市街地の西端、山中湖を源流とする桂川の対岸、初狩の高川山より続く小高い峰が途切れた場所に防空監視哨がある。
西方の峰続きの部分と林宝山からの峰が続く東方から南方にかけての視界は悪いが、富士山のそびえる南西方向は遠くまで見通すことができる。サイパン島を発進したB29が昼間に東京地方に来襲する際には、富士山を目標に飛行し、そこで東に進路を変更する侵入コースをとっていた。大月は、この意味において、防空上の要地であった。
跡地には直径5m、深さ1.5mほどの石垣積みの聴音壕と、その西に事務所の基礎が残っている。
登り口の標識です。 | 聴音壕。その向こう側に事務所がありました。 | 富士山を見通せます。 |
大月防空監視哨跡
日本は昭和一六年(一九四一年)一二月アメリカ・イギリス等に宣戦布告をし、第二次世界大戦に突入した。
緒戦こそ戦果が上がったが軍事も経済も豊かな連合軍にかなうはずもなく、昭和一七年のミッドウェー海戦に敗れてからは不利を余儀なくされた。
昭和一七年米爆撃機による本土初空襲があり、空の守りとして「民防空監視隊」が組織された。その時山梨県には甲府・大月・南部に監視隊本部が設置され、その下にそれぞれ一五・一〇・七の監視哨が置かれた。
大月監視隊本部は、昭和一八年暮れに猿橋から大月へ警察署と共に移転し、傘下には、丹波・西原・上野原・七保・大月・笹子・谷村・吉田・精進・河口の各監視哨があった。監視哨は、哨長一名監視隊員九名で編成され、三交代で昼夜を分かたず空の守りについていた。
その役割を、昼は二名で双眼鏡で空を監視し、夜は一名が監視、一名は聴音壕の中で飛行機の音を聴き飛んでいる方向や機種を探り、一名は電話番としてキャッチした情報を本部に伝えるという、分担制で果たしていた。
左にある縦穴は聴音壕の、右の平らの部分は事務所のあった跡である。
監視隊本部では、各監視哨からの情報を、女子隊員が警察電話を使い、直通で東部軍管区へ通報した。
東部軍管区では、これらの情報を、警戒警報や空襲警報を発令したり、立川にある飛行集団本部に連絡し、迎撃の飛行機を発進させたりする判断の資料とした。
昭和一九年サイパン島が占領され、そこから飛び立つアメリカ爆撃機B29は富士山を目標に北上し、東に折れて京浜方面へ、西に進んで中京方面へ向かうという進路を取るようになり、大月の監視哨の役割は重要性を増してきた。
昭和一九年から二〇年にかけて、B29による本土爆撃は三五三回におよび、東京をはじめ二〇〇近くの都市が空襲され、八月には広島・長崎に原爆が投下された。
八月一五日敗戦。「国破れて山河あり」、そして疲弊という無謀な戦争によるつけも残った。
戦後半世紀を経た今、この地から望める大月の町を眺めるにつけ、世界平和が続くことを祈らずにはいられない。五〇年前の苦しみを平和への一里塚ととらえ、この記念標を建てた。
決して戦争賛美の為ではない。
(この文は、当時の大月監視隊本部隊長山口明男氏の貴重な体験談をもとに作りました。)
平成三年
大月公民館
下部には年表が付いている。
大月空襲について書かれている項には、
20年(1945)・8・13
・大月空襲 艦載機一八機
死者 五四人
とある。
行願寺(林宝閣)の東100m、都留高等女学校(現大月短期大学付属高等学校)を見下ろす位置に建立された。
遺髪塚合祀霊名
小山緑 功刀さち子 岩田昭子 幡野親次郎
田口弘子 大村薫 井汲より子 幡野たか
三浦和子 土屋綾子 浅井満智子 水越栄子
能登ミツエ 中山民子 天野五四子 三枝あや子
天野久子 佐藤幸子 吉角大久美 石原錦子
中村不士子 上野和子 高麗雅子 小俣浦子
遺髪塚の記
太平洋戦争もまさに終わらんとする昭和二十年八月十三日午前八時二十分思いもよらぬ無差別の空襲たちまち悲惨な地の地獄と化した都留高女このたった数分の挙があたら十数名の尊い命を奪う戦い終わり悲しみの中に校葬を挙行遺髪を塚に納めて弔う三十年旧都留高女校舎の歴史を閉するの時生徒会の名にて碑を建立今年三十三回忌に当たり同窓旧師四百余名挙りて遺髪塚を整備し懇ろに回向して永久の冥福を祈る。
昭和五十二年八月十三日 遺髪塚整備委員会
終戦既に五十年歴史の重さを痛感しつつ旧師同窓願い一つに遺髪塚をば大改修し追悼の法要も営み、以後の管理を都留高等学校同窓会並びに学校当局にゆだね、永久の供養と歩み来し五十年の思いを託し万感込めてみ霊の冥福を祈る。
平成六年七月二十四日 遺髪塚管理委員会
駒橋発電所の近くの厄王山神社の境内にある。
平和祈願之石
昭和二十年八月十三日午前八時三十二分米軍艦載機は突如大月町を襲い山間の町民に恐怖の中で甚大な被害を与えた
この時投下された爆弾の一つは桂川で爆発しその爆風は一、五トンの石をふき上げ百余米の高さに達したという
附近は国道沿いの人家密集地であったがこの石は厄王大権現の霊験によって当山地先に落下し町民はあやうく難をまぬかれた
時移り世が進むにつれ世人びと厄王大権現を畏敬し当時落下したこの石を、平和祈願の石と名づけここに安置したものである
昭和四十七年四月八日
大月市長
志村寛
識
無辺寺の上、大月市街を見下ろす林宝山中腹に建立された。
そもそもは、戦没兵士を祀る碑であるのだが、碑の裏側、しかも台座に大月空襲の犠牲者の氏名を刻んだ石板が埋め込まれていた。
しかし、それ以外の人たちの名前も見られる。この方たちも大月空襲と何らかの関係があるのだろうか?
お心当たりの方は、メールか私の勤務先に電話をいただきたい。
写真をクリックすると拡大します。 |