空襲で被災された方々
「大月空襲」で亡くなられた方の人数がまちまちである。54名。55名。そして、空襲で負った傷がもとで亡くなった人を含めて59名という数字がある。
被害を語る時、まず正確な数字の確定が必要となる。しかし単なる数字のられつだけでは数の大小だけで被害をとらえてしまいがちなり、人の死が数字に抽象化されてしまう。死を数量化し、抽象化してしまうのではなく、具体性を持ったものとして受け止めていくためには、空襲を受けて亡くなるまで一個の人格持つ人間として存在し、大月で生活していたということを明らかにしていくことが必要であろう。
いったい何人の人が、どこで、どのような状況で亡くなったのか、またその人たちの年齢はいくつで、どこに住み、どんな職業についていたのだろうか。これら具体的な事項を一つでも多く解明することによって、より正確に、よりリアルに空襲の被害と悲惨さが伝わると思い空襲の実態調査に入った。
まず、『終戦二日前』(大月市総務課 1984年)の巻末にある氏名と年齢、住所が記載された名簿をもとに、これまで発刊された「大月空襲」に関連する書籍を参考にして空欄の部分を埋め、さらに個々の罹災した場所と罹災した状況を調べることとした。その作業の後、不明な部分を聞き取りや、他の資料によって補完し、作成したのが別添の被災者一覧表である。
この調査活動の中で、大月市立図書館に所蔵されている「市有文書」の存在を知り、その中から「戦災記録綴り」を見せていただいた。これにより、今まで知られていない多くの新しい事実を知ることができた。これ以外にも、もっと具体的な手がかりになりそうな文書も多数あったのだが、プライバシーの保護を理由を閲覧を拒否されてしまったのが非常に残念である。また、多数の犠牲者を出した都留高女、都留中の公簿類を保有している県立都留高校に閲覧を申請したが、これもまたプライバシーの保護を楯に阻まれてしまった。
これに反して、空襲を体験された方々は能弁にたくさんのことを語ってくれた。しかしながら、どう考えても事実に反するような事も多く、また伝聞を自分の体験として語っているような事もあり、同じ事柄について複数の同じ証言が無ければ信頼できない気がしてならなかった。戦後60年を経過していること、体験者が当時小学生から中学生(現在の高校生)くらいであったことがその原因だと言えるだろう。
新しく手に入れた各種の文書や聞き取りをして得られた「証言」を中心に、これまで書かれた文献資料も援用しながら、各地点別に被害の状況を述べていこう。
<都留高女>-----------------------
都留高女が受けた空襲の被害を述べる前に、都留高女の被害を語る上で貴重な資料である、都留高女教務日誌の8月13日と14日の記事を全文引用しておく。
八月十三日(月曜) 晴 望月・印
「出席生徒数」
空襲警報発令中ナレバ一般生徒未ダ登校セズ 防空要員ノミ登校セルヲ以テ被害ヲ最小限度ニ止メタルヲ得タリ
「生徒ニ関スル事項」欄には、
五.三六警戒警報発令 六.〇八空襲警報発令 学校防空要員大約三十名参集 各部署ニ就キ待機ス
八時一五分頃突如敵ノ一編隊約十機ハ本校上空ニ現ハレ旋回シ始ム
一弾ハ校庭 一弾ハ本館中央ニ命中、即死者十六名 使丁二名、給仕一名、重傷者 職員二名 生徒五名 軽傷者 職員五名 生徒八名
御真影 勅語謄本 詔書謄本安全
八月十四日(火) 晴 望月・印
「出席生徒数」
本日ノ入院患者
小澤先生、安藤美知枝、水越栄子、中島正子、
幡野新次郎夫妻の葬儀本日後四時ヨリ行ハル
長田書記会葬ス
「生徒ニ関スル事項」
三、四、年、合計百十餘登校 片附ヲナス、十時マデ
1. 一、二年生ハ本日ハ帰セシメ十七日マデ休ミ十八日ヨリ
通告ナキ限リ登校スル□□申渡ス
2. 教学課ニ電話ヲ以テ営繕技師小松氏ノ派遣方ヲ申請ス
3.死亡者ニ対スル敬弔 教頭、依田、上野原製作所工場長ト三人ニテ、次ノ生徒ニ敬 弔ノ意ヲ表シテ巡ル
三浦和子、岩田昭子、浅井満智子、能登ミツエ、佐藤幸子、天野五四子、中山民子、 田口弘子、中村夫士子、大村薫、井汲ヨリ子、土屋綾子、上野和子、吉角太久美(給 仕)
大村薫ヲ除キ金三拾円宛香奠ヲナス
4.功刀さち子父十一時頃来ル、火葬ニナスコトニツキ各方面ト折衝ノ結果、興亜ノ火 葬場ニテ他日火葬ニ附スルコト□□□
8月13日付けの「教務日誌」によると6時30分に空襲警報が発令され、空襲前に既に学校防空要員が30名あまり登校してきていたことがわかる。これは、空襲警報が発令されると、学校工場で学徒報国隊として動員されていた大月町在住の3年生以上は「学校防護団」として学校を護るために学校への登校を義務づけられていたためである。校内の各部署に着いていた生徒たちは、学校の裏にある林宝山(菊花山)に爆弾が投下され炸裂音が聞こえ始めると、校庭の北側のプラタナスの植え込み沿いに造られていた無蓋の防空壕へと退避するために中央玄関に殺到した。運悪くちょうどその時、電車通学の生徒たちが大月駅で下車後、突然始まった空襲に驚き、避難するために学校へ逃げ込んでくる。入ろうとする者と出ようとする者でごったがえす中央玄関ホールに爆弾が直撃。さらに校庭のほぼ真ん中にも爆弾が破裂した。
