映画館主F様

生かせ、殺すな?「ターミネーター2」に見る“反戦”

「戦争映画」「反戦映画」?それって実にデリケートな題材だ。特に世の中これほど争い事が絶えまない御時世になると、なおさら難しいと言わざるを得ない。はっきり言って世間の人々のうち、個人的に反戦でない人なんてほとんどいないのではないか? それでも戦争はどうしようもなく起きてしまうんだよね。  そもそも人間には闘争心があり憎悪がある。それは無視できない。はっきり言って自分が今ここで「反戦」と言うのは簡単だ。だけど熱に浮かされたような興奮状態、そのエキサイトメントの渦中では、人は平気で“あっち”に流れてしまう。かく言う自分でさえ、そういう面があることは否定できない。  しかも例のアメリカ同時多発テロ以降キナ臭くなった世界情勢を反映して、昨今は世界中で戦争映画が氾濫したが、真面目に真摯に問題を見つめてみても結局「どこの国」が「どこの民族」に対して「どういう主義主張」で戦争した?と描いていくと、どう描くにせよ結局どこか限界があるような気がするんだよ。
 そこで?というわけではないけど、僕があえて「反戦」映画として挙げたいのは、ちょっと毛色の違った映画だ。それはジェームズ・キャメロン監督の「ターミネーター2」。

 未来での機械と人間との戦い。その人間側リーダーのジョン・コナーが邪魔になった機械たちは、彼を早めに刈り取ることを決意する。一作目では彼が生まれる前に母親(リンダ・ハミルトン)を殺害しようと、殺人ロボットのターミネーター(アーノルド・シュワルツェネッガー)が未来から過去に派遣されるが失敗。この二作目では新たに新型ターミネーターT-1000(ロバート・パトリック)が送り込まれて、少年時代のジョン(エドワード・ファーロング)が襲われる。それに対抗して人間側が送り込んだのが、前作では悪役になっていた旧式ターミネーター(アーノルド・シュワルツェネッガー)。
かくして両者の戦いが現代で繰り広げられるわけだ。 ところがこの旧式ターミネーター、とにかく本来戦闘用マシンだから、やることがいちいち荒っぽい。ジョン少年を助けるためとは言え、敵と見なすと即殺そうとする。そんなターミネーターをジョン少年はたしなめるんだね。決して人を殺しちゃダメだ?と。
 こうしてターミネーターは殺人機械なのにも関わらず、少年から他者を殺さないという事を学んでいく。何とこれだけのハードアクションにして、実はこの映画ではシュワのターミネーターは独りも人を殺さない。足を狙ったり叩きのめしたりはするが、決して人の命を奪わないのだ。この点がとても大事だと思うんだよね。殺人マシンが人を殺さないって逆転の発想が、何より卓抜していると思うのだ。誰もこの映画のこの点については、指摘してないように思うんだけどね。
 この物語の根本には「スカイネット」なる核兵器の戦略システムがあって、これが機械の暴走を手助けしてしまうことになる。すべては元々人間自身の戦争衝動が原因だったってわけなんだが、そう考えると「ターミネーター」シリーズの根本に、そんな人間本能への懸念があると言うことだって出来る。
 もちろん「ターミネーター2」はハリウッドのSF娯楽大作だからして、そこでは派手にドンパチが行われるし、破壊シーンも満載されてる。だから、これを純粋に「反戦」映画と呼ぶのは無理があろう。だが製作したジェームズ・キャメロンの発想の根本には、人間の中に巣くう戦争衝動を何とか乗り越えていこう、乗り越えなければ、乗り越えていけるはずだという考え方が色濃くにじんでいるように思える。
 そうでなければ劇中にサラ・コナー=リンダ・ハミルトンの悪夢として、核兵器による都市の徹底的な破壊の惨劇が描かれる意味もない。その描写は、唯一の核兵器の使用国であるアメリカにして、異例とも言える激しさだ。核戦争の悲惨を描いたはずのテレビシリーズ「ザ・デイ・アフター」や、近作の「トータル・フィアーズ」でさえここまで描いてはいないほどの、それは徹底ぶりだ。キャメロンは明らかにここで、そんな悪しき人間本能が生み出すものを、見る者に実感してもらいたいと思っているはずだ。

 ジョン少年から「生かせ、殺すな」という考え方を学んでいくターミネーター。それを通して、見ている側も同じ思いを共有していく。殺人マシンだって変われるんだ、まして人間の我々ならば?それは「政治色」のないSF娯楽大作ならばこそ伝えられる、何よりの「反戦」メッセージだと思うのだがいかがだろうか?


ロングバージョンはこちら
『ターミネーター2』(1991年・米)
監督:ジェームズ・キャメロン
出演:アーノルド・シュワルツネッガー。リンダ・ハミルトン。エドワード・ファーロング。
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