いいだとういん さん
そうなんですなあ、漱石のころも禅門大いに流行ったんだけど、本来人ほんものと来たら皆無だったんです、無字の公案隻手とかあって、先ずこれを得てという、いったい何を得、何がそれからなんか、正直に自分に聞くことをしない、いっぱしのものになるか、商売道具になるかっていう、卑しい根性っきり、禅道何段とかいう代わり、なんとか禅師の免許皆伝な、あほらしいったら、役者みたい所作したり、公案マニュアルあったり、噴飯ものは白陰禅師のころから、もうおっぱじまっていたです。
飯田木党陰さんという人は、東大医学部インタ−ンであった時、コレラが大流行りして人が大勢死んだ。それを目の当たりして、医学では人は救い切れぬといって、禅門を叩いた。坐中にぶち抜いたそうです、痛烈にやって、ようしってわけです、英国にスペンサ−という哲学者がいた、あいつ偉そうなこといってな−んも知りゃがらん、説得に行こうといって、もう少し坐ってみようと、あっちこっち参禅した。
そうしたら、仇名南天棒という、身の丈二Mもある有名な臨済の宗乗がいて、そいつの常套手段、
「無といわずになんという。」
というのに、ひっかかった。
由来十八年南天棒に参ず、あるとき南天棒とその高足の話を意なく漏れ聞いた。
「飯田居士もずいぶん長い、そろそろ許してやったらどうか。」
「うんそうしようか。」
というんです、木党陰さんこれを聞いて、憤然として袂を分かつ。
「自分で自分が許せぬのに、なんで他人が許せようか。」というのです。100人〜10000人の参禅者のうち、これを云い得るもの一個半個。
お釈迦さんと同じなんです、他のだれが是といっても、自分是でなけりゃな−んもならんてこと、三つの子どものように知っていたんです。
参禅とはどういうことか、いつだって初心そのものに帰って問い質す必要があります。
禅定が欲しいのか、大満足が欲しいのか。
仏教が欲しいのか、自分が欲しいのか。
そうだおれはと納得すれば急転直下、いつの世だろうがまったく変わらない真相です、それを何事かことを構えれば、百年河清の遠くて遠いんです。
その代わり、これを得てなんにもならんです、他にひけらかすこともできねば、いっぱしの者にもならず、禅だといって売るどころか、かえってひた隠ししてえへら笑っていたり。
でも、眼横鼻直にして他に瞞ぜられず、まったく微動もせんてことあります、一人暮らして行ければ王候貴族ってね、うっひっひこうやってエロじじい、どっ気違いやってます。日々是好日ってことの本来があります。
飯田木党陰さんは、独力で道元禅師の只管打坐を復活させた。
どこ尋ねたってらしきものはなんにもなかったそうです。独力っていうのは、そりゃ結局独力なんだけれども、なかなかのこってす。
「南天棒仏教のブの字も知らず。」
と、後にいってます。只管打坐、
「初めの悟でよかった。」
ということです、そりゃねどうあったって、まっぱじめでよかったんです。わかりますかこれ、帰り着くところです、自分というものないんです、だれの証明も要らんです、というと我田引水あっちこっちでいけないから、ちゃんとさせる。そりゃま、だれ何いって来たって、一目瞭然てことあります、臨済みたいにパカッとやれりゃ痛快なんだけど、やらなくたってばっさり切ってる、相手切られたこと知らんだけです。戦に負けようが、しっぽ巻いて退散も同じこと。
出会ったら勝負ついている。
木党陰さん医者だったけれど、六十歳大趙州に因んで出家するんです。資格を取るってんで発心寺安居した。大雲祖岳老師が堂頭であった、室に入っていっぺんに透過する、後を譲ろうというの約束が反故になった、仕方ない木党陰さん追ん出て山門前の小屋に住んでいた。朝っぱらから塩引き買って飲んでたら、
「とういんさんこれこれしかじか、罰当たりやってる。」と衷心に及ぶやついる、
「もっての外。」
だってんで祖岳さんやって来て、一睨みされてすごすごって話がある、他にもいろんなのある。
でもな、当時、
「行ない悪かったけど、祖岳さんより木党陰さんの方が力量あった。」
という、そりゃぜんぜん当たってないんです。木党陰さんには仏教あったけど、祖岳さん仏教のブの字もない、あるいは木党陰さんに一物の仏法なく、祖岳さん仏教浸け。
実際沢木興道老師と並び原田祖岳老師、宗門に担がれてもう少しましなとこあったら、今のこの衰退はないんです。残念です。発心寺のでたらめもって、見性禅の悪評判を買う。早く許し過ぎる、あるいはちゃ−んとやっているものを、その上に変な上乗せする。そりゃ味噌の味噌臭きは上味噌にあらずという。でも発酵しなけりゃ味噌にならない。悟のない仏教なんて問題にならんです。ただの常識倒れ。
でも、白陰禅師のむかしから、わからない至らぬ分が難しくなっちゃう、大騒ぎして、騒いだ分だけ偉くなっちゃう、どうもこうもないです。
そんなこといらんです。
わずかに自分に決着つければ足ります。
わたしは、必ず過った方向には行かない指示をします。
くったくなく聞いて、質問して各人かってに坐っていてたいてい十分です。かってにって自分勝手ってこっちゃないです、仏教を付け加えるんじゃなしに、余計物取り去る方向です。何物か形作るんじゃなしに、もとはじめっからある方向です。
つまらん苦労しないことです。
戻る