イデオロギ−
イデオロギ−っていうと、檀家に共産主義いて、たまたまわたしの書いたもの見て、
「なんにもね−なんてばっかいってないで、もっと大事なこと書け。」
といわれて、では書いたものとか見せないようにしてたら、
「共産主義も仏教も同じものだ。」
といいだすから、つい違うといっちゃった、どうもこれいいことはいいっていう、信仰みたいな共産主義、ほっときゃいいのに、とやこういっちゃって、そっぽ向く。
でも日本イデオロギ−って、そういうこと多かったんです、思想=共産主義ってことあった、西洋音楽を聞くのはいいことだ、だから聞く方式の、好き嫌いいいわるいの、まっぱじめがどっかぶっ飛んでいる。
至道無難唯嫌揀択ただ憎愛無ければ洞然として明白なり。という仏教の根本、これは是非善悪に管せず、とらわれない、どんなことからも元まったく自由であるその本質です。
ところがそういうことだからという、お仕着せしたら、思想=共産主義、なんだっていいことはいいからってことになっちまう、臭いものには蓋みたい−なあなあ式、それ自身イデオロ−グってことです。だから日本人に必要なのは、さまざまな思想をちゃんと見る目、憎愛取捨選択が出来る−ノウと云える、ということです。
そうしてもって、これほんとうに出来るってことは、とらわれないってことを知る。
ヨ−ロッパもアングロアメリカもこれ出来ないんですよ、必ず囚われる、とらわれることはよいことだが、連中の基本姿勢なんです。
キリスト教もマホメット教も、どうしたってこれ囚われるというところから始まる。信仰という、こっちの神様絶対ってこと、異端と差別する同じ羽根の鳥。
そりゃイデオロギ−も同じです、イデオロギ−には奇跡とか超個人的夢中の喜び、我を忘れてっての希薄です、その分物足りないかというと、ナチスでもポルポトでもヴォルシェヴィ−キでもまあ集団狂気っていうか、拷問ていうかいろんなことやっている。
イデオロギ−とイデオロギ−殺人と、どんなにすばらしい思想だって、クジラは殺すなといったって、それ信奉しちゃ即殺人てことあります。
恐ろしいんですよ、番外の者は死んでもいいって発想なんです、100人が100人オリバ−・クロムウエルってね。
一神教の人はこれを免れえない、なぜかってこと洋の東西を問わず、考えなきゃならん時です。
たしかにマホメット教のほうが、おっしゃるようによっぽどましってことあります。神について難しいこといわんてだけでもましです。
でもどっちにしてもこれを正確に見極めるには、とらわれない、番外ってことです。番外って、生まれておぎゃあといって番外ですよ、人間意外の地球生物無生物みんな番外地。
もとっこ思想宗教イデオロ−グの戸籍番号ないんです。
東山水上行ってそういうただの風景です、三つの子が月動くか雲動くかってとこです。
思想宗教イデオロギ−に出入り自由っての、日本人の最終兵器、あいまいなあなあじゃないんです、正確に見てこれを利用出来ること、他とらわれ人だろうが、こっち囚われない。
「さまざまあって楽しませてくれてありがとう。」
というふうです。
もっともだからといって、どうでもいいんじゃないんです、囚われ一神教の心の張りっていうか、ダイナミズムよりもっとっぴったりってのなけりゃ、そりゃどうしようもないです。
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