刊行本に書かれた「大月空襲」
 
 私が調べた「大月空襲」の実態を述べる前に、「大月空襲」に関する記述がみられる刊行本資料を、発刊年代順にたどり、その概略を紹介しておく。なお、年代を表すのに西暦を用い、文字は現代表記になおした。
 
○1945年8月14日の新聞報道
 「十三日午前八時二十分頃敵小型十数機の編隊が山梨県下に来襲、主として大月町を中心に爆弾を投下したが被害僅少(甲府)」
 空襲翌日の新聞報道であり、空襲の日時、機種、機数、おおよその投下地点がわかる。
 
○1949年に経済安定本部が作成した『太平洋戦争における我国の被害総合報告書』
 「第一部 人的被害 第一、銃後人口の被害 三、都市別被害」都道府県別被害の内訳の一覧表が掲載されている。その山梨の項には次のように掲載されている。

銃後人口被害

総計

死亡

重傷

軽傷

甲 府 市
対県総数比
 

  2,112
 100,0%
 

  1,027
  100,0%
 

   186
  100,0%
 

   899
  100,0%
 
 つまり、山梨県の空襲はすなわち甲府市の空襲だけととらえられ、「大月空襲」は統計上無かったことになってしまっている。
 
○1952年に発刊された『山梨県政六十年誌』の「第二章 戦災と復興  第一節 戦災  四、その他の被害」p.488
 「八月十三日には艦載機F6F十八機が東部から侵入、西南進して大月町・禾生村・下吉田町を爆撃、小型爆弾五十個を投弾、大月町農業会、大月税務署、都留高女、武蔵航空工場を襲い、死者は実に五十四名、重傷者四十八名に上り、甲府市に次ぐ悲惨な被害を受けた。工場三棟、民家二十九戸全壊、工場二棟、民家四戸半壊、罹災者は百十名に達した」
 戦後7年目にして具体的な名称や数字があらわれてくる。しかしながら下吉田町にあった武蔵航空工場が空襲を受けた時刻は、午前9時30分であり、時間的にずれが大きすぎるので、違う部隊によるものだと思われる。
 
○1955年、『大月織物協同組合沿革史』(大月織物工業協同組合連合会編纂)の「終戦直 前に於ける爆撃の様相と織物界現状」p.51
 「昭和二十年八月十三日午前九時頃大月町の上空に敵の飛行機は轟音凄しく来襲し、忽ち爆弾の投下機銃の雨に町民は黯然として心胆を寒からしめたのである。就中都留高等女学校(都留高等女学校東校舎)の悲惨事は惜ら天真爛漫の女生徒の姿を一瞬のもとに爆死(当時の犠牲者、即死せる女学生十八名、重傷の後死去せる女学生一名、小使給仕を合わせて三名、計二十一名)せしめ且つ多年我が繊維染色工業に携わり功績のあった北都留郡繊維雑品染色工業協同組合理事長藤本元定氏(大月町)の憤死は実に本県染色工業のために惜しむべき偉材を失つたのである。また、大月税務署吏員の職務に殉死(殉職者五名)せし事は誠に哀惜の情に堪えないのである」
 爆弾の投下ばかりでなく機銃掃射があったことや、都留高女や税務署の爆撃で死亡した人数が具体的に示されている。しかしながら、都留高女での死亡者合計の人数が、その内訳の合計と違うのはいかなる理由からであろうか。
 
○1956年の全国戦災都市連盟調査による「全国戦災都市空爆死没者一覧」
   「大月空襲」の記載は無い。
 
○1962年に発刊された『山梨県政七十年誌』(災害と復興  第一節 戦災と復興)p.679
 甲府空襲の記載はあるものの、大月及びその他の地域の空襲の記載は無くなっている。
 
○1968年の『週刊読売』編集部による「全国一四七都市戦災調査」
   この「全国都市の被災一覧」に大月市の項がある。





 

市町村

被災日

死者

傷者

被災者数

家屋被害

参考

大月市

 

8・13

 

 54

 

 48

 

  110

 

  35

 

