歓喜天
どっか行ったら、じっさにとっつかまって、坊主ってのはなんでも知ってるだろう、だったら十三仏さまの名前みんないってみろっていわれて、往生したことありました。火炎に包まれた不動さんで終わる十三仏さま、掛け軸にかけてお念仏講があって、それでじっさ知ってるんだけど、坊主帰って来て調べて、大日如来にふくうけんじゃく?とかいって、そっくり覚えたらそっくり忘れていました。
宗門には礼仏といって、百仏千仏三千仏といって、仏名を唱えてお拝する法要があり、維那は別段のことはいわず、
「これ、おまえらん中にみんなあるんだ。」
でけり。
知りたいんなら本見ろってなもんの−悪しからず。
歓喜天有頂天とか、笛を吹き舞いを舞いして、雲岡の石窟に描いてありますが、どうです、野っ原に一人草木も歌い雲も歌い、鳥や獣もいっしょになってという、どっか外れた有頂天を思うことできますか。
お祭り騒ぎのライブでもって、酒を飲んで乱痴気騒ぎでもって、古代デオニュ−ソスの女どもでもいい、バリ島の十六ビ−ト、クラシック音楽だっていい、いろんなことがある、ふっと自分を忘れるんです。
明日はまた日常に帰る。
必要な一時なんです。
これが欲しいために麻薬に走ったりします。
人は個人と全体の間に揺れ動く。個人ではたいていなんにもできない、ぜんたいだけでは働き蟻と同じだ。
人間発祥以来の大問題だったんです、個人に目覚める=他のなんやかやどもと一線を画す、即ち人だったんだけれども、どうもちっともうまく行かない。
ハイルヒットラ−といえば、ぜんたいまとまる。
思い込みです、強力なハ−ケンクロイツが欲しかった。たった一人であってもぜんたいという、ひょっとしてどこまで行ってもやっぱり思い込み。
宗教=必要悪っていうんですか。なんたってもう人間の数ほど宗教ってね、そりゃ中国殷の神さまより、人間主義の一神教のほうがいい、でももっとずっとクロマニヨンの洞窟画のほうがいい、−
そうなんです、これにけりをつけたのが仏教だったんです。
ヒュ−マンもハ−ケンクロイツもいらない、わずかに忘我、自分という一個人=心失せてもぜんたいがある、ぜんたいという人間の作り出した−思い込みではない、人間を離れたもとっからのぜんたい、帰依という一OO%の如来−来たる如く、去れる如しです。
忘我=有頂天の歓喜を知るんです。
ちらとも何かあれば損なう、そこをよくよく見てとって下さい。ちらともある、少ないほど強烈とか、人類の歴史は、実にこの(何かある)お釣りの部分から生み出されて来たんです。
明星一見して、我と有情と同時成道、個と全体の合一です。三七二十一日の間夢中の歓喜の中にあって、ついに死のうとした、観音大師現れて、その手をとって他が為にせよといった、聖観音ですよ、純粋無雑に他が為にあるんです、
「なぜなら、ひとえに心のメカニックだけで、大歓喜し大自在をえるんです、無上正当菩提です、他にはないんです。」
死んだらもうそれっきりだといって、お釈迦さんの苦難に満ちた四十年の行脚です。
観音大師讚に、南面して北斗を見るという語があります、南を向いて北斗星を見る、これを実感として味わって欲しいです、音を観ずる、一音響く世界宇宙全体あるんです、観世音、たとい地球のはしっこの小事件もその一身に起こるんです。十一面観音も首無し観音も同じこと、千手も万手も他に向かって差し伸べるよりないんです、自分がないとは、ぜんたい自分、歓喜の正体これとも、大自在の正体これとも、心というぜんたいです、故にまったく損なわぬものを知るとも、すべての苦しみが自分の苦しみです。
忍というんです、大慈大悲です。
だれだってそうできているんです、たといアラシだろうが横レスだろうが、(もとそうできている自分)から免れないんです。
卍ハ−ケンクロイツは左まわりったって、左卍は向下門といって、もとっから仏教のものだったです。もっともこれ水の流れる様子から来たらしいです、唐草模様もそうですし、火炎土器もそうらしいです。
せっかくの仏教です、解き放つ方向です、上乗せや金縛りしてハイルヒットラ−じゃない、解脱です、自分というどっ汚い着物をいったん脱ぐんです。着物を脱ぐことならだれにだってできます。
若い人だって同じです、化石言語ふるって一所懸命やっています、単純きわまりない仏説です、一人でも二人でもほんとうを得て下さい。
心の問題が急務です、小学生を殺して自殺した人も、九年間監禁男も、わずかに心の持って行きようを知らなかったんです
人のことは我がことなんです。
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