中央玄関での惨状は、終戦直後の8月28日に行われた学校葬において、杉田勅男校長によって読み上げられた弔辞に克明に描かれている。
午前八時二十分頃、敵ノ数編隊ノ東進ヲ認メタル後、数分ニシテ、敵ノ数機ハ、突如大月上空ニ現ハレ、不幸ニモ本校ハ投弾ノ厄ニ遭ヒ、職員生徒小使等廿数名ハ、校舎ノ下ニ埋没セラレテ仕舞ヒマシタ、一時自覚ヲ失ヒマシタ私ガ、闇黒ノ裡ニ五体ヲ固クシメツケラレテアルノヲ気付キマシタ時、私ノ上ノ方デ諸子ノ幾人カゞ「先生ー 先生…」ト、繰リ返シ/\救ヲ求メ呼ブ声ガ幽ニ聞エマシタ、私ハ愕然トシテ、身ヲ悶エマシタガ、如何トモスルコトガ出来ナイ私ハ、諸子ノ下ノ方ニ埋モレ乍ラ、唯「済マナカツタ、申訳無カツタ」ト詫ビルヨリ外無カツタノデアリマシタ、暫クシテ幾人カノ貴イ若イ生命ハ絶エントスルノカ、「オ母様ー、オ母様ー、」ト夢中デゴ両親様ヲ捜シ求メル声ガ聞コエマシタ。…(中略)…私モ諸子ト共ニ、学校ト運命ヲ共ニスベク、静ニ土中ニ在ツテ諸子ノ冥福ヲ祈リツゝ、且ツ諸子ノゴ両親様方ノ御許ヲ願ツテ居リマシタ、然ル処時ヲ移サズカケツケマシタ大月町警防団員其他各位ノ救助作業ニヨリ、約二時間ノ埋没ニモ拘ラズ、幸カ不幸カ奇跡的ニモ私ハ救出セラレマシタ、実ニ夢ノ様デアリマス、校長室デ諸子ノ亡骸ヲ見ルニ及ンデ、私ノ胸ハ裂ケ、腸ハ断タレル思デシタ、校長トシテノ処置ニ誤リハハナカツタカト自責ノ念ニ駆ラレテ、何故諸子ト共ニ死ナレザリシカト、悔ヤマレルノデシタ、
嗚呼然シ今トナリテハ、千万言ノ繰言モ及ビマセン、諸子ハ本校防空要員トシテ、又学校工場動員学徒トシテ、其ノ職責ヲ果シ、陛下ノ忠良ナル赤子トシテ、本分ヲ遺憾ナク発揮シテ、ソノ職ニ殉ぜラレタノデアリマス
さらに生徒総代として渡邊栄子も弔辞の中で、次のように空襲の様子と死亡者数にふれている。
嗚呼昭和二十年八月十三日 此の日が永遠に忘れる事の出来ない日にならうとは誰が予期して居りましたでせうか。此の日も朝から敵機はひっきりなしに来襲し、情報は息つく間もなく報道せられていました。八時過ぎ一きは低い不気味な爆音、同時にすさまじい爆裂の音、あゝその音と共に今まで美しく又厳然として建っていた校舎は一瞬にして見るも悲惨な姿と化し、前日まで楽しく共に兵器増産に励んで来た学友十七名、及び学校の為に働かれた傭員三名の方は遂に殉職せられました
ここに見られるように、「教務日誌」にある生徒や用務員、給仕の方々は、中央玄関に着弾した爆弾によって、爆風で吹き飛ばされたり、倒壊した校舎の下敷きになって亡くなったと考えられる。
翌日の「教務日誌」には、重傷を負った杉田勅男校長に代わって望月文雄教頭、依田教諭、上野原製作所工場長が弔意を表すために訪問した記述が見られる。前日の日誌に即死者は16名とあるが、功刀さち子、大村薫、中村夫士子の3名の専攻生と、三浦和子、岩田昭子、浅井満智子、能登ミツエ、佐藤幸子、天野五四子、中山民子、田口弘子、井汲ヨリ子、土屋綾子、上野和子12名の3年生、計15名の氏名があるのみで、1名が不明である。おそらく、遺体の損傷がひどく当日には身元が判明しなかったのではないかと思われる。
また、水越の弔辞の中では、即死者数が17名となり1名増えている。原稿には16の数字を17に訂正した痕があり、2週間後に行われた学校葬までの間に、新たに死体が発見されて身元が判明したか、もしくは後遺症で亡くなられた方が追加されたのであろう。
なお、都留高女の死亡者数については、1955年に大月織物工業協同組合連合会によって編纂された『大月織物協同組合沿革史』中に、「大月空襲」についての記事があり、「都留高等女学校(都留高等女学校東校舎)の悲惨事は惜ら天真爛漫の女生徒の姿を一瞬のもとに爆死(当時の犠牲者、即死せる女学生十八名、重傷の後死去せる女学生一名、小使給仕を合わせて三名、計二十一名(ママ))せしめ」と書かれている。
ここでもまた、女学生の即死者が教務日誌の記載より2名増えている。都留高女に落ちた爆弾で即死もしくはその後遺症で死亡した学校関係者を慰霊するための遺髪塚に刻まれた女生徒数は吉角を含めて20名であるから、総数はあっている。教務日誌に掲載されてない1名が当日の見元不明者であり、弔辞に追加された1名が空襲後二週間のうちに新たに遺体が発見もしくは後遺症で亡くなったと者とするならば、この1名もまた、「重傷の後死去せる女学生」よりも前に、同じような理由で追加されたものであろう。
ところで、死亡者が専攻生と3年生に集中してるのは、これは4年生は興亜航空を中心にして動員されていたこと、1、2年生は警戒警報が発令されると自宅待機となっていたため、学校工場へ勤務していた3年生と専攻生のみが学校を護るため、または学校工場で働くために登校していたためである。
