「大月空襲」についての試論 (梗概)
                              64201005 深澤 眞
                               指導教官 高岡裕之
1.テーマ設定の理由
 昭和20年(1945年)8月13日。満州事変より足かけ15年にわたって続いたアジア太平洋戦争が日本の無条件降伏という形で終わるわずか二日前。私の住む町大月がアメリカ軍の空襲を受けた。既に57年を経過し、空襲を体験した大半の人は鬼籍に入り、町並みはその跡すら残していない。記憶はますます風化し、そして記録さえも曖昧のうちに片隅に追いやられ、過去のものとして葬り去られそうな感がする。
 「大月空襲」は多くの尊い人命を奪った不幸な出来事である。不幸な出来事はこのまま風化し、このまま忘れ去られたほうがいいのかもしれない。しかし、「戦争」を考えるにあたって、この不幸な出来事は、身近で貴重な財産となる。負の財産である「大月空襲」を忘れ去るのではなく、次代に「戦争」と「平和」を考えるための正の財産として伝えていくためにも、事実をできる限り正確にそして具体的に記録として残していく必要があると思う。また、その過程で空襲の犠牲となり尊い命を亡くした方々の個別的状況を明らかにしていくことは、その悲惨な状況の中での死に対し「平和の礎」としての意義を与え弔うことになると同時に、われわれの心の中に生き続ける永遠の命を与えるものであると考える。
 この二つの理由により、都留文科大学大学院文学研究科の修士論文として「大月空襲」をテーマに取り上げることにした。
 
2.研究課題
 「大月空襲」については、現在のところ大月市総務課が編集した『終戦二日前 〜八月十三日・大月空襲の記録〜』(1984年)の他、大月東小PTAが編集した『戦いのあとに 〜子どもにおくる戦争体験記』(1977年)と、遺髪塚整備委員会が編集した『み霊に捧ぐ』(1978年)という三つの刊本があり、また、『大月市史』(大月市編纂委員会 1978年)をはじめとする何冊かの刊本にも関連した記事を見ることができる。
 いずれも、空襲にあわれた方々の体験談を中心にして記述されており、その惨状を知ることができるが、以下に掲げる基本的な三点について、未解明の部分が残されている。
 
  @ 死亡者の情報があまりにも不足している
 『終戦二日前』の巻末に空襲犠牲者の名簿が掲載されているが、年齢が不明だったり、苗字だけしか書かれていない人もいる。また、名簿に記載された人々が、どこで、何をしていて、どのような形で亡くなられたのか、本文の記述を読んでもわからない人が数人いる。それ故、死亡者数もまちまちで、未だに確定していない。
  A 来襲した機種や機数、投下した爆弾の種類と個数が不明である
 ある人はB29が来襲し、焼夷弾を投下したと言い、また別の人は来襲したのは艦載機だと言う。また、同じ小型機でもロッキードP51である、いやグラマンF6Fだ、と意見が分かれる。さらに、着弾した地点についても、市街地の周辺にも多数投下されていることが書かれているにもかかわらず、特定されていないなどの不備が目立つ。
  B なぜ大月が空襲を受けなければならなかったのかという理由が解明されていない
 空襲を受けることとなった理由の一つに航空機の製造をはじめとするいくつかの軍需工場があったことをあげる人がいる。しかし、そこではいったい何をどのくらい造っていたのであろうか。そして、当時の大月は、戦時下の日本においてどんな位置を占めていたのであろうか。戦時下の大月についてはあまり知られてはいない。
 
 本論文は、以上の3点を中心課題として論を展開した。
 
 
3.研究方法
 研究の方法としては、「大月空襲」に関して記述された先行文献を参考にし、新たな資料の発掘と分析、及び実踏調査による確認と表や図版等の作成により、これまでの記述を修正、補完、追加していく手法をとり、三点を中心として、「大月空襲」の全容の解明に努めた。
 