大月税務署、武蔵航空工場が爆撃された
 
 『山梨県政六十年誌』をもとにした数字であることがわかるが、武蔵航空工場は吉田にあったのであり、明らかに誤記である。
 
○1973年の『大月東小学校 開校百年の歩み』 開校百年記念祭実行委員会編
 p.7に、当時、空襲被害の中心地が学区となる大月東小学校の教諭だった、小池剛の手記が収められている。
 空襲体験者が書く文としては初出のものであり、空襲直後に勤務先の大月東小学校から無辺寺、大月幼稚園、三島神社へと林宝山の山裾にある五ヶ堰沿いに高所から町を見下ろしながら移動し、都留高女の救援活動に携わった小池は、大月税務署、都留高女などの町内各所ばかりでなく、町の南にある沢井地区から林宝山一帯の山に二十数発の爆弾が投下されたことや、爆撃ばかりでなく機銃掃射による被害も出たことを克明に綴っている。
 しかしながら、「忘却し得ざる思い出は、今から二十八年前の八月十三日午前八時二十分、B29による大月大爆撃のことである」「憎いB29は、対空砲射もないためかなかなか退却しなかった」とあり、「大月空襲」をB29によるものとして記述し、小型機等の襲撃にはいっさい触れられていない。
 また、p.25には、訓導として勤務していた板倉忠千代が書いた大月空襲に関する文もある。
 板倉は、峠へ松根油の原料取りに出かけているときに谷村方面と大月方面に爆弾の爆発音を聞いて空襲だと直感し、小学校に急ぎもどり、その途中で見た有様や、学校周辺の被害の様子を綴っている。
 板倉によると、小型機による爆撃であることがわかる。しかし、爆撃の時間を「正午近く」としているのには他の文献と比べると大きな疑問が残る。
 
○1975年の東京空襲を記録する会による「日本本土空襲概報」
   空襲を受けた都市の一覧表があり、その中に大月の項がある。




 

年月日

時間

地域

米軍機

戦災家屋

罹災人口

20・8・13
 


 

大月
 


 


 

  110
 




 

負傷者

死者

爆弾量など

発進基地など


 

54
 


 

  機動部隊
 
 これも『山梨県政六十年誌』をもとにしたと思われる。発進基地などを機動部隊としたのは、その文中に「艦載機」とあることからの推測であろう。
 
○1976年の『大月市史』(史料編) 大月市編纂委員会
 p.725に『大月東小学校開校百周年記念誌』(1973)から転載した小池の手記が掲載されている。
 
○1977年の『たたかいの後に 〜子どもにおくる戦争体験記』 大月東小PTA 編集
 大月東小学校PTAの教養部の方々の手により、体験記がまとめられた。個々の体験記を読み比べると、来襲時刻や機数、爆弾投下数がまちまちで、どれが真実かわからない。
 しかし、体験記の中で爆撃された場所が特定されるとともに、その範囲が西は花咲地区、東は七保地区までに及んでいること、北では瀬戸地区まで飛来して機銃掃射を加えたことが綴られ、広範な地区が被害に遭ったことがわかる。
 p.96にコラムが設けられ、元大月町役場職員の相馬了作(当時25歳)が空襲の状況を次のように記している。
「八月十三日午前八時空襲警報発令
 同      八時二十分爆撃はじまる
 爆撃時間 約十八分間
 機種   艦載機
 爆撃による主な被害か所
  本町一丁目溝口貴之氏裏   家屋倒壊
  本町一丁目小宮義祐氏付近  家屋倒壊  死者四人
  琴平町大月税務署表庭    家屋倒壊  死者三人
  広月町三品屋付近      家屋倒壊
  神明町杉屋旅館       家屋倒壊  死者一人
  御太刀清水折骨医前十店長屋 家屋倒壊  死者一人
  御太刀井上湯屋宅      家屋倒壊  死者一人
  御太刀加藤一郎氏宅     家屋倒壊
  御太刀田村寅造氏庭     家屋倒壊
  御太刀中島徳平氏宅     家屋倒壊
  御太刀都留高女       勤労学徒  死者二十人
  御太刀興亜会社社宅     家屋倒壊  死者数人
  北天神浅利道        防空壕に避難した勤労学徒十二人死亡
  機銃掃射 大月御太刀全域
  この日の爆弾の投下数は花咲から駒橋にかけ、林宝山をふくめて、約八十発とも  百三十発ともいわれている。爆弾の規模は、二十五キロないし五十キロといわれ  ている。」
 「主な」と断りながらも、町中心部の着弾地点を固有名をあげて特定し、家屋の損傷程度や死亡者の人数があげられている。
 また、p.164には、爆弾が落とされた地点の大月中心部の地図が添付されている。
 
