仏教と自分


白陰大悟十八遍小悟その数を知らずというんでしょう、悟りという実にまああの人不惜身命たいていじゃないことやっています。でもってどうして行かない。有心だからなんですよ、

「われこそは仏教の第一人者」
あるいは、
「仏教をどうしても我がものにしたい」
それはいいんだけれども、
「仏教をもって」
なにほどかしたいんです。どこまで行っても仏教があるんです。無心になれない、彼岸にわたっていないんです、此岸のとやこう取扱の問題なんです。
このあたりをよくよく見てください。
シャバの世と別れを告げる、難波のことは夢のまた夢、たとい、
「おれはいったいなんであったんだ」
という底無しの反省がないんです、出家のまっぱじめに来るはずの感想ですよ。だからどっか学者と同じに、どこまで行っても、
「仏教のえらい人」
なんです、収まり切らないんです。大切は、あなたの納まり切らない何かです。どこまで行ってもシャバの世の欲求不満ではないか、自分とこの現実世界、流転三界にケリがつかない、ひょいと見たら過現未一切自分の掌の上という、大力量の本来を知らない、そういうことがあるんですよ。
雪峰我今はじめて鰲山成道、しくしく雪ん中でやってるんですよ、足つん出して寝ていた兄弟子が、な−にやってんだおまえって云うんです、
「いや、どうしても行かん、あのときはこうだった別事どうだった。」
施設する、標準を外に求めているんです、
「こうあるべき」
から抜けられない、
「このばかったれ−めが、門より入る物は是れ家珍に非ず、てめえ通身からをもって蓋天蓋地これ。」
と示す。実に坐禅とは
「標準もとっからこれ」
に気がつくことなんです、ことはまったく簡単です、てめえ満足大安心という物差しがあるっきりです。でもたいていそれを間違えるんです、悟った申し分なしといって、朝三暮四を繰り返すのはこれです、知らぬまに標準を外に求めて、自分はの二分裂です。このばかったれ、三日耳を聾することなくんばってことあります。
よろしく。


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