爆弾の着弾地点と家屋の被害
被災者一覧表を作成するのと同時に、爆弾の着弾地点の調査も行った。
これは、『たたかいの後に 〜子どもにおくる戦争体験記』(大月東小PTA編集 1977年)に記載されていた着弾地点を示す地図をもとに、三冊の体験談集の精読、『戦災記録綴り』に綴じ込まれていた家屋被害に関する文書の精査、聞き取り調査をして一つずつ確認していった。この過程で『たたかいの後に』の地図の中において記載が漏れている場所や、着弾地点が通り一つ間違えている事を明らかにした。また、これまで研究されていなかった市街地周辺部に着弾した地点を調査し、地図上に表した。
まず、市街地に着弾した地点について述べよう。
体験談集と聞き取り調査による「証言」によって修正加筆された市街地地図(別地図1)に表される範囲に、未確認地点を含めて27か所の地点を数えることができる。
次にこれと大月市有文書「戦災関係綴り」中の「発第五一六号 見舞金並ニ弔慰金支給申請書送付ノ件」(昭和20年10月19日付 大月町長から北都留地方事務所長あて)に添付されていた、「主として建物を損壊した者に対する見舞金調書」と照らし合わせてみると以下のような一覧表ができた。
■被害状況一覧表■
|
住所 |
氏名 |
備考 |
現住所 |
地点 |
01
02
03
04
05 |
大月町琴平町
大月町琴平町
大月町琴平町
大月町琴平町
大月町琴平町 |
高麗 貞造
石川 喜一郎
瀬戸 淑正
矢野 よし
小宮 要次郎 |
死者三 傷者一 全
家屋全壊
死者一 全
家屋全壊 転出
家屋半壊 |
|
C
C
|
06
07
08
09
10
11 |
大月町御太刀町一丁目
大月町御太刀町一丁目
大月町御太刀町一丁目
大月町御太刀町一丁目
大月町御太刀町一丁目
大月町御太刀町一丁目 |
加藤 一郎
梅田 りう
小林 秀雄
手塚 民之助
宮野 春重
白旗 岩造 |
家屋全壊
家屋全壊
死者二
家屋全壊 転出
家屋半壊
家屋半壊 |
御1-4-6
御1-3-23
御1-5-14 |
P
J
J |
12
13
14
15
16
17
18
19
20 |
大月町御太刀町二
大月町御太刀町二丁目
大月町御太刀町二丁目
大月町御太刀町二丁目
大月町御太刀町二丁目
大月町御太刀町二丁目
大月町御太刀町二丁目
大月町御太刀町二丁目
大月町御太刀町二丁目 |
中島 とし
有坂 政子
相沢 賢一
中島 徳平
沢田 辰太郎
木村 いそ子
井上 由定
柿沼 ちゑ
天野 身登 |
家屋全壊
家屋全壊
家屋全壊
家屋全壊
家屋全壊
家屋半壊
家屋半壊
家屋半壊
家屋半壊 |
御1-8-13
御1-7-1
御1-8-13
御1-8-11
御1-8-20
御1-2-10 |
M
N
M
M
K
JK |
21
22 |
大月町御太刀町三丁目
大月町御太刀町三丁目 |
田村 寅造
田村 いく子 |
重傷者一 全
家屋全壊 |
御1-11-18
御1-11-18 |
L
L |
23 |
大月町御太刀町四丁目 |
中島 一三 |
重傷者一 半 |
|
|
24
25
26
27 |
大月町御太刀五
大月町御太刀町五丁目
大月町御太刀町五丁目
大月町御太刀町五丁目 |
小林 猪三郎
矢ヶ崎武雄
宍戸 穴道
岩田 庄造 |
家屋半壊
家屋全壊 転出
家屋全壊
全 死四 |
御2-6-13
御2-6-13 |
22
22 |
28
29
30 |
大月町広月町
大月町広月町
大月町広月町 |
三品 袈裟春
虎見 信子
内藤 勲 |
家屋半壊
家屋半壊
家屋半壊 |
大1-6-10
大1-6-11
大1-14-26 |
F
F
F |
31
32 |
大月町神明町*1
大月町神明町一 |
野川 正春
杉本 伊之助 |
家屋全壊 重傷者一
家屋全壊 重傷者一 |
大1-8-11 |
G |
33
34 |
大月町神明町二丁目
大月町神明町二丁目 |
和田 愛子
小俣 幸子 |
家屋半壊
家屋全壊 |
大1-15-17
|
C
|
35
36
37
38
39 |
大月町南天神町
大月町南天神町
大月町南天神町
大月町南天神町
大月町南天神町 |
守屋 逸朗
杉本 ハナ
前田 栄二
長田 国代
斉藤 サイ |
家屋全壊
重傷者一
家屋全壊
家屋全壊
家屋全壊 |
|
|
40
41 |
大月町北天神町
大月町北天神町 |
槌屋 貞平
橋本 宇一郎 |
家屋全壊 重傷者一
家屋半壊 |
大3-5-7
|
D
|
42
43
44
45
46
47 |
大月町本町一
大月町本町一
大月町本町一丁目
大月町本町一丁目
大月町本町一丁目
大月町本町一丁目 |
牛山 義雄