○1978年の『み霊に捧ぐ』 遺髪塚整備委員会 編集
 爆弾の直撃を受け、学生及び職員を含めて20名以上の死者を出した都留高女に関係する職員や同窓生の手により、三十三回忌にあたる1977年に遺髪塚が建設され、その法要を営んだあとの懇親会で、空襲体験記の編集委員が委嘱され、翌年刊行された。
 p.5にある経過の記述の中に、三十三回忌法要を機に合祀された人々の名前が記載されている。女学生20名、教諭2名、職員2名の計24名の名前を確認することができる。
 しかしながら、p.15から始まる当時教頭であった望月文雄氏の手記を読むと、「十八の尊霊に哭す」という文言が見られ、早くも人数の齟齬が生じてくる。
 手記の中から、かなり具体的に被害の状況を知ることができ、また、学校工場として「小さい落下傘の様なものを縫っていた」ことなどもわかる。
 
○1978年の『大月市史』(通史編) 大月市編纂委員会
 先の史料編に続いて二年後には、通史編が刊行された。「現代−戦後− 第一章 戦後民主革命期の大月 第一節 敗戦と大月」のp.985に空襲の記述がある。
 「(終戦の)わずか二日前、山間の大月地域もとうとう米軍機の空襲にみまわれた。『大月市史・史料編』に収録してある小池剛『大月大爆撃』にくわしく書かれているように、都留高女、大月税務署を中心に六十数発の焼夷弾が落とされた。
 表玄関の近くに直撃弾を受けて最大の被害をだした都留高女のことは、都留高校に所属されている『都留高女教務日誌』八月十三日付けの記事から、即死者十九人、重傷者七人、軽傷者十三人であることが知られる。即死者のうち十六人、重傷者のうち五人、軽傷者のうち八人が生徒たちであった。税務署とその他の空襲については、十分な史料がみあたらないので、被害状況全体はなおつまびらかではないが、しかし、すでにこの日まで、東京大空襲や広島、長崎への原爆投下をはじめ全国のおびただしい都市が空襲を受けている状況からみれば、幸いにも大月の被害は比較的微少であった」
 史料編に収録された小池の手記を引用するのだが、爆弾の個数が「六十数発」に、そして爆弾そのものも「焼夷弾」と書かれてしまっている。ただ、『都留高女教務日誌』という公文書によって被害の状況を客観的に伝えようとしていることは評価できよう。しかし、他の大規模空襲と比較して「大月の被害は比較的微少であった」と評する姿勢には他意は無いにしろ釈然としない気持ちが残る。
 
○1981年の『日本の空襲四 神奈川・静岡・新潟・長野・山梨』今井清一 責任編集 三省堂
   p.343とp.357の二か所に記載があるが、『山梨県政六十年誌』の引用である。
 
