空襲を受けた理由
 
 空襲を受けるには空襲を受けるだけの理由があり、空襲する側にとっては空襲の目的があるはずである。
 B29による爆撃は、敵国の軍事施設や航空機産業を中心とした工業生産施設を破壊し、継戦能力を低下させることを目的として行われた。これを「戦略爆撃」と言う。日本の諸都市の民家密集地帯に対する爆撃も、日本の工業生産が民家での内職と民家と隣接雑居する中小工場に支えられていることを理由に正当化されている。
 この観点に沿って、空襲が行われ、第一期では主に軍事施設への攻撃が、第二期から第三期にかけては、政治・経済の中心地である都市が大都市から順に中小都市へと攻撃が行われた。
 しかしながら、その実態は無差別爆撃であり、特に焼夷弾による爆撃が本格化する第二期以降は、都市の住民そのものを標的とし、無辜の市民を死の恐怖に追い込み、継戦意志を挫き、厭戦感情や反戦感情を喚起して降伏させる所に主眼が置かれるようになった。
 また、これに加えて、戦争末期にはグラマンやロッキードなどの小型機による通常爆弾やロケット弾、そして機銃掃射などの攻撃が行われ、市街地ばかりでなく農村部まで空襲を受けるようになった。
 軍事施設ばかりでなく市民そのものを狙うにしたとしても、効率という面から考えてみて空襲を受けるに値しない場所が爆撃されている例が多くある。これはどうしてだろうか。米軍の様々な爆撃報告書や戦闘報告書を読むと、当初予定されていた地点が必ずしも爆撃されていない事例を多く見ることができる。小倉を第一目標にしていたB29「ボックスカー」が長崎に原爆を投下したように、気象条件などによって予定地点が爆撃不能の場合は、第二目的地点へ移動し投弾する。そこでも爆撃ができない場合は、帰りの燃費を考えて少しでも軽くするために都市であろうが農村部であろうが目立つ構造物に爆弾を「捨て」、動く人や物に対し機銃を乱射したためである。これなどは、意味のない空襲とも言えよう。
 
 さて、なぜ大月は空襲を受けたのであろうか。多くの人が疑問を持つ。山に挟まれたこんな小さな町がどうして狙われたのだろうかと。
 
 大月の町について、少しふれておこう。
 大月の町は、山梨県の東部に位置し、町の北側を流れる桂川の河岸段丘上にある。旧名を広里村大月といい、明治中期までは歌川広重の描く「大月ヶ原」にみられるようにほとんど民家が見られなかった。しかし、1902年(明治35年)に甲武鉄道(現JR中央本線)が開通し大月駅が開業したことにより大月地域は東京・横浜方面と結ばれ、また中央線の開通とともに大月〜西桂〜籠坂峠間に富士馬車鉄道(現富士急行)も開通し、富士北麓方面への交通路も整うと、生糸・絹織物などの流通が活発化し、富士北麓方面への分岐点として発達、交通の要衝地として急速に市街地化した。さらに県による富士北麓観光計画の下で、1929年(昭和4年)には富士山麓電気鉄道に大型電車が運転され、1931年(昭和6年)に中央線も電化されると、富士北麓の観光の入り口としての役割も加わり、大月駅が所在する広里村大月は、1920年(大正9年)の2,309人から1935年(昭和10年)の3,683人へと、15年間におよそ60%の人口増加を見せた。
 交通の要衝地としての発展、それに伴う人口の増加は、公的機関の移転や設置をもたらした。1900年(明治33年)県立第一中学校の分校が設置され、1910年(明治43年)県立都留中学校と改称し、1923年(大正12年)県立第四高等女学校が開校、翌年都留高等女学校と改称して大月は郡内の教育の中心となる。また、大正15年には甲斐絹市場の開設され、1927年(昭和2年)にはそれまで花咲にあった広里村役場が大月に移転されて、名実ともに政治・経済・文化の中心地となった。
 
 交通の要衝、それに伴う政治・経済・文化施設の集中の様子は空中から撮影した大月の写真を見るとよくわかる*1。山の間を南西方向から山中湖を水源とする桂川が流れてきて、市街地の西端で笹子峠を水源とし西方向から流れてくる笹子川と合流し、東京・神奈川方面へ流れていく。そして川に沿うように国道と鉄道が走り、合流分岐している。
 マリアナを基地としたB29は京浜方面を空襲する際には、富士山を目標に駿河湾より進入し、桂川沿いに東進して大月上空を通過して爆撃を行ったのであるから、眼下に見える大月の地理には詳しく、道路や鉄道の合流点に栄える市街地が人的物的にも重要な地点であるという認識はあったはずであり、戦略上攻撃すべき都市としてリストに載せられていた可能性は高い。
 さらに、この狭く小さな町には、大きな構造物がひしめいていた。線路の北側には能登精機(現大月東中学校)、興亜航空(現興和コンクリート)、大月産業(現住宅地と大月倉庫)があり、南側には都留中(現都留高等学校)、大月国民学校(現大月東小学校)、都留高等女学校(現大月短期大学及び付属高等学校)がある。さらに東には1908年に竣工した日本最初の長距離大容量送電を果たした駒橋水力発電所、そして町の南側にそびえる林宝山の裏側には発電所に引き込む水路がくっきりと見える。また軍事施設としては、能登精機の東対岸の美堂(現みどう団地)には陸軍電波探知所があり、都留中学校の東対岸の結び山には陸軍防空監視哨があった。
 
