あみださん


あみださんには阿弥陀さんなく、お釈迦さんにはお釈迦さんがなかったんです、だからほんとうにこれを得るには、お釈迦さんなく阿弥陀さんなくです、ちがいますか。
禅という、呼び名なければ困ることあるから、単を示すといって禅と書くんです、どういうことかというと、余計ものなんにもない、ただの人です。
たとい嘆異抄あり四十八願も、
「どうしてそんなものがいるの。」
という三つの子供の問いに答えられるものではないんです、大人は、
「そうじゃない、これはありがたい人の心、ものみなのまこと。」
と説く−わたしはこれを厭うものです。
なぜかってわたしも三つのがきんちょだからです。
(阿弥陀あり仏あり四十八あり、ありのままをそのままに表現したという)わたしには、えら−い人、ありがた−い人、ふつ−じゃないすばらし−い人に見える、頭なでられたらうれしいけど、早く逃げ出して、どろんこまみれになって、遊びたいんです。
いい子になんかなりたくな−いってね。つまんない。
仏教は単純な理屈です、研究したり信奉したりだからどうのという問題ではない、ただ仏教の示すとおり成道せよというだけです。
仏の示すところが、自分とその環境の上に行なわれている、そりゃ当たり前のことです。
だからどうのと開き直ったら、ただの壁、うっとうしいだけです、じゃこれをどうするか、あのくたらさんみゃくさんぼだい無上正当菩提を得る、では得るっきゃない。二も三もないんです。
取り付く島もないんです。
もとわたしども一個取り付く島もないんです、たとい釈尊もちりあくた。
ちりあくたっていっていたって、ちりあくたにならない。いってる分にはこっちが、ちりあくた。
沢木興道さんは沢木興道さん、鈴木大拙さんは大拙さん、そのあるとうりにしか見えないんです。沢木さんは仏教とほとんど関係がないんです、大拙さんのほうは、悟り大悟徹底というものを持っているんです、悟り終わって悟りなしの、ただの人ではない、悟りという別ものを求める、白陰禅師がそうだったんです、大騒ぎの人です、大悟十八ぺん小悟その数を知らず−じゃみんなうそだったんです、どうしても自分が仏教をという、初発心の一点が抜けなかった、お釈迦さんは、どうしたら四苦を免れるか−ついに答えを出す。仏教を求める者が答えを出すには、もう一つ初めに帰ることが必要です。
悟の境地じゃないんです、境地なんてはしめっから見るとうり、聞くとうりの平地です。それになぜか収まり切れぬ自分があるっきりです。
やさしく単純なものです。
一個生まれて一個になりたい、それだけのこと。
いったい他に何が欲しいんですか。



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