一切経
一切経を全部読んだって、そりゃご苦労さん、一昨日おいでって云やいいです。因みに道元禅師は十五歳に比叡山へ上り十七歳に一切経巻を尽くして、畢竟するところ「人間本来本法性天然自生心」ということが解った。それじゃもとこのまんまなんにもせずともいいといって、寝たり起きたりしていた。ちっともよくなかった。これじゃどうもならん、なんとかしようと云って、中国へ渡るんです。
本来本法性も、なを証せずんば現れずということを知って、ついにこれを証拠するんです。
たとい一切経を尽くしたって絵に描いた餅です。
これを知らんきゃそりゃしょうがない。ばかったいきりだ。
たとい一切経を尽くして、一言で云うとどうなるか、自分にとって何かということ、他人をやっつてけ議論に勝つ為の仏教じゃないんでしょう。ひけらかしたってなんにもならんです。無駄なことは無駄です。なぜそんなことをするか。真っ正直に問えばいいです。
それができなきゃ自分も無駄ことと違いますか。
阿難尊者はお釈迦さんそっくりに説法して、どっちがどっちだかわからん位だったそうです。けれども大法を得る−その説法の内容を得る、一切経の示すところを知る−には二十年の歳月を要したんです。
こりゃどういうことか、一切経=自分のことです。自分について研究し、説き明しても、やたらうるさったいばかりで、なんにもならない。歩くのに歩き方をとやこう云うと転んでしまう理屈。自分について忘れ去りゃいいんです。覚えていることが邪魔になる。如来来たる如し、ただってことです。まったくの手付かず。即ちこれが一切経の意味です。他ないんです。
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