一指頭
え−とだれだったかな、一指頭の禅は。だれ来たっても指一本立てて示す、まさにそれでこと足りることを知らんきゃ、そりゃだめですよ。あなた絶対に信頼する人に、如何なるか是れ仏法、何を聞き、何をもって行っても、指一本立てられたらどうします。十回三十回百回指一本。さあどうします、むちゃくちゃだ、言葉にできないこったからとか、万法一に帰すとか、無だ空だ、知るかぎり、聞いたふう、ど−んなこと云ってもだめ、ついにどうもこうもならんです。
じゃいったいなんだったんだ、おれっていうこいつ、な−んにもならん、めったらおしまい、え−いそうかってんで、ひょっと開ける。
得ることなく失うものなし、もと如来としてこうある、そんなこと百も承知だって、自分ちっとも満足しない、自分さっぱりよくない、なぜかっていうんです。なぜかっていったってどうにもならん。
これに答えるに一指頭の親切、他のうぞうもぞうの比較を絶するところを見て下さい。小僧が一人いた。師の真似をして、人がものを問うと指一本つったてる。師がそいつを見て、如何なるかこれ仏といった、小僧指つったってる。そいつを小刀で切った。いっつ−泣いて去る。他時小僧を呼んで、如何なるかこれ仏と問う。小僧習慣で指つったてるんです。つったてた指がない。忽然大悟とあります。
無門関も碧巌もほんとうにあったことと見るんです。
でなきゃ意味がない。
ざるといわずなんという、ざるって人が一先ずそう呼んでいるっきりですよ。ざるっていわずに見てごらん、生まれて初めて見るんでもいい。けっこう如実に見られるんです。ましてやそいつがふわっと消えている。見るもの見られるものという、後念知識による思い込みがふわっと失せるんです、かつて夢にだも見ない現実があります。
ちらっともこいつを見りゃいいです。無茶とかニタ−と笑ってるとかいう、それ比較検討上の言い種でしょう、常識ではこうだという一札が入る、そうじゃないんです、ほんとうに自分こっきりに見るんです。無茶もにた−もあるもんじゃないです。
たいてい参禅という人、かならず禅という、仏という、聞いたふうなこと見たふうなことに、ひっかっかりとっかかりする。お釈迦さんの大法を得、仏教という広範なもの、ありがたい人生のしるべとかなんとか、そういうものを手に入れようとし、必死になりいい加減になりです。
大衆三千の中にたった一人免れ得た者がいたんです。花を取って示す、みな右往左往するんです。あなたがまさにそうでしょう。人のうわさをとっくりかえしひっくりかえしです。なにかあるとちらとも思う、でなかったらアホらしいとか。でもみな真剣にお釈迦さんの法を求めていたんです。しかもどっかひっかかる、本来人ではない。
求めずは囚われずなんていったって、そりゃなんにもならんです。人の噂に付和雷同です。まずはこれを免れることから始まる。仏の道です。そうしてどうしてもまた、その仏の道にひっかっかる。
こりゃまあそういうこってす。
わやな大衆なんかいなかったです。就中摩訶迦葉一人葉破顔微笑、なにを用もないことしなさるっていうほどに。これを見てお釈迦さんは、
「我に正法眼蔵ネハン妙心の術あり、摩訶迦葉に付嘱す。」
といって、仏法が今に伝わったんです。
わたしに至って86代です。
ちなみに摩訶迦葉尊者は、お釈迦さんの会下にあって、三年の間身体を横にしたことなかったと云われています。事実と思います。自分というとっかかり妄想を、仏教というちらとも思い込みを、即ちソウ絶するんです。簡単に見えて、そうは問屋が下ろさない。何ゆえに自分を、一個の自縄自縛現象を、ソウ絶せねばならぬか、無門関とはそういう意味です。よろしくよくお考え下さい。
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