 それぞれの構造物について簡単な説明を加えると以下の通りである。
<興亜航空工業株式会社>
 大月駅の北側には興亜航空工業株式会社(元興和コンクリート株式会社 現在は空き地)があり、海軍のダグラス型輸送機の翼を製造していた。本来のジュラルミンによる製造と並行して、ヒノキを骨組みにしベニヤ板を接着剤で貼り付けた木製翼の試作も行われていた。また、飛行場などに並べて日本の航空兵力の見積もりを誤らせたり、無駄に爆弾を投下させたりするための囮飛行機もベニヤ板で造っていた。
 興亜航空は、それまで蔟という蚕が繭を形成するのに都合よくするための蚕具を製造する会社だったが、昭和19年に都留中生らの動員により飛行機を製造する会社に造り替えられた。完成後、同年7月21日に都留中3年生に動員命令が発令され、設計、板金、木工の三部門に分かれ、一般の従業員や海軍の工作兵とともに仕事に従事した。しかしながら、中学生らが直ちに役に立つ場面は少なく、設計の勉強や、木工道具の調整、工具箱やいすの製作などの木工訓練を行ったり、リベット打つ裏当てを押さえることくらいしかできなかった。
 昭和20年4月には都留高女の4年生が、6月には都留中の2年生が戦列に加わり、この頃から始まった囮飛行機の作成を行うようになった。
 8月には木製の主翼が2枚完成し、12日、その1枚が立川の昭和航空に陸路で輸送するために台車に乗せらて工場の外に置かれていた。また、空襲当日は鉄道の引き込み線にあった貨車に多数の囮飛行機が並べられていた。
 昭和20年8月4日付の朝日新聞の二面に「羽ばたくぞ "木の翼" 入魂独特、モスキートを凌ぐ」と題されて、木製飛行機工場の記事が掲載された。会社名は伏せてあるが、書かれている内容から興亜航空のことではないかと思われる。
 なお、この興亜航空には、工作兵、学徒、そして女子挺身隊を含む一般従業員がそれぞれ200人ほど、計600名ほど勤務していた。
 
<大月産業>
 鉄道より北、興亜航空工業株式会社の道を挟んだ東側には大月産業株式会社(現在は宅地、都留食糧株式会社、大月倉庫あたり)があった。昭和18年頃、小宮土平を中心に町内の商工業者たちが共同出資して設立した軍需工場である。そこで作業していた天野保(当時中学3年生)は、飛行機の翼にある燃料タンクのふたを製造していたと言い、また小宮直子(当時15歳)は、航空機の尾翼らしきものを造っていたと言う。
 
<能登精機>
 市街地の西端で桂川と笹子川が合流し、その合流点に覆い被さるように突き出た岬がある。美登里が崎といい、そこに能登航空(現大月東中学校)があった。昭和19年に勤労動員で桑畑を整地し、飛行機の歯車(一説によると計器類も)の製造を目的に工場が建てられたのだが、本格的に稼働する前に終戦となってしまった。
 
<都留高女>
 昭和19年5月より学校工場を開設し、上野原の落下傘製造会社の分工場として落下傘の製作が行われるようになった。裁縫室と二つの一般教室に作業台とミシンが運び込まれ、物量投下用と思われる小さな落下傘の製造が始まった。当初は3年生と4年生の230人あまりが勉強と作業に一週間交替で従事していたが、昭和20年の2月の初めに3年生が「興亜産業」に学徒動員されるようになると、2年生が替わって作業にあたった。やがて講堂にもミシンが導入され、増産化が図られ、4月からは新4年生がそのまま興亜産業に動員されたため、新3年生と4年で卒業した後そのまま女学校に残った専攻生が通年で従事するようになった。
 また、興亜航空に来ていた海軍工作隊の宿舎としても使用され、さらに昭和20年7月には、航空本部第四陸軍航空技術研究所が疎開してきており、2教室を借りて航空機の雑音防止の研究をしていた。
 
<都留中>
 4,5年生は県外の海軍工廠や航空機工場に動員され、2,3年生は大月の興和航空 、吉田の武蔵航空などの近隣の軍需工場へ動員された。
 学校自体も立川航空隊の研究部隊に接収され、多数の技術将校と思われる人たちが勤務し、化学兵器を造るための研究をしていたので、2年生の一部はこの部隊の使役に動員された。平井茂(当時都留中1年生)はこのことについて、駐屯していた部隊は田中部隊といい、新校舎6教室を使い何かを造っていたということ、そして都留高には田中部隊が残していった双眼鏡が保存されていることを教えてくれた。
 また、武道場も学校工場となり、図書館には北都留郡警備隊本部、在郷軍人会本部が置かれ、寄宿舎は軍の宿舎として使用されていた。
 
