ありのまま
「ありのまま」というのが鬼門なんですよ、ありのままでいいという、ありのままにならない、只管打坐、直指人身見性成仏というんです、只管打坐って、ただうちすわる、まるっきりただすわるってことでしょう、そんじゃただ坐った、これでいいおしまいたって、ちっともおしまいにならない、これでいいたって、なにがいいんかわからない。
直指人身見性成仏って、だまって坐りゃぴたりと当たるってことでしょう、
「で、ぴったり当たったとして、だからなんなんだ。」
そんなもん、足痛めて座禅したって、もうまるっきり無意味ってね。
じゃどうするって問題があって、
一、仏教=自分を発見の旅です、を止めて、観念思想のギョウ舌に走るか、
二、もうそういうのには飽きた、やっぱり仏教=こいつをやってみよう、
の二つに一つってことです。
道元禅師が十五才で比叡山に上り、十八の歳には一切経巻を尽くして、要約するとこうなった、
「人間本来本法性、天然自性心。」
じゃなんにもしなくたって、このまんまでいい、寝たり起きたりごろごろやっていたそうです、でもさっぱりよくない、臨済に栄西禅師という方がおられた、行って聞いてみたんです、如何なるか是れ仏、仏とは何か、栄西禅師応じて、
「三世の諸仏知らず、狸奴白狐却って是を知る。」
仏は仏を知らない、花が自分を知らないっていうのと同じです、ありのまんまということを知らない、きつねや狸のほうが、かえって知っている、仏は仏教は、いいやなんとかはとやる、知っている分み−んな嘘です、さわがしいばっかりだというんです。
「な−にいってんだ、ちんぷんかんぷん。」
道元禅師はそういって、海をわたって入宋沙門となる、世界の中心て中国しかないです、きっと正師に出会えると思った、それがなかなかだったんです、道元さんあっちをやっつけ、こっちをめちゃんこやってます、中国語でもってスゲ−へ理屈ってね、総じて、
「おれも知らんけど、おまえも知らんじゃないか。」
ということだった。空しい、引き揚げようと思ったときに、天童山の如浄禅師に会うんです、正師に出会うということは、面白いんですよ、こっち仏教知らないんです、(知る知らないって、どっちみち使うっきゃない)ちんぷんかんぷんだけど、正師ってことわかるんです、親父に会った、わが遍歴の旅終わりって、夜も寝られん思いがします。求めているとわかるんです、一つの目安は、よく聞いていると、邪師は「あれ」という、正師は「これ」というんです。ありのまんまとはどういうことか、なお証せずんば現れず、
「そのまんまじゃ、ありのまんまにはならんよ。」
「じゃどうすればいいんです。」
「自分で自分を観察してもって、ありのまんまというでしょう、どっかおかしいと思いませんか。」
「? 」
「一つは、なにを基準にありのまんまというか、一は、自分を観察する、その自分はどこにあるかという問題です。」
「そういえば、これがありのまんまだってものないです。自分が自分をって、はあてその? 」
「答えが出ないでしょう、出たらうそなんですよ。」
「どうしてです。」
「自分てたった一つっきりなんでしょ。」
「はい。」
「だったらなんで、観察したり、されたりするんです。」「う−ん。」
とまあこんなふうです、そうかと納得したところで、どうもならん、自分=一つにならんのです。
仏道を習うというは自己を習うなり、自己を習うというは自己を忘れるなり。道元禅師の語です。先ず仏教というもとないものなんです、それをとやこうする、どういうことか、わからないから求めるという、なんの為に、自分と世界宇宙の為に、じゃもとっからここにこうある、−つまり泳ぎ出している余計っこと止める−聞法です、従聞記にくわしい、もうなんでもかんでもさらけ出して聞く、正師はなんもかんも奪い取るんです、着ている着もの剥ぐ、生まれたまんまでいいっていうんです、邪師は別着もの着せる。
次第一つことになる、九割方参禅終わるんです、あとは坐ってりゃいい、一つになるを見ている、そいつがなくなる=坐忘です。ほんとうになんにもなくなっているんです、その間のこと覚えてないんです。たまたま、隣単に居眠りする雲衲を咎めて、如浄禅師一下するんです、これを機縁にはあ−っと我に返る、自分という身心失せてな−んもないのに、ものみなあるんです。とんでもない現象です、「うわ−やったあ、やりましたあ。」っていうんです、手の舞い足の踏むところを知らずです、すっ飛んで行って、
「身心脱落来。」
身心脱落し来たる、やって来ました、とうとうやりましたっていうんです。これに対して如浄禅師は、
「脱落身心底。」
脱落せる身心底、そうじゃない、やったやらんじゃない、もとっからこうなんだよっていう、ありのままなんだよってね。
ここにおいてまったく納まるんです、でないと禅天魔みたい、ど気違いになるんです。生まれついたありのまんま、如来来たる如しとある、「こんなにすごいものを貰い受けたんだ。」というには、ちっと手間暇かかるんです。
仏教という空手還郷の手段が、ながらく目的になっていた、
「今それを得た。」
という、ありのまんまにならないんです。
眼横鼻直にして、他に瞞ぜられずという、教義も契約もない−だから喧嘩もない、ありのまんまの宗教です。
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