なお、給仕とある吉角太久美は、身分的には学校の雑用を行う給仕であったが、1年生に在籍し、仕事のかたわらに都留高女生徒として学んでいた。このため、女学生として、その犠牲者の人数の中に含められている文献もある。
都留高女の関係者として、生徒以外の即死者としては、小使の幡野親次郎夫妻の2人がいた。2人とも爆風で吹き飛ばされ、校舎の壁に叩きつけられて絶命している。
「教務日誌」に掲載されている以外の即死者としては、藤本元定と軍人2人がいる。
藤本については、様々な文献でその名を見ることができる。彼は、御太刀区長として、焼夷弾による空襲に備えて防火用水を確保するよう警察からの指示を受け、国道沿いの側溝の清掃を行うために女学校入り口の石橋を外す打ち合わせに来校し、中央玄関にて被爆した。藤本は、北都留郡繊維雑品染色工業協同組合理事長でもあった。
軍人2人については、『終戦二日前』に都留高女で亡くなったという記述が見られ、その巻末の犠牲者リストに名字と出身地だけ記載されている。生駒(奈良県)、岩崎(東京都)の2人である。軍人ならば、靖国神社に祀られているはずであり、同神社内にある図書館「偕行文庫」で、研究趣旨を説明して情報の提供をお願いした。その結果文書にて、以下のような回答をいただいた。
御祭神調査の件(回答)
生 駒 英 治 郎 命
一、階級・陸軍伍長
二、所属部隊・立川陸軍航空廠第八作業隊
三、死歿年月日・昭和二十年八月十三日 (戦死)
四、死歿場所・山梨県北都留郡犬目字大月一〇三
五、死歿時本籍地・静岡県小笠郡×××
以下略
岩 崎 彌 七 命
一、階級・陸軍軍属
二、所属部隊・第四陸軍航空技術研究所
三、死歿年月日・昭和二十年八月十三日 (戦死)
四、死歿場所・山梨県北都留郡大月町都留高等女学校内
五、死歿時本籍地・茨城県結城郡×××
以下略
両者の名前、身分や、所属部隊、本籍地が判明した。と同時に、確かに8月13日に亡くなっていることもこれで確認できる。ただ、生駒の死歿場所が都留高女ではなく、北都留郡犬目字大月一〇三とあるのだが、これは明らかに間違いである。なぜならば、犬目村はあるが、そこには大月という字は存在しないし、13日に空襲を受けた記録も無い。また、大月一〇三という番地であるが、この番地は現在の大月二丁目14−10にあたり、この地点に爆弾が落ちた記録も無いし、証言も得られなかった。さらに、都留高女のこの当時の地番が駒橋一〇三〇であることや、合祀年月日が昭和二十二年四月二十一日という戦後の混乱期であることを考えると、死歿場所についての情報が不確かなままに誤った番地を記載してしまったものであると思うのが妥当であろう。
岩崎彌七は、校庭中央に落ちた爆弾の直撃を受けて死亡し、生駒は学校裏の五ヶ堰に落ちた爆弾の爆風により死亡している。
空襲後、町のあちらこちらから救援のために人が駆けつけ、杉田校長の弔辞にあるように、校舎の下敷きになり埋もれた人々の救出作業にあたった。死亡者は中庭に並べられ、身元の判明した者は家族の手によって無言の帰宅をし、残りの遺体は講堂に移された。怪我を負った者は、戸板に乗せられて進士医院まで搬送され、手当を受けた。進士医院では、その他の場所で被爆した人々も担ぎ込まれており、病室には収まりきれず、廊下に寝かされるほど被災者であふれていたという。
上に述べたように、都留高女での即死者は、生徒17名、職員2名、一般市民1名、軍関係者2名の計22名である。これにこの時負った傷がもとで数か月後に亡くなられた水越栄子をはじめとする後遺症による死亡者として生徒3名と教諭2名が加わり、合わせて27名の人が都留高女の敷地内で亡くなっていることになる。
<興亜航空>-----------------------
興亜航空では、学徒動員中の都留中生が死亡している。ここでもまた、都留中の空襲当日の「教務日誌」を引用していこう。
昭和二十年八月十三日(月曜) 晴後大雨
「生徒ニ関スル事項」
午前六時空襲警報発令一部生徒登校
学校ニハ軽微ノ被害アリタルノミ
興亜ニハ相当ノ被害アリタルモノゝ如シ
都留中の「教務日誌」を読むかぎり、興亜での死亡者も含めた被害の詳細についてはわからない。次の日の日誌や、あるいは『終戦二日目』の口絵にある「空襲によるり災者報告文書」などの都留高校が所有する文書を見ることができれば、被害の状況についてより正確に知ることができると思い、開示を請求したのだが、「プライバシーの保護」を理由に原資料の開示は断られてしまい、かわりに次のようなメモ書きを見せていただいた。
氏名 年齢 死亡場所状況
和田至弘 15 2年生 皇国4162工場
伊藤 孝 15 2年生 〃
上原俊行 15 2年生 〃
長沼昌尚 16 4年生 〃
三枝清一 17 4年生 〃
古見健治 15 2年生 〃
戸澤宏之 15 2年生 〃
杉本政道 14 2年生 〃
乙黒春昭 15 2年生 〃
勤労動員学生援護会への提出文書
s,20,8,24 学校長大武美徳から県知事中島賢蔵の文書
三枝清一他8名の合同校葬 8:30AM
s,20,9,3 学校長大武美徳から内政部長への文書
