自分は何か


 自分は何かと知るのに、故人幾多命がけの参究があったんです。なぜでしょう、あるがまんまを知るのに、あるがまんまじゃだめってことあるんです、従前の心をもってしてはどうもならんのです。でなきゃ仏法なんてあったってなくったって同じですよ。
 心とはなんでしょう、心は二つはないはずです、でもなぜか、
「自分はこうだ。」といい、
「あるがまんま。」といい、でもってどうだ、それだからと、ついには際限なくやっている。どういうことです。
 心が一つなら不可能事です。

 あるがまんまを観察する自分てなんです。心意識として、ぽっと出る、するとそれに対して、こういいああいい、またそれにと続くんです。
 ぽっと出るのはすぐ消えちゃうというか、ぽっと出たきりなんです。
 だから残像、すでにないものに対してああだこうだ際限なくやるんです。
 ふつうこれを心といい、それの集合体インテグラdtを自分といっています。
 ないものから発する−根なし草です。

 五蘊は皆空なりと照見して一切の苦厄を度したまう、という般若心経の冒頭はこの間のことをいっています。
 平らったくいえばみんな思い込みだというんです。人間といい自分といい、ありのまんまだという、そういうかってな思い込みの故に、人間の苦厄はあるというんです。
 覚醒せよ、目を開けて見ろってところから、仏の道は始まります。
 ですから思い込みイコ−ル嘘です、架空の自分およびそのありとあらゆる千変万化−五蘊です、その上の砂上楼閣を如来は取らないんです。
 どんなに立派そうに見えても百害あって一利なしです。


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