溝口 貫之
小宮 義祐
天野 秀春
名取 留吉
小高 延晴 |
倉庫全壊
倉庫全壊
死者三 全
家屋全壊
家屋半壊
家屋半壊 |
大2-19-8
大2-19-12
大2-19-2
大2-19-4
大2-12-20 |
B
A
B
B
B |
48
49
50 |
大月町沢井
大月町沢井
大月町沢井 |
小宮 泰亮
小宮 近恵
三田 ミチ |
家屋全壊
家屋全壊
家屋全壊 転出 |
沢井963
沢井958
|
3
4
|
51 |
大月町駒橋中組 |
志村 利雄 |
家屋全壊 |
駒2-4-8 |
6 |
※○数字は市街地地図の着弾地点を示す番号。
※□数字は周辺部地図の着弾地点を示す番号。
文書に表示されている住所は現在使用されている住居表示と違う。1967年に新表示が実施されたためだ。旧表示を新表記に変換するのに、『住居表示新旧旧新対照表』(大月市 1967年)を使用した。
(01)〜(05)の琴平町は、瀬戸と高麗の名からわかるように、地点Cの大月東国民学校東正門の道路向かいにあった大月税務署の庭に落ちた爆弾による被害である。当時大月町役場の職員で現在は地点C近くに住む相馬了作の証言によると、税務署から国道に向かって道沿いに長屋状に家屋が続いていたということなので、おそらく石川、矢野、小宮もこの長屋の住人であったであろうことは十分推測される。
(06)の加藤は、都留高女の敷地に隣接している地点Pに住居がある。(08)の小林は地点Jの十点長屋の住人、(11)の白旗は、十点長屋の隣に住居があった。(07)と(09)は不明である。転出されると手がかりが無くなる。(10)宮野のこの住所付近には、爆弾が着弾したという証言が見あたらない。残された課題の一つである。なお、地点Oは、当時は畑だったそうである。
地点Oと地点Pは一ブロック西にずれていたので修正し、さらに、行願寺の門前の地点Qを新たに地図に追加した。
(18)の井上は銭湯「芳乃湯」を経営している。ここの地区は比較的、住所と着弾地点の同定が簡単だった。しかし、(12)(13)(19)は不明だった。
(21)(22)は同じ田村姓で同住所である。親族であろう。地点Lに一致する。この地点も、先のと同様にずれていたので修正した。
小林猪五郎の妻ふくの証言によると、岩田とは同じ興亜航空の社宅に住んでいたという。おそらく、矢ヶ崎、宍戸も同様であろうと思うわれる。地点22も、北の河岸段丘縁に修正した。
(30)の内藤は、地点Fの被害を受けた三品、虎見と国道を挟んだ南向かいに住んでいた。
(32)の杉本は、地点Gの杉屋旅館である。おそらく、住所が不明だが、野川もこの爆弾の被害を受けたのであろう。
(33)の和田は、(03)瀬戸の長屋の軒続きの位置にある。全壊の小俣の位置が不明である。
(35)〜(39)の南天神地区は全く手がかりがない。この地区には、地点Eがある。当時ここには倉庫があったのだが、倉庫被害の記載がこの近辺では見あたらない。「大月空襲」による唯一の火災は、この地点からによるものである。表記に「焼失」が見受けられないのも疑問が残る。
(40)(41)の北天神では、爆弾が着弾した証言がない。槌屋の住所が浅利防空壕の地番を表すものであることから、自宅裏の河岸段丘北面、防空壕の上に突き刺さるように着弾した爆弾の爆風、振動の影響で被害を受けたのであろう。橋本も同様であると思われる。
大月本町地区もはっきりとしている。ただ(46)の名取が不明である。
新住所への変換に使用した『住居表示新旧旧新対照表』は1956年10月1日現在の資料にもとづいてまとめられた。これ以前に転居したり、あるいは借家等の人については、手がかりが無くなってしまう。
これ以外にも、都留中のグランドの西隅に一発、大月駅に二発、都留高女に二発落ちた。 都留高女の南側の五ヶ堰に落ちた爆弾は、堰を決壊させ、その水がグランドに流れ込んだ。この堰をわたり林宝山に避難した現大月市教育長の加納健司(当時国民学校5年生)は地点21を指示し、また、七保町在住の藤本昶は警防団員として、災害処理に都留高女に出動し、堰の修復にあたったことを証言している。
また、大月防空監視哨の隊員だった磯田源一は、三島神社と国鉄の間にあった田圃で草刈りをしていた時に空襲に遭遇した。地点23、24に爆弾がそれぞれ着弾するのを目撃した。
次に周辺部の着弾地点にふれよう。
調査した結果を地図においてみた。周辺地図(別地図2)を参照されたい。周辺部には未確認場所も含めて14個の爆弾が着弾している。
前掲した「被害状況一覧表」の末尾にある、沢井地区(48)(49)の小宮は、地図中地点B、Cである。転出した三田もおそらくこの近隣に住んでいたのであろう。