児童生徒死亡者 10
岩田新造 14 1年生 皇国4162工場社宅退避壕で死亡
メモには4年生2名、2年生7名、1年生1名、合計10名の氏名が書かれていた。このメモと前掲書の口絵にある文書を見比べてみると、小さく不鮮明な口絵の文字が浮かび上がってくる。まず、氏名欄に、根津幸蔵を筆頭に、長沼、三枝、伊藤、和田、古見、乙黒、上原、戸澤、杉本、岩田の11名の名前を読みとることができる。次に、死亡月日欄を見ると、根津は昭和20年6月10日、横須賀海軍技術廠で死亡しているので、彼だけ記述内容が違っている。残る10人は、同一日に死亡しているが、罹災地欄と最下段の備考欄を見ると、岩田だけが違う。つまり、メモにある通り、「大月空襲」により都留中生は10名の死亡者を出したが、そのうちの1名は他の9名と違う場所で亡くなっているのである。
いったい岩田はどこで、どのようにして亡くなったのであろうか。大きな疑問が残る。
岩田について述べる前に、前記の9名についてふれておこう。彼らは、興亜航空へ学徒動員で出勤したものの、空襲警報が発令されていたので、工場の防空壕に退避させられた。その退避した、防空壕に爆弾が投下され、生き埋めとなって死亡した。
この防空壕は、河岸段丘上にある工場の西側、浅利へと向かう坂道の途中の柱状節理の崖に設けられていた。構造は横穴式で、内部で隣の壕と行き来できるように馬蹄形に掘られていた。9個あまりの壕があり、学生は坂道の降り口より一番手前の壕が割り当てられていた。
前年度より動員され、製材された木材の寸法を検査し、乾燥する部署に就いていた宮坂稔久(当時都留中4年生)もこの防空壕に友人とともに退避していた。彼は、その時の様子を次のように話してくれた。
「稚児落とし」上空でグラマンが多数旋回していたが、やがて浅利の沢沿いに急降下してきて、爆弾を投下した。自分はグラマンが急降下し始めた時、友人によばれて最初に入った壕から奥の通路を通って隣の壕へ移ったのだが、その最初に入っていた壕の上の崖に爆弾が斜めに刺さるようにして着弾し、崖の岩が崩落し、壕が埋まってしまった。誰がいて、誰が死んだかはよくわからない。翌日、工場下の桂川の千本松原で死体を焼いた。死体を運んだのは、興亜にいた海軍工作隊だった。
まさしく九死に一生を得た宮坂であったが、ここにあるように、自らの命を守るのに精一杯で、壕の中に「誰がいて、誰が死んだかはよくわからない」と話すように、先の9名全員がこの壕で亡くなったを示す他の証言も無く、まして左記の通り公文書も手に入らないので断定できないが、興亜航空地内で着弾したのは、工場東の興亜航空社宅だけであるから、勤労学徒全員が避難させられたといわれる、この浅利防空壕で罹災したと考えるのが妥当であろう。
さて、岩田新造であるが、先の都留高女でも同姓の岩田昭子が亡くなっている。この2人はどういう関係になるのであろうか。
ここで、大月市有文書「戦災関係綴り」中の「大保収第60号 祭資料並ニ御下賜金伝達方依頼ノ件」(昭和21年2月22日付 大月警察署長から大月町長へ発送)の欄外に鉛筆書きで書かれていたメモを引用する。
妻 岩田君江 戸主 岩田庄造
〃 昭子
〃 新造 谷村町
〃 和子 父
〃 春蔵
これによると、岩田新造と岩田昭子は姉弟だということがわかる。そればかりでなく、母親の君江、和子と春蔵という2人の弟妹も「大月空襲」で亡くなっている。
空襲当時、岩田家の隣組であった小林ふく(当時27歳)に次のような話を聞くことができた。
ふくの夫は猪五郎といい、元は新宿で大工をしていたが、戦時中のために東京で昭和飛行機に就職し、その後指導員として興亜航空へ赴任し、社宅に居を構えた。空襲当日、猪五郎は興亜航空に出勤し、勤労学徒を引率して防空壕に退避させていた。
ふくは、岩田君江と一緒に、大月東国民学校で竹槍訓練をした後、帰宅し、社宅でそうじをしている時に空襲を受けた。社宅の押入に隠れていたところ、大音響とともに爆風で飛ばされた大きな岩が屋根を突き破ってきたが、ちょうど隠れていた押入の上にあった神棚の天井で止まり助かったという。
空襲警報が解除された後に外へ出ると、玄関先で岩田君江と子ども2人が機銃で撃たれて死んでおり、家は爆風で倒壊していた。父親は興亜航空で経理の仕事をしており、その日は甲府の工場へ出張に出ており、電車が不通のために帰宅できずにいたため、浅利防空壕での救出作業が終わってから帰宅したきた猪五郎と2人で遺体の処理をした。
夜遅くになっても都留高女の娘が帰ってこないので、高女へ出かけたところ、高女の講堂に18人の遺体が並べられ、布が掛けられ置かれていた。当日は人相がわからなかったので、二日にわたり数度足を運んだ。
岩田は谷村の人だったので、後日、谷村で葬式をしたということを聞いた。
小林猪五郎は腕のいい大工として、戦後の大月の町では有名だった。前出の宮坂も、猪五郎が木製飛行機製作の中核として従事していたこと、学徒たちの指導にあたったていたことを証言している。
