万事を休息する


 なりふりかまわずということがまずあってなんです、至りえ帰り来たってというように、行っておのれの足で踏んづけみなけりゃ、観光案内も出来ないんです、写真からビデオからあるったって、そりゃだめですよ。
 因果無人だから無人の境地っていう、一木一草も生えないんです、人を殺すなら殺せっていう、殺そうたって殺せないんですよ、一人っきりというのは、万事を休息する、悟りの本来がここにあるんです。心意識としてぽっと出ぽっと消えるでしょう、それをそのままにしておけないんです、どうしても取り扱ってしまう、静かになればなるほど妄想煩瑣。

 私ことですが、かつて摂心にわんわんと妄想が出て困った、なんとかしてやれと思うにつけて、ますます煩瑣、まっくろこげになって三日四日やっていた、どうしようもなくなって、お手上げです、えい、どうともなれっていったとたん、ぱあっとな−んにもなくなった。
 がらっとなんにもないんです、心意識が失せたんじゃないんです、ぽっと出ぽっと消えるそのままになった、観察しないんです、心=自分は一つことであるのに、自分の思念を自分が観察する、二人三脚というより、不可能事なんです、つまりなくなった残像を追う、もうないんです、うそっこんです。これがもとに帰ったんです、起こすものと観察するものが一つ=心意識だけ=なんにもない。

 これをもう一つ進めて忘我なんです、至りえとはこれです。忘我のまんまじゃ行ったきりだから、はあっと我に帰る、このときに仏教のすべてなんです。
 それまで一言半句もなかった人が学者仏教の過ちを指摘するんです。六祖大鑑慧能禅師の如きは、文字も知らず、薪を担って往環を行く、たまたま、応無所住而生其心と聞いて徹底するんです。
 我というもののすっかり失せて薪を担っていたんです。
「おうむしょじゅうにいしょうごうしん。」 と聞いてはあっと我に返ったら、
「おうむしょじゅうにいしょうごうしん。」 とこうあったんです。
 そうしてあっちこっちの坊主とかに、
「違うよ、こうだよ。」
 といって歩いた。文字いらないってのわかりますか、でないと宗教とはいえんのです。


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