駒橋地区の(51)志村は、地点Eである。
これ以外にも、地点@の中央自動車道大月料金所付近に一つ、地点Fの駒橋厄王山下の河原に一つ、地点Gの旧岩殿トンネルの大月側出口付近に一つ、地点Hの七保の福泉寺の東側にある御嶽沢に一つ、地点Iの大島の田圃に一つ、地点JKの猿橋幡野の橋付近に二つ、地点LMの都留市川茂の駒橋発電所取水路付近に二つ確認した。
未確認場所が、市街地では、浅利の防空壕前の水田に落とされたといわれる一つ、行願寺の西側に一つ、そしてNTTの南の一つである。周辺部では、花咲のインター料金所付近の二つ落ちたといわれるうちの一つである。
残念ながら、市制施行以前の七保町、猿橋町、賑岡村の空襲に関する市有文書を見つけることができなかった。また、川茂発電所に対する空襲については、都留市史には記述すらも見られなかった。
今後の研究すべき大きな課題であろう。
相馬了作は林宝山には数十発の爆弾が投下されたという。『たたかいの後に』の地図にも同様の記述が見られる。また、『大月市史』(史料編)の中では、小池剛が町の南に位置する沢井地区から林宝山一帯の山に二十数発の爆弾が投下されたと書いている。あれこれ思案しているうちに、数年前に林宝山西側登山道を頂上へと尾根づたいに行く途中で不自然な直径10mくらいの穴を二つ見つけたのを思い出した。おそらく爆弾があけた穴の跡なのではないかと思い、今年の1月に再び登ってみた。炭焼き釜跡かとも思ったが、石が積まれたような跡はなく、ただ穴だけ不自然にあいている。三つほどあるのを確認した。東側斜面や北側斜面を踏査したが、見つける事はできなかった。
防空監視哨に空襲前日まで勤務していた磯田源一に話を聞く中で、戦後大雨が降った後爆弾の作った穴に水がたまり、それが土砂崩れを引き起こした事があり、穴を埋める工事が施されたとの話も聞いたし、興亜航空に学徒として動員され、浅利の防空壕で避難し九死に一生を得た宮坂稔久はたくさんの不発弾が林宝山より運び出されたことを話してくれた。
このことからもたくさんの爆弾がこの山に投弾されたことがわかるのだが、半世紀以上も経ち風化が進み、特定する事は困難な状況である。
ここで、家屋の被害状況についても述べておこう。
先の「被害状況一覧表」を作成するのに依拠した昭和20年10月19日付の「発第五一六号 見舞金並ニ弔慰金支給申請書送付ノ件」に添付されている主に家屋を損壊した者に対する見舞金調書によると、倉庫全壊2棟、家屋全壊31棟、家屋半壊16棟を数えることができる。*2
これより先の文書としては、富浜村及び同村宮谷地区の藤本誠一氏より寄贈された見舞金を、雨宮忠書記の作成した分配案にもとづいて、10月1日に「大月空襲」の罹災者たちが受領した一覧表がある。それには倉庫全壊が2棟、全壊家屋26棟、半壊家屋14棟、死亡者31名、傷者7名となっている。
また、「発第八〇一号 住宅家財損傷調書送付ノ件」(昭和20年12月17日付 大月町長井上武右ヱ門から地方事務所長あて)の文書には、「損傷種類三分の一以下」として8ページにわたって108名の罹災者氏名が記載される一覧表が添付されている。
同じ被災状況を記述しているのだから、日付の違うそれぞれの文書に重複して名前が見られのあたりまえだが、同一人物が一方の文書では全壊、別の文書では三分の一以下と表記されていることもあり、その損壊程度ごとの被害数は確定することができなかった。
それでも敢えて数字をあげるとすれば、「被害状況一覧表」を規準にし、3分の1以下と低く評価された重複者の数*3を引いて、倉庫全壊が2棟、全壊家屋26棟、半壊家屋14棟、三分の一以下損壊家屋が106棟という数字を提示することができる。
*1 参照した文書においては神明町と書かれ、鉛筆で「北」と記入されていた。富浜村よりの見舞金受領者一覧表の住所は北天神町であることから、野川の住んでいたのは北天神町であろう。
*2 この文書には、この調書以外に、死亡者に対する弔慰金申請書、負傷者に対する見舞金調書の二通が添付されている。
*3 「損傷種類三分の一以下」とされた者の中に、柿沼正三の名がある。先の表中の柿沼ちゑと同住所であるが番地まで付されていないので確証が持てず別人とした。また、先の表で倉庫全壊と記された牛山と溝口の名も見られたが、この調書の中では家屋が記録されたものとして、損壊家屋として集計した。田村寅造、小高延春の2名が重複していたので、これを差し引いた。
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