ふくの話の中には、君江と2人の子どもが登場する。小さな子どもだったということから、おそらく和子と春蔵だと思われる。昭子も都留高女の娘として登場してくる。しかし、岩田新造については、話に登場してこないばかりか、こちらからその名前と身分を明らかにし、問いただしてもその存在すらも記憶していない。
戦後60年近い年月が経ったため、よほど強烈な印象が残らないと記憶が薄れてきたのではないかと思われる。つまり、岩田新造は、小林ふくの手によっては弔われてはいないということであろうか。
結局、岩田新造がどこでどのように亡くなったかはわからなかった。現時点では、都留高メモにある「工場社宅退避壕」であるらしいとだけしかわからない。
<芳の湯付近>----------------------
大月駅の南東100mあまりの地点に「芳の湯」という銭湯がある。着弾地点を示す地図を見てわかるように、この「芳の湯」を中心とした狭い範囲に数発の爆弾が集中して着弾している。大月駅を狙ったものがそれたのか、あるいは銭湯の高い煙突を工場のそれと間違え投弾したのか、そのいずれかではないかと思われる。
この近辺では、小林さだ、清治の母子と曽雌幸吉が死亡している。
小林さだは、「芳の湯」の西にあった十店長屋の住人で、爆風で屋根まで吹き飛ばされてしまい発見が遅れた。近所の人が気づき、屋根から下ろした時の状態から考えて、即死したものではないかと思われる。息子の小林清治は、前日に東京から帰省し、この災禍に遭遇している。夜遅くまで母親と話し込んでいたためであろうか、布団で寝たままの状態で直撃弾を受け倒壊した家屋の下敷きとなり死亡している。
近くに住む大工であった曽雌幸吉は、空襲の始まりとともに「芳の湯」に飛び込み、脱衣場で倒壊した家屋の下敷きとなって死亡した。
『たたかいの後に』に平井初美(当時国民学校6年生)が寄せた「私の祈り」という文によると、「芳の湯」近辺では、この3人以外に「金丸のつぎちゃん」と「強瀬の娘」という方々が、十点長屋の東にあった白旗家のお勝手付近で倒壊したがれきと吹き上げられた土に埋もれて亡くなられている。
まず、「金丸のつぎちゃん」とはいったい誰なのだろうか。『終戦二日前』の死亡者リストには、金丸という名字の方は見あたらない。名前が似ている人としては清水ツギノという方がいる。金丸という人物については、平井の証言以外には他の文献で見あたらないことから、おそらく「金丸のつぎちゃん」は、清水ツギノであろうと思われる。
また、前項の岩田の件の時にも参照した「祭資料並ニ御下賜金伝達方依頼ノ件」の書中に、「清水ウギノ」の名が見られる。「ツギノ」と「ウギノ」が同一人物であろう事は容易に推測できるが、それを裏付ける文献及び証言は得られなかった。
次に「強瀬の娘」とは、誰なのか。これを知る手がかりとして、大月市有文書「戦災関係綴り」中の「大保収第六〇号 祭資料並御下賜金伝達方追加ノ件」(昭和21年2月23日付 大月警察署長から大月町々長あて)がある。そこには氏名欄に北澤君子、住所欄には大月町駒橋、金員欄には七円とあり、その下の欄に鉛筆書きで「北澤いつ 賑岡村強瀬清水義造方」とある。おそらく、北澤いつは北澤君子の遺族として、下賜金を受領したものと考えられる。したがって、北澤いつの住所が強瀬であることから、強瀬の娘とは北澤君子ではないかと思われる。
<大月税務署付近>--------------------
岩殿山の東側をまいて大月から小菅村に通じる国道139号線がある。そこを通る都留中央バスの、岩殿と神倉のバス停のほぼ中間に石段があり、その石段を上りつめたところに賑岡町の忠霊塔が建っている。この忠霊塔を建立した時に出版された『祖国の護り』(賑岡町忠霊塔整備実行委員会 1980.6.30)に、現在の大月東小学校の東にあった税務署防空壕で罹災し、死亡した野沢英治について次のような記述がある。
本籍地 山梨県大月市賑岡町岩殿三二二番地
現住所 山梨県大月市賑岡町岩殿三二二番地
遺族氏名 野沢善治 (戦没者との続柄)兄
氏名 野沢英治
生年月日 昭和三年四月十二日生
年齢 十七歳
戦没年月日 昭和二十年八月十三日
戦没場所 山梨県北都留郡大月町・大月税務署
爆衙折英信士
「昭和二十年八月十三日、午前八時四十分頃、米軍艦載機F6F数機来襲、大月税務署前庭に爆弾投下、素掘り防空壕内にて同僚四人と圧死。」県立都留中学校在学中、横浜市磯子区海軍航廠に勤労動員、二十年四月大蔵省に採用され、千葉の税務講習所へ入所するも艦載機空襲激しく八月、研修を繰り上げ大月税務署勤務(属六級俸給)強瀬自宅より通勤、「副級長をつとめ、性温厚にして包容力あり生来の大器であった。」(都留中同級生、川口辰雄君談)
「大月空襲」の被災者の中で、本人に関する必要にして十分な情報を得られる唯一の刊本資料である。遺族の方の故人に対する深い想いに対して、周りの人が応えてくれた結果ではないかと思う。
