けりをつける
さがすと見つからない、さがすものそれという、気がついたとき、泥沼そのものがふっ消える、まったくにこうある、心のメカニックです。
無意識であろうと意識的であろうと、ことは同じです。泥沼とは、それに自分が係わることによって成り立つ、どう係わるか、係わっている自分をまた自分が追うという、どこまで行ってもです。その内容如何ではない、際限もない繰り返し、しかも自分のそういう自作自演を対象、つまり内容如何に置き換える。自作自演にくたびれてどうにもならんという、泥沼だぶあつい壁だとか。
どっかがおかしい。どうやっても答えが出ないんです。ないものを、そりゃもとないんです、答えの出ぬものを追い求める不都合。
でもって、泥沼はたいへんだ、人間真理の深層だ、無意識の方がよっぽどといってはお茶を濁す。世間一般もそういう、自分もそうだから人もそうだやってないで、いったんけりをつけりゃいいんです。
ことは簡単です、自分を自分が追うという不可能事に首を突っ込まない、不可能事だから際限もない、ではそいつを止めりゃいい。
心が心を追わないと、泥沼はないんです。心は一つ自分は一つっきりないのに、なぜ見たり見られたり、追ったり大風呂敷拡げてみたりするのか、どっかがおかしいとはこれです。泥沼の正体がこれだというと、みんな大急ぎで反論する、おかしいというより、それほどどっかどっぷり漬けになっている。
凡人なんてものあるわけがない。
泥沼に手をつけないと、自分というものの多少のくせがあるだけです。
どっぷり漬け止めて、自然の風物とほんとうに付き合うってのどうです。
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