仏法
仏法というものがほんとうに行なわれると、実社会各方面にけいげなく−なんのひっかかりとっかかりもなく行くはずなんです。どのようなものも本質的でないなどいうことなくなるからです、ものみな個々別々というのが、廓然無聖という達磨さんの答えに近いんです、ものの価値判断は時所位といって、その時々によるというのが、仏の教えです。
だからなんの支えもつっかいぼうもない自分を考えて下さい。仏教がほんとうに行なわれるとは、仏教のない現実です、山川草木どこのもそんなレッテルないんです、どっかにレッテルが貼ってないか、それによって苦しむのは、自分だということ、いらんことだということ。
偉そうにいってるんですがね、わたしサラリ−マンやったら三日ともたなかったり、そこんところはよくわからんです。
ぜにかねのことはわたしだって、出来の悪いがき二つ育てましたよ、世の中のことってありますけど、みんなひっくるめて大法なんです、当然でしょう、たといなに面白くったって、もとこの中なんです、他にはないんです。
出家しようがしまいがです。
ア−ケイックスマイルってあるでしょう、古代微笑っていう、アポロン像など、
「人類が幸福であった時代。」
と歴史家はいいます、ほんとうに見るからに充足感というか、すばらしいって気がします、でも紀元前だろうが神話世界も、戦争あり残虐ありなんでもありありの時代でした。
「だのにあの幸福。」
ってね、ひょっとして意識それ自体の問題って気がしませんか、ねはんといい、ニ−ルバ−ナもどうも古代微笑の親戚って気がします、なにかまわん、心理学だの資本主義に吸い尽くされてなんにも残らないだの、人口爆発だの、会社人間だの本質だの、マフィヤだの、インドネシアだのなんだかんだの、あったらあったっきりでいいです、そういうのに出入り自由っていう自分です、自分にも出入り自由ってことです。
ぽかっと楽になるんですよ。
木の葉同じっていうんですか、いつの時代に生まれたって、だれに負けず生きる権利あります、クロマニオンの壁画ぐらい描いてみたいってね、あっはっは。
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