物理的な苦しみ 


 物理的な苦しみを脱するのは無感症とか麻薬とか、肉体的に死ぬことですよ、つまり生きることを放棄したいのと同じです。激痛が走るのは、そういう必要性がある、ガンにかかるときはガンにかかるっきりないです、この身心として与えられているかぎりを、一00%二OO%(自分という思い込みの内+外)する=ただの人が、悟り終わって悟りなしなんです。特別や例外に頼らないんです、とはそれだけ自由なんです、自分の二本足で歩くっきりない、この上ない楽しみなんです。

 でもね、肉体的苦痛が単純に肉体的苦痛っての、わりかし少ないんですよ、取り越し苦労の分が多いんです。
 双子の赤ん坊があって、はいはいのころ行ったら、クッキ−一つ相手の口ん中へ手つっこんで食っても、平然二人でやっている、不思議な気がするんです。それが物心ついたころ行ったら、片方が手上げただけで、わ−っと泣いたりする。そのまんまというか、そいつを助長してみんな大人になるんです。痛いかゆいの実質の部分がいかに少ないか、悟り終わって思うことの一つはそれです。

 たとえば死ぬのいやだ、死の恐怖って考えてごらんなさい、ちらっちらっと何秒も思ってないんですよ、ほんらい、
「老人−みにくい−ぎゃ−。」
 終わりってなもんで、老人ていうその跡形もつかないのが、心です、それを四六時中考えている、思い込んでいる、気になっている。
 ばかというより気違いです。
 でね、老人みにくいぎゃ−の他、どう敷衍したってその周辺、ガンだ−死ぬ−苦しいって、別にあとないんです、それをもうおれが死んだらどうなる、どんどんがんがんと、めっちゃくちゃ。

「おれガンなんだってさ。」
といって、一人半分人を救って死んで行くなんて、かっこいいんです。自分がだめなら人救えばいいんです。落ち込むひまなんかない。もう一つ、身心ともになし、自分がないということを知ると、けっこう病気にならんことあります、風邪引いたら摂心てね、脳内麻薬っていうか、いろんなもの引き出すんです。
「痛いの痛いの飛んで行け。」
という、これ正解なんですよ、内より外、ほんらい外っきりなかったりして。


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