自分の立場を守らない


 自分の立場を守らないとはどういうことだと思いますか、時所位、あるとき是あるとき不是という、自分という氷ではなく方円の器に従う水である、自分という架空事、そういう思い込みのないことです。するとただの子供赤ん坊の舌頭たたわわなんです、ついに物を得ずです。
 どうですか、そうやって一生を生きること本当に面白いんです、100%200%するんです。
 そうして間違わないんです。禅に批判的だろうが反仏教もでたらめも心理学もどうしようもないのも、まっさらな目には一目瞭然なんです。
 自分がないんです。
 どう対応したらいいかといって、対応以前に答えが出ている、こりゃどうしようもなくはっきりしてるんです。
だからそれを是とする人には道があり、不是わからない、云うこと聞かぬ人には、そりゃこっち引き下がるよりないです。またの機会ということです。
「人は大悟したほうがいい」ではなく「迷妄を住処とするな」です。
 悟り=目覚めて下さいということです、はた迷惑禍殃累生に及ぶとむかしから云われている所以です。
 あしびきの山鳥の尾のしだり尾の長長し夜明けにけるかな
 目覚めて下さい。

 仏とはほんとうのわたしに行き会うことです、とやこうあげつらうことではなく、他にはないんです、自分に行き会いこれを長々出させる。
まったく一個の道=万法に通ずるんです。
 方向がどっか違ってやしませんかと、まず顧みることだと思います。
 ちらとも見ることあれば、ものみな一切です、
「そうか。」
ということあります。
「それまでの知識・体験に基づき、自分にとって良く、実行可能だと思ったことをやっているだけだ」という箇の形骸−どんなに卑下したってこれを思い上がりと云うんです−をぶち破ること、乃至は「と自分を見ている」その自分如何と問う−問うもの問われるもの自分なんです−二つが一つになって消え失せる=無心です。
 すなわちなりふりかまわず、むちゃくちゃといったぐらいです。
 どうしよもない自分というのがあり−自分というに従いどうしようもないです、これを万事お手上げする、
「なんというまあおれは」
という皆懺悔です、皆由無始貪嗔痴の反省です、なんというまあ、自分じゃどうにもできん、
「仏よなんとかしてくれ」
といって坐るんです、まくじきこまっしぐらこれ。
 釈尊のむかしから変わらんです。
 通身問えば即今答です。


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