この資料によると、大月税務署防空壕で野澤とその同僚4名、合わせて5名が死亡していることがわかる。彼らは、税務署前庭に着弾した爆弾によって吹き上げられた土砂により退避していた防空壕が埋もれてしまい、発見の遅れもあって死亡した。
税務署の防空壕で死亡した人の記述については、『終戦二日前』の野澤七之甫(当時島田小学校教諭)の「強瀬空襲回顧」の文の中にも見られる。野澤七之甫は、野沢の従兄弟にあたる。野澤の文によると、税務署防空壕で数名が死亡したとあり、野沢と、彼の甥で、この年の3月に谷村工商を卒業した後、野沢と同じく千葉の税務官吏講習所に入り、7月に大月税務署へ転勤となった城之内定雄と、浅利小学校での教え子の清水邦夫の名があげられている。
税務署防空壕で死亡した4人の同僚のうち、残る2名は誰なのか。
大月市有文書「戦災関係綴り」中の「発第五一五 戦時災害給与金受領表送付ノ件」(昭和20年10月19日付 大月町長から北都留地方事務所長あて)に添付されている「戦時災害給与金受領表」の二枚目に、受領者氏名として「税務署内 望月きく」が、500円を本人の印が押されて受領していることが確認できる。さらに、同中の「発第五二六 戦時災害保護法ニヨル給与金交付ノ件」(昭和20年10月24日付 北都留郡大月町長から西八代郡楠甫村長あて)には次のような記述も見られる。
貴村在住 望月きく
右ノ者当町在住中去ル八月十三日ノ爆撃ニヨリ不孝(ママ)戦災死セル望月明ニ対スル死亡給与金ハ当町ニ於テ支給済ニ付為念
以上のことから、残る税務署同僚2名のうちの1名は、西八代郡楠甫村(現西八代郡六郷町楠甫)出身の望月明であることが判明した。
残るはあと一人。この手がかりは、山梨県教職員組合大月支部が毎年8月に開催する『大月空襲展』の展示資料の中にあった。当時税務署に勤務していた岩田トク子という女性の体験手記だ。昭和20年9月15日の日付が記された資料は、税務署で殉職者の何かをつくるために集めたものの一つであるとメモ書きにある。すでに岩田は30年程前に他界し、実姉である岩田鶴代が『空襲展』のために寄贈した。
これには、望月、清水、城之内、野澤の名前とともに、庶務課長も壕中で亡くなったことが書かれている。同僚ではないが、人数的には合うので、5人目の犠牲者はこの庶務課長で間違いないだろう。ただ残念ながら、職名だけで個人名が記されていない。
庶務課長は誰なのか、これについては、この章の一番最後で触れてみたい。
税務署職員以外に、税務署の前庭に落ちた爆弾によって死亡した人についてふれた文として、『終戦二日前』に小林信太郎(当時大月東国民学校校長)が寄せた「戦争たけなわの大月国民学校」がある。当時の大月税務署は、大月東国民学校正門の東側にあり、小林はそこの防空壕へ避難した。彼はその文中で、被災の状況について「(自分が)避難していた7、8メートル隣の防空壕へ爆弾が落ち、そこに避難していた税務署員など7人の人たちが死んでしまった」と書いている。
小林の言うとおり死亡者が7名であるとすれば、そのうちの税務署職員が5名であるから、残りは2名となるはずである。しかし、『たたかいの後に』『終戦二日前』によると、税務署近辺での死亡者として、次の3名の名をあげることができる。
大月国民学校の正門前近く、税務署と庭続きにあった長屋に住んでいた瀬戸ますは、この爆弾によって家屋が全壊し、自身も爆風で吹き上げられて死亡した。これについては、小林とともに、ますの子の淑正(当時国民学校6年生)も『終戦二日前』に「私の大月空襲記憶」と題して寄せた文の中でも同様のことを書いている。
また、同じく瀬戸淑正の文にあるように瀬戸の家の隣に住んでいたという高麗つい、貞治についても、ここで亡くなった思うのが妥当であろう。
瀬戸はその状況から言って、防空壕にいたとは考えられにくいことから、おそらく防空壕内で死亡したのは、高麗の2人であると考えられる。
ちなみに、高麗については、先の興亜航空の被害で述べた岩田と同様に、同文書中に以下のような鉛筆書きが見られる。
戸主 高麗貞造 高麗ツイ 妻
雅子 小供
貞治 小供
高麗雅子は、都留高女で死亡してる。彼女は都留高女3年生であるから、その下に書かれている貞治は弟と考えられ、中学生かもしくは国民学校の児童であろう。
<都留中付近>----------------------
都留中の通用門付近(現在の正門)に着弾した二つの爆弾により、小宮せい、小宮勝代、小宮保弘の3名が亡くなっている。
都留中に登校していた平井茂(当時都留中1年生)は、校舎の窓から爆弾が投下されて着弾するのを目撃している。平井の話によると、飛行機の機体から青色の光の点滅が見えた後、爆弾が投下され、西の方から斜めに突き刺さるような形で、小宮の家と、その近くの郡内の雑貨の問屋をしていた二タ柳商店の倉庫に落ち、破壊された建物のがれきや、倉庫の中の雑貨が舞い上がったという。
また、都留高前の国道に面した場所で雑貨屋「大橋屋」を営む小宮徳夫(当時西国民学校代用教員)の話によれば、小宮の一家三人は、仏壇の前で、まるで拝むような姿のまま、この二つの爆弾の爆風で倒壊した家屋の下敷きになっていたとのことである。
