二つの「もしも」
 
 なぜ大月町は空襲されたのか。もしくは、なぜ空襲されなければならなかったのか。
 これについては、先の章で述べた通りである。京浜方面を空襲するマリアナからのB29の通り道にもあたった大月町は、上空を通過する航空機からは、河川に沿って国道や鉄道が合流し、分岐しているようすや、山あいの狭い地域にしては比較的大きな構造物が立ち並び、市街地のはずれには6本もの導水管を持ち偉容を誇る水力発電所の姿とそこへと向かう導水路とそのトンネルが見えたはずであり、戦略上攻撃すべき都市としてリストに載せられていた可能性が高く、これが空襲を受けることとなった理由ではないだろうかと。
 しかしながら、B29の攻撃目標として作成された都市リストには大月の地名はなく、「空襲目標情報地域調査」には県内の発電所の一つとして駒橋発電所だけが記載されているだけだった。大月は、リストアップされるほどの戦略上重要な都市ではなかったということであろう。
 では、リストアップされていないのに、なぜ空襲されたのだろうか。「航空機戦闘報告書」にそれは書かれている。「大月空襲」を行った、第83飛行隊群(ESSEX)、第34飛行隊群(MONTEREY)、第47飛行隊群(BATAAN)の合同部隊の当初の目標(primary target)は、川崎にある東京芝浦電気であった。しかし、そこが雲に閉ざされていたために投弾できなかった部隊は、どこか他に爆弾を投下できる場所を求めて雲上をさまよった末に、たまたま雲の隙間から見えた工場群とダムを攻撃することにした。その雲の隙間から見えた場所が大月町であったのである。
 つまり、爆弾を落とす場所は、それらしき目標物がある所だったらどこでもよかったのである。確かに、ダムや大きな構造物は、彼らを惹きつける要因だったかもしれないが、たまたま大月町が雲間から見えたために、「捨てる」も同然に爆弾が投下され、たくさんの人が亡くなるこの空襲が行われたのである。
 もしも、この日、この時間、大月が雲に覆われていたら、おそらく大月は空襲を受けることはなかったろう。
 さらに言わせてもらうなら、「大月空襲」前日の8月12日には「国体護持」のみを条件としてポツダム宣言を受諾するとの日本側の提案に対して、あくまでも無条件降伏を要求する連合国側から天皇の地位及び権限についての回答があった日である。天皇及び外務省は連合国側の示す通りで受諾の意を決めていたのだが、陸海軍ともに「国体護持」に固執し、政府としての意見がまとまらず、時間を浪費している。
 これが、バターンの「航空機戦闘報告書」のXII. TACTICAL AND OPERATIONAL DATA.(戦術と作戦上の資料)に書かれているように、出撃前に中止命令と、出撃命令があわただしく交互に出された理由である。
 ここで、もう一つの「もしも」が加わる。もしも、統帥部が「国体護持」に固執せず、あるいは天皇が大権を行使し勅令を発し、日本が12日にポツダム宣言を受諾していれば、おそらく大月は空襲を受けることはなかったろうにと。
 どちらか一方の「もしも」が現実にあったら、誰一人も戦災による犠牲者を出すことなく終戦を迎えることになっただろう。
 わずか終戦二日前、それ以上にこの事実にやるせなさを感じるのは私だけだろうか。
 
 戦争は尊い命を奪う愚かな行為であることを、「大月空襲」を通して地域の人々に伝えていきたい。

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