服と不服とは医の科に非ず
いってわかるやつと、どうしようもないのいて、いってわかるのには、ぶっ叩いても示すんです、
「生活ってなんだあ。」
てのもいいし、黙って坐らせとくのいっちいいし、
「あなたの夢にも見ないことがあります。」
今までの生活がなんの生活にもなっていなかった、生まれて始めてほんとうってことある、だまされたと思ってという、生活教なら別に仏教なぞいらん、お釈迦さんが出家することなかった、仏の道が常識ごとなら、とっくに歴史の塵になって消えているんです云々。
でもさなにいったってだめなやつはだめ、今このトピでわあわあしてるの、何が欲しいんじゃない、なあなあ会話ってか喋くってりゃそれでいいやつ、こんなの付ける薬ないよ。
そうしたら、ハ−イハイといって、ほっとくよりないです。
仏教はむかしからそうでした、服と不服とは医の科に非ず、説くだけ説いて、その人かなわなければほって置くんです。
生活教という、その生活に破綻をきたして、はじめて仏にすがるというのが、大昔からの定石パタ−ンでした。今は浅薄な考え、ロボット思考というんですか、知識観念の集積回路っていうだけの、な−んにもならん人いて、そりゃそういう教育の成果なんだろうけど、だからいざってときオウムみたい、ま−るでばからしいカルトにころっとやられる。
そりゃなんとかせなとは思います。
でも宗教というのは、本質的に我と我が身心をどうしようかという問題です、ふだんの生活に満足してる人には無縁のものです。
いくらくわしく知ったろうが、そりゃ隙だらけのてんぷら。
だってさ、自分はこれでいいかという、命かけるよりないってとこあります、でなかったら役に立たんです。
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