本来を知る


 出発点とゴ−ルが同じなのに、ではなんにもしなくっていいかというと、さっぱりよくもなんともない、依然として自分に未解決なんです。これでいいんだと云い聞かせ人生です、人もこうだから自分もまあとか、棺桶に入るまでお茶を濁す。これじゃ面白くないです。如来として生まれた意味がない。本来を知るんです、本来あるがまんま。

 修証一如といいます。今の世出家としてのおおかた修行はてんぷらだと思って下さい。見せるための修行、形ばかりあって無内容です。いたずらに厳しいとか騒々しいだけです。
 そうではないんです。仏とは何か、仏はほどけ、自縄自縛するところをほどき終わればもと仏です。知るといいます。修行によって形作られるものはなんにもないんです。心は鍛えようがない、むしろ邪魔っけなものを除くんです。どんなこんぐらかりコングロマリットももとないと知る。金剛不壊といわれる元の木阿弥です。だから救われるんです。仏になるんじゃない、元仏の大海に帰るんです。たどいどんな苦厄も解消するんです。

 ではどうすればよいか。まるっきりただ、手を付けない方法があります。只管打坐、ただうちすわる。自分という自縄自縛の縄をほどくには、これに手を加えない。ところが世間日常は、自縄自縛の縄をいよいよぐるぐるの方向にしかない。だからたとい坐禅であれ、なにかをやると縄いじりです。まずこれを止める方法を発見するんです。
 単純なんですが、なかなかできない、あるときできるんです。すると坐禅は坐禅になって行く、坐るのが苦痛でも修行でもなんでもない。
 心地よいを通り越した心地よさの中にあります。
 そういっている自分も身心ともに失せ切ってしまうんです。
 まるっきり失せ切ると、我と有情と悉皆成仏の実感があります。生まれてより、いや生まれる以前からこのとおり行なわれていたという現実です。出発点とゴ−ルが同じって、これまったく似ても似つかないんですよ。従前の我という、自縄自縛の自分です。そりゃ仮ものです、人の言葉印刷した紙っぺらみたいなものです。時の風に吹かれて舞うんです。本来の我、如来来たる如しは、地球も人類の歴史も二つ三つポケットにするといったふうです。実感としてそうなんです。自分というお仕着せの殻を破る、わずかに突き抜けるんです。際限がないんです。風動かず幡も動かず汝が心動くなり、木の葉っぱ揺れないで、こっちが揺れている。

 このまあ思いももうけぬ実体です。これを得るためなら不惜身命の思いが修行なんです。最短距離を願うんです。師に聞法は必至です、どうやってもどうにもならん、どうかしようとて、食わず飲まず一週間ぶっとうしに坐ってみたりします。はたから見りゃどえらい修行ですが、本人修行だなぞこれっから先も思わない。我未だしの一点があるっきりです。面白いんですよ、気がついてみると、至らぬのは自分がそうしていたってことです。まさに道本円通争か修証を仮らんです。七転八倒なにもかもが自分でやっていた、放てば満てりなんです。七転八倒そのものなんです。
 でもねえこれこれやらんきゃ手に入らんです。
 この今の自分はどうしようもないってところからの出発です。


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