4.論文の構成
・はじめに
 上に述べたような本論文を執筆するにあたっての動機が書かれている。また、使用資料に関する但し書きや、論述にするにあたって留意した点を書き留めてある。
・本土空襲に至までの経緯と時期区分
 「大月空襲」に至るまでの、満州事変に始まるアジア太平洋戦争の経緯と日本本土への空襲の時期区分について概説してある。
・刊行本に書かれた「大月空襲」
 「大月空襲」について書かれた刊行本に、それがどのように描かれているのか、どこまで研究が進んでいるのかを、主に犠牲者数や空襲した飛行機の機種や機数、投下した爆弾の個数についての「数値」に注目し、その概要をまとめてある。
・空襲を受けた理由
 大月駅開業以後の大月の発展、刊行本の中に描かれた戦時下の大月の町の様子、戦後の航空写真に写る大月の家並みなどから、大月が空襲を受けなければならなかった理由を、交通の要衝、発電所の近くにいくつもある大きな構造物、そして地下工場の可能性の三点に求めた。また、戦時下の大月にあった大きな構造物について簡単に説明を加えている。
・来襲した飛行機の種類と機数
 これまでに刊行本の中で述べられた体験者による空襲の有様や、新聞報道や公的機関の年代誌等から、「大月空襲」がグラマンに代表される艦載機によるものではないかと推論した。
・空襲で被災された方々
 これまでの研究成果を踏まえ、新たに発見した市有文書や学校文書、自ら取材した関係者たちの証言等をベースにし、一人ひとりの個別的な被災状況を明らかにしていった。証拠あるいは証言がどうしても得られずに推論に終わったものも数名残るが、年齢、住所、職業、被災場所などの解明が少しは進んだのではないかと自負する。また、文書の精査から1名、そして新たな取材から1名、計2名の新たな「大月空襲」の犠牲者を発見した。
・爆弾の着弾地点と家屋の被害
 被災者と同様に、新たな資料や証言にもとづいて着弾地点を確定し地図に表すとともに、家屋等の被害状況を数値で示した。
・「海軍・海兵隊艦載機戦闘報告書」に記された事実
 来襲した飛行機を、アメリカ海軍機動部隊に属する空母から飛来した艦載機であろうとの仮説の下に、国立図書館で米軍の文書を見せていただき、「大月」とは明示されてはいないものの、大月の8km東にある富浜(鳥沢)の文字が見られ、しかも鳥沢の場所が緯度と経度によって示されている航空機戦闘報告書を発見した。
 1945年8月13日には、富浜は空襲を受けてはいないこと、報告書に述べられる町の様子が大月の様子に酷似していることから、この報告書は「大月空襲」のものに間違いないと断定し、そこに記述されている内容から、大月上空に飛来した航空機の種類と機数、大月に投下した爆弾の種類と個数、そして空襲に至った経緯と理由を分析し、論述した。
 数値的な部分は本論の各種の表を参照していただきたい。ここでは、空襲の理由について簡単に述べておく。
 報告書を読むと、当初の攻撃目標(primary target)は、川崎にある東京芝浦電気であったことがわかる。しかしながら、目標地点上空に到達したものの、厚い雲に覆われていたため、効果的な攻撃が加えられないと判断した飛行隊群は西に進路をとり、爆弾を投下するのにふさわしい新たな地点を求めて雲上をさまよう。そして、たまたま雲の切れ間から工場群とその近くの発電所が見えたことにより、代替目標としてそこを攻撃することとした。その場所こそが大月であり、つまり、「大月空襲」は、初めから計画されていた空襲ではなく、たまたま雲の切れ間から見えたために空襲を受けただけであり、偶発的な出来事であったことがわかる。
 しかしながら、大月にダムと大きな構造物がなければ空襲は受けないわけであり、それらが誘因となった点で、いつかは空襲を受ける必然性を持ち合わせていたとも言えよう。
・二つの「もしも」
 歴史学に、「もしも」はありえないと理解しつつも、1945年8月13日という、わずか終戦二日前の出来事であることから、つい「もしも」が口につく。
 一つの「もしも」は、もしも13日に大月が雲に覆われていたならば、その日はもちろんのこと、残りの二日間においても空襲されることはなかっただろうということ。
 残りの一つの「もしも」は、もしも12日に連合国の天皇制をめぐる回答の真意を理解し、ポツダム宣言を受諾していれば、戦争そのものが集結し、空襲はありえなかったこと。
 偶発的、人為的、何よりも終戦わずか二日前の出来事であることに、やるせなさを禁じ得ない。
・終わりに
 今後の研究の方向性について触れ、「大月空襲」に関する研究は行政の手で行われなければならないことを訴え、「大月空襲」と関連して戦時下の大月の様子についても研究を進める必要性を説く。
 
5.成果と課題
 以上、つたない研究であったが、添付する参考資料リストにあるように各機関の所蔵する文書等の新資料の発見や、文書の精査と聞き取り調査により2名の犠牲者の追加、米軍資料による「大月空襲」に至るまでの経緯とその理由など、本論文の研究課題とした三点についてある程度の成果を上げることができた。今後も、さらなる資料の発見や発言の採取、高岡助教授をはじめとする様々な方々のご指導ご助言を頂く中で、真実にできる限り迫っていきたいと思う。

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