御開山禅師打睡一下


 これは道元禅師坐中に忘我、すべてを忘れきっているとは、そういう自分をさへ意識しないんです、あとから顧みるに記憶の欠落です。たまたま隣単に居眠りする雲水がいて、坐禅と眠りとは違うぞといって、如浄禅師が打睡一下する、策を下す。これが因縁によってはあっと我に返る、一念起こるんです。すると自分という身心まったく無うしてものみなあるんです、
「我と有情と悉皆成仏。」
と獅子吼したお釈迦さんの云うとおりの現実です、天地有情と同根一体化、仏教はたったこの一瞬に成立するんです、やったあやりましたといって、如浄禅師のもとへすっとんで行く。
「心身脱落来。」
心身脱落して来ました、やったあとうとうやりました、と云うんです。これに対して如浄禅師は、
「脱落心身底。」
脱落せる心身底、そうじゃないよ、もとっからこうあるっきりだよと示すんです。ここにおいてまったく納まるんです。

 お釈迦さんはそれ以前に仏教というものはなかったんです。あらゆる思いつくかぎりを尽して、なをかつ初発心自分の疑念が晴れなかった。満足しなかったんです。ついに刀尽き矢折れてガンジス河の辺に坐す。忘我の法は自然に得るんです。
「な−るほどなんにもしなくてもいい、もとこのとおりに生まれている、大安心大満足を障害するものは自我である、自分という架空のものだ、これにさえ囚われなければ、如来として宇宙に花開く。」
という自覚です。そうしてこれを仏と云い仏教と名付けた。たとい道元禅師自然に脱落も、仏と云い仏教という何ほどかあるんです。
「やったあ、ついに得た。」
という思いがある、するとはあっと一念起こる追憶が、
「心身脱落来。」
として残ってしまう、すると今度はこれが自縄自縛の縄になるんです。おれは悟っただからの世界です。これを如浄禅師は奪い去る。
「そうじゃない、もとっから身も心もない、まるっきりたった今の、そうさその通りあるっていうのに、何故か身心ありと思い込んで来た、今それが外れた、清々の底が抜けたって、もとこれっきりない、悟るも悟らぬもないさ。」
と云うんです。
「そうか。」
と云って一件落着も、たいていの人悟りを持って大苦労するんです、もういっぺん忘我すると、不思議にぴったり納まるようです。
 どういうふうにぴったり−まるっきりただの人です。
 空手還郷です、眼横鼻直にして他に瞞ぜられず。
 宗教とはこれしかないんです、信不信ではないただの事実、あっちの神様こっちの思想ではない、廓然無聖個々別々です。ぽっかり咲いた花のように不識なんです。


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