来襲した飛行機
 
 大月を空襲した飛行機の機種は何だろうか。多くの「証言」を分類すると、B29、B29とグラマンの編隊、P51、そしてグラマン、大きく分けてこの四つに分類できる。
 まず、B29によるものとの可能性は低い。この時期には、100機前後の編隊による中小都市への焼夷弾攻撃が行われており、「大月空襲」では焼夷弾は投弾されていないし、もしそんな多数機の爆撃を受けたとしたら町は消滅してしまう。さらに空襲は四日に一度のペースで行われており、14日の夜には熊谷・伊勢崎などへの空襲があり、「大月空襲」はその前日にあたりこのペースから外れる。そして、何よりも米軍第21爆撃機集団の「作戦任務報告書」には13日の空襲の記録は無い。しかし、単機もしくは数機による空襲前の写真撮影のための偵察飛行や、空襲後の爆撃評価のための飛行した際に通常爆弾を投弾した可能性もあり、アメリカ戦略爆撃軍の資料でまだ確認していないのでB29ではないと断定することはできない。
 次にB29とグラマンの編隊による攻撃。これはありえない。艦上機であるグラマンの母艦が所属するアメリカ海軍機動部隊の「戦闘報告書」にはこの日の行動にB29との共同行動を示す記述は無かったからである。
 またP51もありえない。なぜなら硫黄島は東京からはるか1000km沖合にある。P51のその往復距離は補助槽を着けたP51の航続距離ぎりぎりでり、彼らの日本での行動時間はわずかに1時間足らず。そもそも補助槽を着けるために爆装できず、夏頃には13pロケット弾を装備していたが、爆撃の後に残された鉄片はあきらかに爆弾のものであり、その被害状況の甚大さからも違うことがわかる。
 残るはグラマン。しかしながら、小型機の機種を断定することはできない。なぜなら、空高く飛んでいる小型飛行機の種類を判然と識別することなど無理であり、ましてこれまで実際の小型機を間近に見たことも無い一般の人々に識別できるわけが無い。それに、空襲を受けている時に、身を隠すのが精一杯で、機銃を乱射し爆撃してくる飛行機をじっくり観察することなどできはしないはずだ。小型機といえば、艦載機、そして艦載機といえば有名なグラマンだろうということになる。つまり、グラマンに代表される艦載機による爆撃が最後の選択肢として残る。
 艦載機である可能性を補強するものとしては、公的な出版物中にその記載が見られることである。8月14日付の新聞報道には、千葉県房総沖に停泊した機動部隊より発進した「敵小型十数機の編隊が山梨県下に来襲、主として大月町を中心に爆弾を投下した」との記事があり、1952年に発刊された『山梨県政六十年誌』では、「艦載機F6F十八機が東部から侵入、西南進して大月町・禾生村・下吉田町を爆撃」との記載がある。さらに、大月市が市制30周年を記念して1984年に出版した『終戦二日前』には、大月市史編纂のための資料中にあったものとして「本町空襲は艦載機三編隊十八機により全町に亘り」という記述を紹介し、次いで、当時大月在郷軍人分会長、民防空監視隊・大月監視隊長であった山口明男の座談会での「F4、F6の編隊が六機編隊で二挺団でむすび山方面から川谷に沿って東進して来て」という発言があり、そして、当時大月警察署長の井口弘久は「爆撃機は米海軍艦載機でF4F型、来襲機数三四機」と警察日誌に記録されていたとして体験文を寄せている。
 また、体験文、あるいは証言も、グラマンもしくは艦載機というものが圧倒的に多い。
 
 以上のように、「大月空襲」は、B29の単機または数機による通常爆弾攻撃の可能性を残すものの、機種及び機数の確定はできないものの、アメリカ海軍機動部隊より発進した艦載機によって行われたものであると考えるのが妥当であろう。 

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