極楽浄土


 あなたね、極楽浄土が想像できますか、思い描くことができたら、それはうそなんです。でもほんとうに、思い描くことができたら、デュ−ラ−やホルバインの百層倍の絵、そいつがかってに動きだしたりします、自分の現実を抽象化するんですよ、摩訶止観等古来あったんですが、オ−ムのように、いいかげん妄像、薬をもってというのはうまくないんです。因みに禅門ではこれを途中段階−取り扱ってはならぬ−と示します。
 まざまざと見えるんです、極楽浄土といっている人は、見られるといいです。というのは仏教という、悟りという知識じゃないんです、そんなこといくらいってもだめです、腹の足しにならんというより、不明なんですよ。

 明日の生活一年二十年後の自分、成長してないと不安だという、ではそういう自分を捨てればいい。
 捨てようとして、捨てられますか、捨てたつもりが同じだったり、無気力、どうでもいいやとか、−
 知識つまり頭ん中で捨てるからです、極楽浄土を云々と同断です。

 たとい座禅でも摩訶止観でもいい、やっているかぎりは捨てられているんですよ、本来になるに従い、捨て切っているんです。すると一年後十年後をもっとちゃんと考えるんです、捨てられている=自分のことを外から見られるんです。乃至は行深般若波蜜と充足した時間がある、満足する自分です、不安が消えている、
「成長なんてしんきくさあ。」
というんですよ。おらそんなえらかねえやとかいって、得るものを得る、平気でものごとやってるんです、人がよっついて来ますよ。

 むかしこんな話がありました。せっかく出家したんですが、物忘れがひどくって、頭悪くて困った、このまんまじゃどうもならんとて、お不動さんのお堂があって、そこへ籠もる。三七二十一日の間坐っていたら、お不動さんが現れて、長短二本の剣を示して、どっちを呑むといった。どうせなら長いのをといって、そいつを飲み込んだ。
 明日の朝からっと晴れて七通八達、つうかあになったというんです。実話なんです。
 ぺいぺいのカメラマンがニュ−ヨ−クいってことばもI don't knowで参っていた、夜中必死に坐ったら、目の前にでっかい仏さんが坐った、ほんとうに、
「手伸ばしやさわれるっていうふうに。」
 という、そのあと外人恐怖症とか吹っ飛んだと、これわたしの聞いた実話。

 悟りは境地じゃないんです、発見です、自分の辺にある、もとどっぷり浸けを、証せずんば現れずです。
 現わすためには、やるんです。


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