<大月産業>-----------------------
坂本新一は、大月産業で亡くなっている。『終戦二日前』の巻末に「空襲の記憶」と題して、市民に対して行われたアンケートの回答集があり、その中で小林保作(当時 大月産業株式会社重役)が、坂本のことにふれて、「大月産業の坂本君、瀬戸小学校下の川の近くの部落の人が、工場から防空壕に入る時、機かん銃に射たれて死亡した」と書き寄せている。
坂本に関しては、当時大月産業に勤務していた小宮直子(当時15歳)からも情報をいただいた。小宮の記憶によると、坂本の死は機銃掃射によるものでなく、どういうわけか退避していた防空壕から外へ飛び出していき、工場から線路づたいに逃げる時に、爆風で倒れてきた電柱が頭を直撃し、死亡したとのことである。
<杉屋旅館>-----------------------
国道20号線と駅前通りが交差する西側に杉屋旅館がある。井上でんは、その杉屋旅館前に落ちた爆弾によって吹き上げあれた土砂によって生き埋めとなり、亡くなっている。先の野澤七之甫の文中にも見られ、また小宮直子をはじめ、たくさんの方がたから同様の話を聞かせていただいた。
<お寺道>-------------------------
橋弥守については、先の宮坂稔久から話をうかがうことができた。橋は、国道から林宝山(菊花山)の麓にある行願寺(林宝閣)の山門へと続く「お寺道」に落ちた爆弾によって生き埋めとなり、翌日発見された。
『終戦二日前』の犠牲者リストに載っている59名の中で、代長秀文だけがどうしてもわからなかった。市有文書の中にもその名が見られないことから、大月町以外の人物であろうことは断定できるが、それ以外は不明である。
もしも、野沢英治の所で引用した『祖国の護り』の「素掘り防空壕内にて同僚四人と圧死」という記述が正しいとすれば、先に見たように3人までは判明できたので、代長は残り1名の税務署職員ではないかと推察できる。
本文中に詳しく書いたが、一覧表を見てもわかるとおり、都留高女では学校での勤労作業や学校防護のためにために登校していた女生徒が20人も亡くなっている。また、都留中では学徒動員先の興亜航空で9名もの生徒が避難先の防空壕で生き埋めとなって亡くなった。これに自宅付近で亡くなった児童生徒が4名、そして税務署で被災した3名の青年署員を合わせると36名もの未成年が死亡したことになる。いかに戦争が若者たちの未来を永久に閉ざすものであるということがわかるだろう。
また、岩田一家はこの空襲で、一家6人のうち、甲府へ出張中だった父を除き、5人が別々の場所で被爆し、亡くなっている。高麗、小宮、小林もそれぞれ親と子がこの空襲によって命を奪われた。これもまた戦争の非道さがわかる事例であろう。
見ての通り、いまだ不明の部分が多く、また誤記等もあると思われるので、是非とも新しい情報をいただきたいと思う。
最後に、本調査で新たに発見した2人の死亡者について報告しよう。
『終戦二日前』の犠牲者リストによると、8月13日の「大月空襲」によって亡くなった方が59名いたことがわかる。先に述べたように、文献によっては54名、あるいは55名という死亡者の数字も見られるが、この数字の違いは、調査時点での確認された人数であり、果たしてそれが即死者だけなのか、あるいは後遺症によって亡くなった者を含むものなのかは、私の力不足のために断定はできない。しかしながら、後遺症で亡くなった方も、もし「大月空襲」が無かったならば、天寿を全うできたはずであり、この意味から言っても即死者と同様に、空襲の犠牲者として名をとどめ、弔われるべきであろうことは論を待たず、そこには何ら差違はなく同じ重さで扱われるべきである。
さて、調査時に確認された人数が記録に留められるべきとしたら、本研究の調査過程で判明、発見した次の2名も追記されなければならないだろう。ちなみに、どういう理由かはわからないが、この2名の名前は、これまで発行された刊本には掲載されていなかった。
まず、石倉尊子(貴子)という女性の名をあげることができる。石倉の名が最初に表れるのは、大月市有文書「戦災関係綴り」中の「発第五一六 見舞金並ニ弔慰金支給申請書送付ノ件」(昭和20年10月19日付 大月町長から北都留地方事務所長あて)に添付された「見舞金調書」(これに記された日付は昭和20年11月19日になっていて、戦災援護会山梨県支部長あてとなっている)の中である。名簿の二番目に記載され、住所欄は大月町本町とあり、氏名は石倉尊子、備考欄には「目ノ異物右踵ニ擦過傷」とその怪我の程度が書かれていた。次に表れるのは、「北都総収第一八〇八号 弔慰金及見舞金支給ニ関スル件」(昭和20年12月3日付 北都留地方事務所長から大月町長あて)に添付された見舞金のリストの中である。これは、日時と宛先により先の文書の回答であることがわかる。3番目に現れるのは、岩田の時に引用した「大保収第60号 祭資料並ニ御下賜金伝達方依頼ノ件」(昭和21年2月22日付 大月警察署長から大月町長へ発送)の書中である。記載事項の「二、空襲ニ依ル死亡者」の中に、石倉貴子の名を見ることができる。住所は大月町大月となっており、七円の金員が支払われている。これ以外に、手がかりは無く、年齢はもとより、没年月日もわからない。