<駒橋水力発電所>
 1907年(明治40年)、東京電力の前身である東京電燈により建設された。大月の南西5kmの禾生村川茂(現都留市川茂)より取水し、専用水路により途中3か所のトンネルを経て、発電所の南側にそびえる御前山から張り出した尾根の中腹に造られた貯水池まで送られ、100mあまりの落差を利用して発電した。6台の発電機を装備し、出力は17,000kwを誇り、発電された電気は55,000Vという当時としては画期的な高電圧送電線で、75qも離れた東京早稲田まで送られた。このことにより駒橋発電所は電力の長距離大容量送電の嚆矢となり、これ以後各地に水力発電所が建設されていく先駆けとなった。
 米軍はインフラとしての発電所に注目し、攻撃目標の重要な施設として位置づけていた。駒橋発電所の名も、「空襲目標情報地域調査」(Japanese Resources Reference Notebooks 1945)という報告書の中に見ることができる。同報告書は47都道府県ごとにその中心都市の概説と、軍事施設、鉱工業施設、鉄道や道路、港湾施設などをリストアップしているが、その山梨県に関する章の「電気設備及び灯台」(ELECTRIC & LIGHT)という項において、県内の8か所の発電所をリストアップする中で、駒橋発電所については以下のように記述している。
 
Komahashi HE Power Plant (35-37 138-57) Cap 23,400kw
Unit in Katsuura R HE development supplying Tokyo with
power. (AAFAOF) (Picfiles)
 
Tokyo Dento Kabushiki Kaisha - Komahashi Power Station -
Location of Dam, Yamanashi Pref, Kitatsuru-Gun Kasei-Mura.
Location of power house Yamanashi Pref, Kitatsuru-Gun,
Hirosato-Mura. Construction of powerhouse, concrete steel frame,
brick walls, galbanized iron roof. (ONI Rpt filed Komahashi,
Yamanashi.)
 
<陸軍電波探知所>
 1944年(昭和19年)9月12日、大月町花咲1,560(現みどう団地)に、森本友次少尉を隊長として部下24名よりなる小隊が電波探知所陣地を展開した。直距離20km以内の敵機の高度と位置を測定し、東部軍司令部に電話で連絡することを任務とした。施設は、「た号」電波探知機を使用し、送信機小屋は木造1坪、受信所は木造4坪よりなり、屋上にはアンテナが据え付けられていた。宿舎は都留中の南、菊花山の麓にある無辺寺と、桂川の対岸、美登里が崎にあった能登精機の工員宿舎に半数ずつ分宿していた。
 
 以上、大月の街の中で特に目立つ構造物について述べてきたが、これらの中で先の「空襲目標情報地域調査」の中に取り上げられていたのは駒橋発電所だけであることから、大月はさほど戦略的に重要な地点ではなかったことがうかがえる。
 それでも、興亜航空で製造された木製翼や囮飛行機等は搬出のため屋外に並べられていた時もあったということであるから、単に記録に残っていないだけか、あるいは他の報告書等に記載されている可能性も残る。
 また、当時の日本の工場では何らかの形で兵器に関わるものを生産し、また学校も校舎の一部が軍需工場の一部として使われ「学校工場」と呼ばれていた。アメリカ軍にとってもこのことは周知の事実で、当然、これらの大きな構造物が軍需工場であると認識されれば攻撃されることは十分考えられよう。
 そして写真を見て不審に思えるのは、先にも触れたが、禾生村川茂(現都留市川茂)より駒橋発電所まで延々と続く水路である。おそらく、航空機の乗員たちは「空襲目標情報地域調査」に項目が設けられているように、発電所は戦略上の重要な攻撃目標であり、6本もの導水管を持つここにまず着目する。次いで、そこから引き出される水路とトンネルに視点を移し、その意味を分析する。都市空襲が始まるに伴って都市にあった工場が地方へと疎開し、さらに地方へと空襲が拡大激化すると地下に工場が造られ始めた。発電施設、水路、トンネル。この要素から導き出された答えは、林宝山の地下に工場のある可能性である。しかも、水路を戦闘機を引き出すための誘導路とし、そして所々にあるトンネルを戦闘機を隠す掩体壕と見たてれば、戦略上最も重要な航空機工場と思ったのではないだろうか。林宝山に数十発の爆弾が投下されたという証言が、その可能性を強める。
 
 交通の要衝、発電所の近くにいくつもの大きな構造物、そして地下工場の可能性。大月が空襲を受けた理由は、この三点に集約されるのではないだろうか。

*1 この写真は敗戦後15年を経過した1960年に撮影されている。都留高女の正面玄関にあたる屋根の色が違うのに気づくだろうか。また林宝山に爆弾の着弾を示す丸い穴がおぼろげにいくつか確認できるだろうか。さらに岩殿トンネル(現在は廃道)前の着弾点を識別できるだろうか?それ以外にも、それらしきものが見えないだろうか?
 

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