人生もとの木阿弥に
人生もとの木阿弥にいったん戻って見る方法、だ−れにだってできる、生まれて初めて宇宙風呂どっぱり浸けの、なんにたとえようのない感慨。
でもってね、あ−そうだったかといって、ほんとうに自分を見極めることができる。
だってなんだって、自分てたったこれしきのものです。たとい何いってみたって、手足胴体と地球一切。
仏教二千年来のことだてにあったわけではないんです、今様心理学哲学等では決して届かないもの、たとい二十一世紀も人間乃至は物本来変わらないんです。すけべじっさが信用ならぬより、わたしを利用してあとポイ捨てすりゃいい、だれの為でもない、自分一個の無限の開放、ことの真相、
「生きててよかった。」
という、たった一回切りの人生です。
棺桶に片足突っ込んでから後悔したってもしょうがない、だれのなんの物差しをも仮らず、おのれ一個天上天下唯我独尊です。
もし思想観念でそういうことしたらヒットラ−です。
すべての赤ん坊が七歩歩んで天上天下唯我独尊です、いったんそこへ帰ってみりゃそれでいいんです。
諸般の事情−おのれを取り巻く環境に振り回されて、自分を損なう、大切なまっさらな心です、親から天然自然から授かったそれです、たかが人生百年なんぞで売り払わないんです。
自分というこの手に委ねられた一枚切符。
淋しいからどうの腹いせでどうのじゃないんです。求めなければ得られないんです。
自分こうありゃ法律が守ってくれる、みんな平等お客さまは神さまのマスコミいっしょくたじゃないんです。
せっかくの自分をだめにしている何か。
だめでもとっこたって、木の葉一枚小鳥のさえずりさえ、遠くて遠し、せっかく同じこの世に生まれながら、さっぱり手が届かない、だめっていう無意味の疎外ってことあります。
ちらっとでもいい花一輪ほんとうに見る、
「もういつ死んだっていい。」
という有頂天があります、涙ぼうだ。
人類の歴史百万年のそのどこへでも行き通う、そりゃ当たり前です、石っころ一つ大空の雲どこへ行ったってなに変わりようがないんです。
実感として味わって下さい。
それにはまず自分という思い込みの、架空の着物を脱ぎ捨てることです、身心脱落−脱落身心という他にはなんの方法もない。
色即是空空即是色、とやこういう架空の色眼鏡をとって下さい。
お釈迦さまの修行体系もやっぱりいらんです、十牛の図あるでしょう、実にその通りなんですが、あとから見るとまさにその通りなんで、現実にはどっちの方向行っていいかわからない一図のときも、十図の完成すっからかんです。
そういう思い込みが人間の性っていう、思い込みもみ−んな完成図。
途中受用底の本来です。
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