大乗と小乗


 大乗と小乗ということがあります。大乗とは何か、自分だけでなく世のため人の為といいます、小乗とはなにか、まず自分自身を目指すといいます。

 一に、世のため人のためといって、自分がぱあじゃしょうがない、ヒットラ−だって、世のため人のためってわけです、とくに宗教だというんなら、その弊害も大きいのです、オ−ム他のカルト集団とか、一神教の兄弟喧嘩もあんまり感心しません。ですからどうあってもまず自分です、自分を空っけつにしないことには、することなすこと、自我の影響下、ひとりよがりの色に染むんです。同じ羽根の鳥を集めて、大勢力を目指す他ないんです。
 では、小乗はどうかというに、ではなんの為の修行かということがあります、インドの行者を見ていると、とやこうの教えに従い、立派な人格をこさえて、それを人に見せようというんです、単なる見せものです、つまらないんです。

「おまえも修行すりゃこうなる。」
といわれて、そうなってからお釈迦さんは、
「なんだこれは。」
というんです、
「初めの疑問がちっとも解決されておらんじゃないか。」
という、ついにはこれらを捨てるんです。
 自分をどうにかしようとする、それをです。

 でも初めっから捨てていたんでは、なんにもならなかったりします。一切を捨ててはじめて得るんです。自分だと思い込んでいた架空の自分、絵空事の嘘っこんです、それゆえに苦しみ悩んだ、その自分を捨てるんです。

 真我というとうそっこんみたい、ほんとうの自分とは、おぎゃあと生まれたまんまの、あるいはそれ以前のもとの木阿弥です。
 このもとの木阿弥=ただです。ただの人はなんにもかまえない、持ってるものがない、ひけらかさない=人間です。
 人の間にいるっきりないんですよ、これ大乗の根本なんです、他に大乗ってないんです、強いていえば、人の間にも自然の間にも同じく有るんです。
 だから自性霊明のまっただ中に暮らし尽くす。
 座禅が座禅になるんです、称名が称名になるんです。

 いくら坐ってもいくら唱えてもむだっことってことあります。
 むだっことなくなるまでけっこう苦労するんです。

 達磨面壁九年、万里の波頭を越えて、とくとくとしてやって来たんでしょう、梁の武帝に会う、帝云く、如何なるか是れ聖諦第一義。仏教のエッセンスは何か。磨云く、廓然無聖。がらんとしてなんにもないよ。帝云く、朕に対する者は誰そ。なにをいう、活仏だ仏心太子だ鳴り物入りでやって来た、おまえさんは誰だ。磨云く、不識。知らんよっていうんです。帝かなわず、ついに江を渡って小林に至り、面壁九年。だれもそっぽ向く、へたすりゃ殺されかねない、仕方ない、一人坐っていたんです。
 そうしたら誰かやって来た、ほんとうが欲しいっていうんです、大法が欲しい、きらきらっとまあまた余計もの欲しいってやって来たかってなもんの、知らん顔していたら、右腕ぶったきって差し出すんです。
「そうか。」
といって振り向く。
 大祖慧可大師詩歌文章の権威でした、右腕を切る、つまりそれを捨てたんです、命といっしょに差し出すんです。
 そうして法は伝わったんです。

 一個いりゃそれでいいってこと、そりゃあります。
 自然も人間ことも、ここへ来ればまったく収まるんです。


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