○1983年の『同窓−都留高のあゆみ』 山梨日日新聞社 編集
 都留高等学校同窓会と都留高等学校の協力を得て同書は発行された。そのp.272に当時都留中4年生宮坂稔久の証言にもとづき、学徒動員先興亜航空の防空壕での被爆の様子が描かれている。
 宮坂らは岩殿山の甲岩あたりに小さな飛行機が密集して飛んでいるの見て興亜航空のがけ下にあたる浅利へ下る道に横穴式に掘った防空壕に向かった。入る直前に十機ほどのグラマン艦載機が編隊を組んで急降下し始め、馬蹄形に地中でつながっている防空壕を入った穴から隣の穴へ移動したときに被爆した。がけの上の方に斜めに刺さるような形で落とされた爆弾により穴は埋まり初めに宮坂のいた穴では多くの被害者が出た。
 宮坂は次のように述べている。
「防空ごうで埋まったり、工場の庭で機銃掃射にやられたり、都留中学生は四年生が三人、二年生が三人死んだ。翌日、大月在住の連中と海軍の工作隊が協力して、桂川の河原に遺体を運び松の木を切って燃やし、だびに付した」
 また、都留高女の被害については、p.298に記載がある。
「この日は朝から暑く、空には雲一つなかった。夏休み中とはいえ生徒たちは勤労報国隊、学校防護団などに分かれて活動していた。警報は朝から出ていたが、大月駅からは、着いた列車から降りた生徒が列を作って続々と校舎の中へ入ってきていた。八時ごろだった。突然、空襲警報が鳴ったかと思うと米軍の艦載機が頭上にあった。B29に誘導される形で、西から来た艦載機は山峡の町大月に轟音を残し、一度は東に去った。だが、反転した艦載機が再び大月上空に現れたかと思うと、校舎裏の林峯山の山頂付近に十数メートルもの土煙が上がった。間髪を入れず、爆弾が校庭に落ち、次に校舎中央玄関に砂煙が上がった。」
「木暮(旧姓・三枝)好子は宿直室の窓から眼前に米機を見た。鮮やかなブルーの機体は空の青よりも濃く、星条旗の赤い色だけが異様に大きく感じられた。」
「武藤(旧姓・渡辺)百合子は勾玉池のそばで米機を見た。岩殿山より低く、機体の星の印や乗っている米兵の顔まで見えた。」
 文末には、『御霊に捧ぐ』と同じく、女学生20名、教諭2名、職員2名の計24名の名前が記されている。
 
○1983年の『郷土にぎおか』 石井 深 責任編集
 賑岡町岩殿に在住する石井深が編集責任者とした賑岡高齢者学級により、浅利・強瀬・畑倉の三小学校の学区にあたる賑岡地区の岩殿山の東側に広がる地域の歴史や伝承、文化財等の解説がまとめられた。
 その中に昭和十年に岩殿に嫁いできた小俣志げ子が寄稿した文があり、次のような「大月空襲」に関する一節がある。
「空襲は次第に増してきて、岩殿山上空もB29が編隊を作って襲来し、大月も四・五カ所爆弾が落とされ、家はこわされ、畑には大きな窪みができ、此の時に二十数人の人が亡くなりました。岩殿にも大島の田圃に落ちた爆弾の破片がとんできて、生きた心地はありませんでした。」(p.172)
 他の文献に比べ爆弾の投下場所数及び死者の数が少ないが、先の『たたかいの後に』にあるように、大島(七保地区)に爆弾が投下されたこと、また、B29による空襲ともとれる表現であることが目を引く。
 
