my jazz life in Hong Kong
Kaoriさん


「英雄は平和をもたらすことができるのか?」

このタイトルが表す「英雄」とはいったい誰のことを指しているのだろう?日本語で「英雄」という言葉を辞書(※1)でひくと「すぐれた指導力と洞察力を持ち、大事業を成し遂げる人」とある。しかし、この映画は中国の映画なので、正確を記すため、中国の辞書(※2)をひいてみれば、中国語で「英雄」というのは、「1.人よりも強くすぐれた才能と勇気を持つ人のこと。2.困難を恐れず、自らを顧みず、人民の利益のために勇敢に戦い、人々に尊敬される人」とある。日本語と中国語ではそう大差ない。しかし、中国語では大事業を必ずしも成し遂げる必要はない、という解釈が出てくる。そうすると、この映画で「英雄」というのが誰なのか?という問いには2つの解釈が生まれるのではないかと思う。

1つは天下統一を成した中国初の皇帝、始皇帝となる秦王(この映画ではまだ統一前なので秦王である)。秦王が英雄であるのは、史実に基づいてある意味事実ではあるので説明不要だろう。もう1つはジェット・リー演じる無名と、トニー・レオン演じる残剣。では、彼らがなぜ英雄か?残剣も無名も、そしてマギー・チャン演じる飛雪もすべて趙の人間で、秦軍に自分の家族すべてを殺されたため、仇をとるために秦王暗殺を企てている。しかし年月を得て、残剣は秦王こそ、広い国土で500年以上も戦争に次ぐ戦争という時代の中で苦しむ庶民たちに平和をもたらすために、一刻も早い天下統一ができる唯一の男と悟り、暗殺を諦めるばかりか、無名にも「天下」という2文字を書き、「これは自分の心を表す。あなたもぜひもう一度考えなおしてほしい」と言い、無名も結局は残剣の意見を正しいとみなし、暗殺を諦める。強い私怨を捨て庶民に平和をもたらすことを秦王に託した、という彼らの行為を英雄行為とみなし、この2人が英雄であるという解釈である。しかし、秦王に託した、ということは、彼らが秦王にそれだけの力量があると見たということであり、彼らが秦王を英雄だと見ていたことなので、結局この解釈でも秦王は英雄である、ということになる。つまりこの映画には、秦王は中国初の皇帝で、中国統一に力をそそぎ、春秋戦国時代を終わらせ平和を訪れさせた英雄である、というメッセージがあるという気がする。しかし、英雄が天下統一を成し、その国を治めるのが果たして本当に平和の訪れになるのか?実際に人気作家の金庸は、チャン・イーモウの歴史の解釈が事実と異なると激しく批判している。私も、この点においては、いろいろと考える。

確かに、秦王はその後中国初の皇帝、すなわち始皇帝となり、広い中国を初めて国家として統一する。あの広い国土をもってしてみれば、それは大変な偉業であろうが、結局は武力による統一である。在位の間(在位わずか11年)に郡県制を施行したり、貨幣の統一などいくつかのいいこともしているけれども、始皇帝といえば、やはり血も涙もない専制君主というイメージが強い。映画の中でも、本人自ら「自分はいつも暴君と言われ続けているが、自分の本当の、国や庶民に対する気持ちを唯一理解してくれたのが残剣とは!」と感動するシーンがある。彼は皇帝になってから暴君になったのではなく、秦王の時代からかなり暴君として有名だったのか?皇帝になってからはもちろん、悪名高い「楚書抗儒」(書物を燃やし、儒教関係者を弾圧した)があるし、これに反対した学者は生き埋めの刑になったということも有名だろう。中国の有名な詞には秦王は月にさえ怒鳴るという一節もあり、彼の暴君ぶりは世間に広く知れ渡った事実であったと思われる。そして彼の死後は農民などの庶民による反乱が各地でおき、秦国は5年もしないうちに滅びてしまうのだ。これらの状況が、現代におけるイラクのフセインや、アフガニスタンにおけるタリバンと一体どこが違うのだろう?と思ってしまう。特に、我々がフセインやタリバンについて得る情報というのは、アメリカ寄りだったりするために、公平に見て判断するということが非常に難しい。フセインの暴君ぶりやタリバンの偏りすぎたイスラム主義は確かにいきすぎていると思うが、一方で彼らの支配の中にはもしかして、我々が知り得てないその地の人々にとってはよかったこと、というのもあるのかもしれない。タリバンが出てきた状況は始皇帝の状況と非常によく似ているような気がする。荒れ果てていたアフガニスタンを平和にできるのはタリバンであろう、とアメリカが援助したからこそタリバンによるアフガン統一があったのではないのか?託した男が、天下統一を成してからはさらに暴君となり、血も涙もないありさまで、おまけにその天下統一は11年しかもたず、その後あっという間に大乱の時代に戻ったなんて知っていれば、それでも残剣や無名はこの男を暗殺するのを諦めただろうか?その場でこれこそが平和であろうと思った判断が、何年か後には、まったく平和とは言えない状況にいつのまにかなっていた、ということは今の時代でも起こりつづけているのではないか?

平和なんて誰が、どの立場から見るかによって、全く違うものになってしまうのでは、と思う。だからといって暴君による専制支配がいいと言っているのではない。暴君の専制支配が始まるのも、きっかけは平和を願ってなのだ(平和という蓑をかぶった私利私欲のため、というのがほとんどでもあるだろうが)。しかしそれが何年かするとすでに平和でなくなる、という状況が歴史上繰り返されている。いったい平和って何なのか。人間がこんなに各自の欲や権力に頭を悩まされ、各地に異なった宗教が存在する限り、世界中のすべての場所に本当に平和なんて訪れるのだろうか?なんて懐疑的になってしまう。

(※1)  三省堂「新明解国語辞典」
(※2)  商務印書館 「現代漢語辞典」


『英雄 HERO』 (2002年・中国)
監督: チャン・イーモウ。
出演: ドニー・イェン。マギー・チャン。ジェット・リー。トニー・レオン。チャン・ツィィー。
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