大悟後の変化
悟る以前と悟ったのちと、なに変わるということないんです、たしかに従前のとやこうああだこうだ、自分という架空なもの(思い込みであり、不明瞭である、自分が自分をなにものかに見ようとする、できない相談です、ないものをあると勘違いする、答えが出ない、出した答えが不確かです。)を中心にする世界は吹っ飛んでしまいます、でもって生まれたまんまに、何一つ変わらないんです。
変わるというなら納りきらんのです、他と別というならオウムのように大騒ぎです。真理を知るから何をやってもいいとか、バカったいことです。
大円鏡智平等性智妙観察智成作所智という如来の四相を、たとえばこんなふうに知ったらどうです。
仏足石というものがあります。石の上に如来、お釈迦さんの足型を刻むんです。如来没後五OO年間他に仏像はなかったんです。その足型の上にお釈迦さんが立っておられるんです。実に如来そのものなんです。
「なんにもないではないか。」
山川草木大空の雲飛ぶ鳥家並みけもの咲く花に月、自分というものがすっかり失せて、すべてがあるんです。如来の足型の上に立ってごらんなさい、あなたも如来です。こういっているんです。
身心ともになしといいます。心経にもあります、無眼耳鼻舌身意、無色声香味触法、もとそのように生まれたものを、いつしか、自分でも知らぬまに、有眼耳鼻舌身意、有色声香味触法、乃至は身心ともにありにどっぷり浸けです。
それをいったんもとのありように戻してみようというのが、悟りです。
従い悟り終わって悟りなしといいます。
「それっきりがどうして。」
仏教だ大悟だという大騒ぎ、仏教大学に大蔵経とかどういうこったって、だいたいいらんものはいらんのです。悟りをいう者は先ずそういう歴史の垢を振り落として下さい、世間流布はなんのあてにもならんです。かえって肝心の事実より、そういう空騒ぎを免れるほうがたいへんだったりします。
この事はただやってみりゃいいんです。
そう難しいこっちゃないんです、へんなのにたぶらかされなきゃ一件落着です。
大円鏡智=目がなくって見るんです、わたしがこっちにあり、自然がむこうにあるハXわたしと自然と一体化するガOです。見解の相違とか物の見方ではない、他にはまったくないということを知るんです。
平等性智=個々別々というんですか、ものみなあるがとうりなんです、神仏がないんです、ダイヤモンドも石ころも人間の価値判断を免れて、自ずから無限絶対です。
妙観察智=自分という価値判断基準を免れて、ものを見るんです、自由自在、孫悟空が世界のはてまで行って、五本の柱があったから、そこへサインして帰って来たら、観音さまの掌という、人間のすること場合の数は決まっているんです、わずかに自分という嘘を止すんです。
成所作智=こうしてもってことを行なえば、過不足なくぴったりっていうんです。
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