○1984年の『終戦二日前 〜八月十三日・大月空襲の記録〜』 大月市総務課 編集
 市制施行三十周年を記念して発刊された体験談集である。
 手記に入る前に、「資料からみた大月空襲」と題して空襲の概略が先行文献を参考にして記述されている。この中で、大月町が町史編纂のために作成した資料中にあったものとして紹介されている資料を孫引きする。
 まず、その衛生の項には、
 「昭和二十年八月十三日の第二回空襲により死者五五、傷者四六名を出し一日置きて終戦の詔勅下り、大東亜戦争の終幕を遂げた。」
 続けて、行政の項には、
 「八月十三日戦争様相は緊迫に緊迫を告げ、一億玉砕を決意し当日午前六時東国民学校庭に集合。婦人義勇隊の結成式を挙行、解散直後の午前七時頃の本町空襲は艦載機三編隊十八機により全町に亘り、一斉爆撃と機銃掃射による大被害を受け、之れが措置に懸命なる努力を傾注したるも、未了の八月十五日終戦となってその処理に細心の注意を持って臨んだ。」
 また、小俣治男市長を囲んで行われた「大月空襲を語る」と題された座談会の記録も収録されている。出席者は、当時大月在郷軍人分会長、民防空監視隊・大月監視隊長であった山口明男、同都留高女教諭村上国弘、同都留高女3年生三枝操、同都留中2年生矢頭達哉の4人である。
 この中で、山口は「F4、F6の編隊が六機編隊で二挺団でむすび山方面から川谷に沿って東進して来て爆弾を投下した」と証言している。村上、三枝は都留高女の被災の様子、矢頭は学徒動員先の興亜航空で罹災した時の様子を語り、小俣市長が「体験者にとってはイヤな思い出ですが、戦争を知らない世代に当時の状況を追体験してもらうことも、平和の尊さを知る一つのてだて」であり、「犠牲者の霊を慰めることにもなる」と本書の編纂の意図を述べ、これを受けて出席者の各人が学校関係の犠牲者の名前はわかるのだが、民間人については疎開者もいて犠牲者の名前もはっきりとわからないことに対し無念さを表明している。
 本書の中核となる手記においては、当時大月警察署長であった井口弘久が、大月警察署の沿革史の記録として「爆撃機は米海軍艦載機でF4F型、来襲機数三四機、投下爆弾八〇個余、爆弾量五〇キロ乃至二五〇キロ、死傷者数一〇三名、破壊家屋八〇戸余、罹災者数二四八名」という数字をあげている。
 手記を読んでいくと、先の『たたかいの後に 〜子どもにおくる戦争体験記』、『み霊に捧ぐ』と同様に、事実関係において小さな齟齬があちらこちらに見られる。
 特に、税務署近くの自宅で被爆し、母を失った瀬戸淑正は、「大月を襲った空軍機はP51だったと思います」と艦載機ではなく、硫黄島を発進基地としていたロッキードP51の機名をあげている。
 様々な人々の手記がノンフィクションとして綴られる中で、最後に収めれている当時都留高女教諭であった吉村明雄のものだけが、聞き取り調査をもとにした「物語」であると断りながら都留高女のようすが描かれている。その記述の中では、B29による爆撃ともとれる表現が見られた。
 アンケートの部に寄せられた回答の中では、当時浅利小学校教員だった井上文次郎だけが、「今回はB29による250kg爆弾の投下」と空襲をB29によるものとしているのが目立つ。また、都留中2年生の奥秋忠夫は先の瀬戸と同じく、爆撃をP51であるとしている。
 巻末には、「大月空襲」により亡くなられた方々が五十音順に列記されている。注には、都留高校、大月市役所並びに市民から提供された資料により作成し、空襲後、亡くなられた方4名も含まれている、との記述がある。人数は59名。年齢、住所も不完全ながら付されている。
 
 
○1993年の『駒橋区誌「ふるさと駒橋」』吉村明雄 責任編集
 元都留高女の教諭であった吉村明雄を編集責任者として本書がまとめられた。縄文時代から現代にいたるまでの駒橋が歴史地理的に描かれており、伝承等の民俗的なものも納められている。
 そのP.63に吉村明雄による「大月空襲」の記述がある。『終戦二日前』に寄せた「物語」を下敷きにし、次のように書き足されている。
 午前八時二十分頃、「いつものように東京方面へと大月上空を去った、B29爆撃機とグラマン戦斗機の編隊は、扇山付近の上空より突如としてUターンし、林峯山腹の送電鉄塔を狙って二十五キロ爆弾を投下」し、間もなく市街地の爆撃となり、前出する施設工場が爆撃され、「死者五十四名重傷者四十八名の多数の犠牲者を出し、工場三軒民家二十九戸が全壊となり、工場二軒民家四戸が半壊の難にあった。罹災者は一一〇名と記録される」とある。
 後半の被害状況は明らかに『山梨県政六十年誌』からの引用である。
 また、矢ヶ崎邦丸が執筆した「第五章 戦争犠牲者の慰霊」の中に、都留高女で被災し亡くなられた同地区在住の能登ミツエの慰霊の文があり、そこにも次のような空襲の記述が見られた。
「太平洋戦争も終わろうとする昭和二十年(一九四五年)八月十三日、午前八時二十分、この山峡の大月が、思ってもいなかったB29やグラマンの空襲を受けたのである。」
 ここでも、爆撃をB29とグラマンの混成部隊としている。しかし、「大月空襲」による犠牲者数は、「大月空襲による犠牲者は、大月市の記録『終戦二日前』に、都留高女生徒二十名、教職員四名、町民その他三十五名、合計五十九名(終戦後に後遺症に亡くなられた方も含む)の多数である」と『終戦二日前』の被害者名簿に掲載されている59名としている。ただし、この内訳については『終戦二日前』にはその記載が無いので、矢ヶ崎が追記したものと思われる。
 
