自分というものがもとない


 至りえ帰り来たって別事なし、柳は緑花は紅。という語があります、忘我という行ったっきりになると、(そういうこともあります、バリ島十六ビ−トに踊り狂って忘我になった人とか、それっきりって廃人になってしまうんですが、仏教ではよくこの事を弁えるということがあります、へんな神さまとか余計こと付け加えないんです。)役に立ちません。行って帰って来る、つまり思想の主としての生活があります。自分というものがもとないことを知っての自分です。詭弁ではないんです、わたしの実感としては、自分に出たり入ったりというふうです、思想にとらわれないんです、どのような事件、思想宗教イデ−イデオロギ−芸術音楽歴史人物とか社会とか、そういうもの一切がお客さんとしてあるんです、別に私がアインシュタインより頭いいってんじゃないんです、頭下げたら下げっぱなしってことない、白雲去来すれども山おんなじです、お客は引き上げるんです。

 当然でしょう、当然のことが悟る=自分というものを知る以前はできないんです、必ずなにものかに囚われ引き摺り回される人生です、声色の奴卑と馳走すといいます、奴隷になって走り回るんです、せっかく出世間も今度は仏教に囚われたりします、柳はみどり花は紅もすっきり行かない、借金地獄−他人からの借りものばっかりでしょう、どのような判断もああでもないこうでもない、だれかいったこう聞いたの物差しばっかり、喧嘩するさえおまえは悪いおれはいいだからってやってます−の色眼鏡じゃ、見るものの物にならない。ちっとも面白くないんです。

 九のまり十まりつきてつきおさむ十づつ十を百と知りせば
 子どもらとまりつきをして遊ぶ良寛さんです、一つ二つ九のつ十とついて、十づつ十ついて、百になったらおしまい。
 貞心尼がこれに付けて、
 君なくば千たび百たびつけりとも十づつ十を百と知らじおや
と、激しい口調でいうんです、あなたが死んでしまったら、たとい百回千回ついたって、十づつ十を百と知る人がいるだろうか、たといまりをついたって、まりがつけていない、だれなにやらかしたって、うそっこんだよっていうんです。
 人間うそばっかりの地球のお荷物。

 どうですか、悟り終わった人の消息、別事なしってことわかりますか。良寛さんを特別人間みたいにいいますが、よく見れば、人と違ったことなに一つしていません。
 人は悟り終わって悟りなしの、
「ただの人。」
になるんです。それまでを迷悟中の人といいます。
 迷悟中でないもの花一輪。

 花に、
「あなたはだれです。」
って聞いてごらんなさい。
「知らない。」
って答えるんです。
 私は菊で、くだまきというやつで、色は何色なんのたろべえに育てられて、栄養はどうでなにがどうで、上を見ればきりなし下を見てもきりなし、まあこのへんでといいだしたら、それっきり見るのもいやになります。

 花=如来。人間の如来はたとえば、こんなふうです。
 梁の武帝達磨大師に問う、如何なるか是れ聖諦第一義−仏教のエッセンスとは何か。
 磨云く、廓然無聖−がらっとしてなんにもない、個々別々。
 帝云く、朕に対する者は誰そ−そういうおまえさんは。
 磨云く、不識−知らない。
 知らない人になって、ほんとうにまりをつく=実際なんです。


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