尚、この欄外には、高麗の3人、岩田の5人、そして城之内定雄とともに、鉛筆書きで「牧野守衛 神宮寺孝彦」の名と、とじひもの穴と重なったために判読不明な文字が記されていた。興亜航空の社長の名は牧野覚であることから、おそらく興亜航空の守衛ではないかと思われるが、神宮寺の名も他の文献中に見あたらないので、これ以上のことは推察すらできない。尚、牧野の親戚に一字違いの神宮司という方がいるが、このことも含めて残された課題のひとつである。
次に、平山清一という青年の名があげられる。平山の名を知ったのは、2002年に行願寺で営まれた都留中、都留高女で亡くなられた方々の法要の席上であった。行願寺から大和村に嫁に行った鈴木古之江(当時笹子国民学校訓導)が手伝いに来ており、行願寺前に落ちた爆弾の被害の様子を聞く中で、大和村に「大月空襲」で亡くなった方の遺族がいるという情報を得た。早速、遺族と連絡をとり、直接話をうかがうことにした。
大和村に住む遺族とは、平山の兄にあたる幸作で、当時は元八王子にある西川工業株式会社に勤務していた。弟の清一について、幸作は次のように話してくれた。
清一は、昭和19年に国民学校を卒業後、国鉄に就職し、甲府で3か月研修を受けた後に、大月保線区に配属され、仕事は建築関係の部署に就いた。大和村の田野にある自宅より通勤しており、当日の朝もいつも通り家をでたものの、途中で下駄の鼻緒が切れたために家に戻り、出直している。
幸作が清一の死を知らされたのは、初七日の法要の時であり、父が八王子まで電車を使い知らせたに来たという。幸作は、大和村へと帰る電車が大月駅に停車した時、駅の東側構内に八畳ほどの大きな穴を見た。法要の翌日、八王子へ戻るために列車に乗り、清一の死亡の状況を知るために大月駅で一時下車した時には、先の穴の他に、自分の背丈くらいの深さがある大きな穴を駅の待合室前でも見ている。
清一は、大月駅構内東側に着弾した爆弾により死亡した。腕はもぎとられて屋根に飛ばされ、2、3日後に発見され、遺族のもとに届けられた。
また、死亡調書も見せていただいた。「空襲ニ因ル変死者検視調書」と題された書類は、60年近くの歳月を経て変色し、インクも退色しており、読みとりづらかったが、以下のような記述があった。
空襲ニ因る変死者検視調書
昭和二十年八月十三日午前九時/分空襲ニ因リ出シタル管内
死者ヲ検視スルト右ノ如シ
変死
日時場所
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死因並びに創
傷部位
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変死者の住所職
業氏名年齢又
人相特徴着衣 |
立会医師
又は
立会人 |
死体の引取人
住所氏名
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参考
事項
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八月十三日午前九時
大月駅構内
□線□木工作業所
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爆死
窒息
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南山梨郡大和村
田野二八五番地
建築工□
平山清一
当十七年
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戸主
|
戸主
平山清信
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即死
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右検視ヲ終ワリ此ノ調書ヲ作ルモノナリ
昭和二十年八月十三日
於
大月警察署 印
検死官 □□□ □□□ 消
右謄本ナリ
昭和廿年九月壱四日 山梨県大月警察署 伊藤清治 印
日付、場所、氏名、死因等、明らかに、平山清一も「大月空襲」で被災し、死亡していることがわかる。
以上、石倉や平山の例で見るように、後遺症で亡くなられた方々、もしくは即死者でも他所から通勤していたために町の記録や町の人々の記憶に残らなかった方々が、戦後の混乱期の調査統計から漏れ、数字に表れない犠牲者としてまだ多数いるのではないかと思われる。
今後の大きな研究課題である。
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