歩きながら 


 歩きながらどうやって歩くか、歩くのになんの意義がある等考えだしたら、ひっくりかえるか立ち往生です。なんの為にこの世にいる−人生いかにとか、人生まっただ中で考える、ついには自殺ってふうです。
 だからこの答えは、考えいじくっている限りはないってことです。歩くときほんとうに歩く、手つかずの歩くこっきりでしょう。

 自分はなんで生きるか、手つかずの生きるこっきり。
 如来というんでしょう、如来来たる如し、悟り終わって悟りなしの人です、元の木阿弥人間、おぎゃあと生まれたこっきり=ものみなを100%味わい尽くす、四の五のいわないんです。如来ははじめ如去とも漢訳されて、しばらく併記したといいます、来たる如し=去れる如し、よくよくこれを見てとって下さい。

 梁の武帝達磨大師に問う、如何なるか是れ聖諦第一義。磨云く、廓然無聖。帝云く、朕に対する者は誰そ。磨云く、不識。
 仏教気違いの王様が、尊い仏教のほんらい、そのエッセンスは何かと聞いた。達磨さんは、がらっとしてなんにもないよ、個々別々だという。この世のそっくりなんです。尊いもまずいもない。王様たまげて、そういうお前さんは、仏心太子などいわれているが、いったい何者と聞く。達磨さんの答えは、
「知らない。」
です。

 どうですか、花にあなたはだれと聞くと、知らないと答える、でなきゃ見れども飽かぬものにならない。知っている分が嘘です。観念知識の嘘−面白くない、実際の感じがない、ひいてはなんの為にある、人生如何にと考え出す、満足しないからです。
 知らない=如来。
 月は月、花は花、月は月といわず、花は花といわず。これを父母未生前の消息といいます、要するに知っている−観念知識の分−嘘をいっぺん突き破って、もとのとおり、地球宇宙という実際に、生まれたまんまに、立ち返ってみたらというんです。もしこれに満足できなかったら、わたしどもの存在そのものがないんです。

 如来の大自在大歓喜七通八達という、わずかに自分という嘘の殻を抜け出すんです。
 何で自分はこの世に居るか、その答えなんです、答えを出してあまりある、そうなんですよ、生きてこうあることこそ答えなんです、それを知らない、なんていう情けない、ということから仏教は始まる。
 お釈迦さんが如来となってよりの仏教です。

 だから坐禅は坐禅そのものになる道です。人間が人間そのものになる、
「もとっからそのものじゃないか。」
といったって、はあてと首を傾げるっきり、そうじゃないんでしょう、ほんとうにこれと知る、観念知識−嘘を去ってみるとは、忘我の方法なんです。生まれほんらいに立ち返るとは、環境に自分を投げ与えるんです、するとちゃ−んと受けとめるんです。


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