キリスト教と仏教は友達になれるか
そりゃ友達になれる、なれないって目くじら立てるこっちゃないけど、そういってちゃ答えにならんです。でもね、人間て変なもので、キリスト教はキリスト教人間、ユダヤ教はユダヤ教人間ての作るんです、らしい人間ですね、お互いの信仰を理解してという付き合い方ですか、一に同じ宗派、二に同じ宗教の別派(しばしば対立抗争−喧嘩はこっちのほうが凄まじいんです)、別宗教、異端、無宗教という順序立てです、日本人は無宗教に寛大ですが、西欧では問題外っていう−信用ならない部類に入れる。
無宗教というんですが、ほんとうに無宗教という人を、わたしは知りません、むしろ多神教といったほうがいい、教育の神様マスコミの神様、一OO円均一の神様、死体おしゃれの神様、生ごみ団子の神様、英語の神様、internetの神様、なんの神様、とかくなんにもならんというだらしなさです。でもって間違った宗教でも、その信者にころっとやられるんです、心の本来性を一番知らない者=無宗教といっている人です。
でもって間違った宗教ほど恐ろしいんです、カルトまで行かなくっても、せっかく生まれついての如来です、花も草木もです、手つかずをデフォルメする、神様−契約というんですか、大人−大人社会の勝手でもって、むりやりねじ曲げる。
「それは間違ってるよ。」
といってそれからです。
それから友達になりたいんです。
クリスチャン−仏教徒の問題も、お互い数多いから、社会の一員だからという先に、
「いったいどういうことだ−もしこれを取れば。」
という根本に、目を向けたいんです。
でなければ、どっかがへんです。
=仏は思想にとらわれない、思想の主人であるというんです、共産主義であろうが、どんな理想、どんなよかりそうな主義主張も、とらわれては本末転倒事、これを声色の奴卑と馳走す(奴隷になって走り回る)というんです。
宗教も思想と同じという、ここに仏教のユニ−クな点があります。
春は花夏時鳥秋紅葉冬雪降りて涼しかりける
人間以外に思想宗教をいう者はないんです、人間のそういう特性−実は過ちを取るか、人間以外の一切−実は人間も含む、この地球宇宙の一員となるか、ということとわたしは思っています。
達磨さんに梁の武帝という人が、おまえはだれかと聞いた、達磨さんは「知らない」と答える、達磨の不識というんですが、花に向かって、あなたはだあれと聞いてごらんなさい、「知らない」と答えるんです。だから花は「見れども飽かぬ」花です、人間が自分について知っている分オ−ルうそってこと思い当たって下さい。
悔い改めたってやっぱりうそだったりするんですよ。
そりゃ親友になれないってことないですよ、でも仏教とキリスト教は、似ているとか目的とかいうより、まるっきり別ものなんです。一般常識が間違っているんです。紀元一OO年頃の歴史家が、当時の宗教を、一神教多神教的な(神と契約による、信仰と戒律による)宗教と、(一個の解脱、まったくの自由を得る)仏教とに、大別しています、それほどの常識のない、つまりオ−ムなどののさばる世代です、照顧脚下−足下を顧みるんです、人のふり見て我がふり直せ。「わたしはどうか−わたしにとってどういうことか。」という、これが宗教の眼目です、その他のアップロ−チはないんです。
そりゃ人間ですから不可能なんてことないんです、でも捨てなけりゃならんですよ、キリスト教的なものも、そうでないものもです、いいものほど捨てられないんです、捨てなけりゃ得られない、仏とはほどけといいます、自縄自縛する縄をほどく、ほどき終わればもと仏、自縄自縛の縄=自分であったと気がつくんです、キリスト教が自縄自縛のもう一本の縄であったら、こりゃほどくっきりないんです。愛とは何か、手つかずなんです、少しでも手を付けたら愛憎です、流転三界恩愛不能断、棄恩入無為真実報恩者。これは出家剃髪の偈です、アップロ−チの方法がまったく違うんです、キリスト教は向上なんです、天上の清らかな音楽を奏でる、仏教はぶっこわれです、どん底っていうんですか、ご−んと鐘が鳴ってみんなお釈迦にしちゃうんです、そこからしか始まらない。
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