達磨廓然無聖 


 無心ということは、忘我においては無心をも知らず、念我においては、まったく自分というものなしに、部屋をわたり庭に出で、人とつきあい車を運転しているんです、水の中の水という、面が面のまんまうつりかわって行くような、スピ−ド感にはちょっと変な気がしたりするものです。でもそれでまったく間違いなく行くんです。洞山大師弟子と行くついで、野鴨子の行き過ぎるを見る、鴨が飛んで行った、あれはなんだって弟子に聞く、鴨が飛んで行ったと弟子がいう、その耳ひんねじって、どこへ飛んで行ったとやる。これ仏教知識の人にはまるでわからんです。たんにただ自分が飛んで行くってだけです。雨といっしょに降ったり、手に持った茶碗の中にころっと入っているんです。それがなんの役に立つかという、
「無功徳。」
達磨さんがいう、
「何か役に立たないとだめかい。」
これが仏教の本来なんです、もとあるがようにある、無心の本来です、それに反することしたら、ろくなことがないよっていうんです。仏教にくわしい人が、有無をいい色即是空をいい、ニ−ルバ−ナをいいたとい百方に説いたとしたって、そりゃいわく因縁です、思惑あってのことなんです。
 無心じゃない、ない人にはあるものは、ほんのちらともありゃ映る、ある人有心の人は気がつかない、困ったことになる、そりゃ立ち去る以外にない。

 梁の武帝達磨大師に問う、如何なるか是れ聖諦第一義。磨云く、廓然無聖。帝云く、朕に対する者は誰そ。磨云く、不識。
 有名な達磨さんの不識です。
 梁の武帝は五胡十六国の時代ですか、一代に建国し孫の代にはもう滅んでしまった、仏教に入れ揚げたせいだというが、敗戦を迎えてさへ敵の王が一睨みでちぢみ上がったというから、なかなかたいしたものだった。仏教の故かも知れない。
 僧をもてなし仏塔を建て、自らも放光般若経というお経を講義した。天花乱墜して、地黄金に変ずという境地を見た、これぞ聖諦俗諦の第一義、きまりっていうんなら、それっきりのものを、どうしても確かめてみたい、三重丸つけて貰いたいわけです。
 そこへのこのこ達磨さんがやって来た。
 なにしろほ仏心印を持つという、活仏だ、ようし引っ張ってこいってわけで、
 如何なるか是れ聖諦第一義。
 とくとくと仏教辺の羅列とおしまい、いやおまえさんっもたいしたもんだと、頭なでてくれると思いきや、
 廓然無聖。
 がらっとしてなんにもないよ、或いは個々別々っていうんですか、どこにもピラミッドなんかないです、まっ平らの平地です。
(そんなはずはない、だって仏教ではないか、地球より重い人間さまより、まだでっかいってのに。)
というわけです、なにかいいことないと納まらぬ気がしている、
(なんだ、活き仏だっていう、こいつはいったい何ものなんだ。)
 朕に対する者は誰そ。おまえはだれだ。
 磨云く、不識。知らない。
 帝かなわず、終に江を渡って少林に至り、面壁九年。
 知らないって、そんなのおまえ、無礼であろうってわけです。そりゃ今これをごらんになっている、おそらく百人が百人、無礼であろうの 梁の武帝です。そうでない人はこの則耳たこだったり。

 でも花をごらんなさい、花におまえはだれだと聞く、知らないって答えるんです。そりゃ花は人語しゃべらないからって、そんなことないです。花がもし、わたしは菊で、いわゆる管巻というやつで、なんのたれがしに育てられて、肥やしはどうで日照時間は云々、上を見りゃ切りもなし下を見りゃ切りもなし、まあこのぐらいでなんていいだしたら、もうそれっきり花を見るのがいやになる。
 なぜか、知らないもっとも親切−ものみな100%なんです。知っている分が嘘です。こりゃ仏教知識じゃないですよ、達磨さんが一番仏教を知らんです。仏祖といわれる人に、議論のネタなんかないです。自分はなんにも知ることない、自分さへまったく知らないんです。人がなにかしらいう、するとそれ違ってるよってことがある、人のよこしまが筒抜け見えるんです、そりゃたいへんだって、たいへんなこた− 悲しく辛いってことあるですよ、醜い、なんともいいようのないあっちこっち、苦笑するよりないです。
 そりゃ花もけものも鳥も、人間妄想の醜さに辛い悲しい思いしてるんです。
 激痛を味わいながら、でも歌い舞いやってるんです、なぜかって無心は傷つかないんです、どんなことになっても損なわないんです。

 達磨さんの正体は、
「知らない」
なんです。どういうことかというと、自分を見ること不可能事を知っている、八方睨みの達磨といって雪舟の傑作があります、あの人唯一人といっていい、無心の風景を描くんです、我無うして見るときに、山水長巻はまさにああゆうふうに見えるんです。
 南面して北斗を見る。
 これが達磨さんの目です。知らないの正体は宇宙一切と同一です、知る必要がないんです、人間という和という花にぽっかり見開いている、わかりますか、仏法のちりの垢なんかつく余地ないです、ただの人ったらこういうこというです。
 達磨さん以外の人み−んな思い上がって、われこそわって他愛ないこと、いたずらにあたりかき濁して平気でいる、なんという無神経殺伐、そんなことするの人間だけなんです、一木一草の微妙さといえば、百日回峰だの余計ことせにゃおさまらん、どうして手つかずの日送りをせぬ。
 少林に至って面壁九年。

 仕方ない、一人っきり坐っておった、そうしたら変なやつが来た、仏の道を聞きたいという、聞きたいたってそんなもん持っておらん、どうせ世間知の色餓鬼めとか、ほったらかしたら、なんと右腕ぶった切ってぬうっと突き出した。
 こりゃむちゃくちゃやりおって、といって振り返った。
 慧可大師一流の学者であり、詩文の大家であった、右腕とはそれぶった切って差し出したんです、命といっしょです。それじゃもう、半分終わってるんです、もとな−んもありゃしない、思い上がった分落ちれば、すでに一件落着。
 あとは自然成を待つ、こりゃだれでも行くんですよ、行かないってそりゃ思い上がる分です、ちらともありゃだめです。わかりますか。
 絵空事いってるんじゃない、思い切ってやってみるんです、仏教が欲しいのか、自分のほんとうが欲しいのか、無常迅速という、では無常迅速とはなんですか、答えられるうちはそりゃだめです、まったく返答に窮したら広大のこの門に入っています。よろしく。


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