どうでもいいってこと。なるたけよけて通る、だめだったらそれ相応の手段てことでいいです。
 悲しまないで下さい。
 世間淋しいってことないですよ。


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