○1993年の『戦壘 −戦時旧制中学生の回想録−』戦壘編集委員会 山梨日日新聞社
 日本が真珠湾、マレー半島を奇襲し、アメリカとの戦争を開始した1941年4月に山梨県立都留中学校に入学し、敗戦の年である1945年3月に卒業した第三十二回卒業生たちが在学中に体験した学徒出陣や動員の様子を手記という形で寄稿している。
 彼らは、戦況が悪化していく中で「戦技訓練」「勤労動員」が強化され、最終的には「通年動員」、敗戦の年には修業年限の短縮で進級取りやめとなり、5年生とともに繰り上げ卒業させられた生徒たちである。卒業時まで動員されていた横浜海軍工廠等での体験が中心で、空襲についての記述もそこでの被災の様子が描かれており、「大月空襲」についての記述は3名のものしかない。
 横浜の勤労動員で体をこわし、都留中の事務を手伝っていた小俣宗則は「三枝君に捧ぐ」と題した文の中で、動員先の興亜航空で被爆死した三枝清一との思い出と空襲の様子を綴っている。彼は、機影こそ見てはいないが、B29とは違う低空を飛ぶ飛行機の爆音から艦載機による空襲であったと断じている。
 横浜の動員を6月末で解除され、都留中で事務や雑用をしていた樋口昭は、空襲警報発令中だったために登校せずに家に待機していて被災した。彼は、家の窓から空を見上げ敵の小型機が次々に通過していく姿をしっかりとらえている。さらに、林鳳山頂近くに上がった土煙と山かげから急降下する飛行機を目にし、防空壕へ入る余裕もなく布団を被り、その下で爆音、機銃掃射の音、爆発音、土砂の降り注ぐ音を聞いている。
 農業をやるということで動員から真木へ帰ることを許された宮下康夫は、畑で草取りをしている時に山一つ4キロメートル隔てた大月が空襲されている音を聞いている。文中で、大月の人から伝え聞いた話として、B29、グラマン、ロッキードの戦闘機数機による空襲であると紹介し、被害者の様子については「都留高女の所でなくなった人は、女学生と近所の人合わせて二十四人、他に亡くなった人三十人、大怪我をした人四十八人、工場三棟、住宅二十九戸が全壊し、住む家を失った人百十人になりました」と書いている。 
 この数字については、『山梨県政六十年誌』を参考にしたものと思われるが、死亡者の内訳については宮下が追記したのではないかと考えられる。
 
○2000年『百年の階 −山梨県立都留高等学校史』「百年の階」編纂委員会 編集    山梨日日新聞社
 都留高創立百周年記念事業の一環として発刊された。その「第三章 発展期」に「大月空襲」の項が設けられている。ここでも『終戦二日前』に収録されている吉村明雄の「物語」が転載されているが、別の箇所では「米軍艦載機グラマンによる空襲」という記述が見られ、興亜航空での惨事については『同窓』で証言した宮坂稔久が同じく防空壕にて空襲に遭遇した同窓生たちとの行った座談会の記録にもやはり艦載機による爆撃である書かれている。
 
○2001年『わが町の太平洋戦争−山梨県大月市の記録−』鈴木美良 山梨ふるさと文庫
 郷土史研究者の鈴木美良の手によって日露戦争からアジア太平洋戦争までの大月が描き出されている。著者自身も1945年8月5日、中央本線下り419列車に乗り合わせ、浅川駅を出発直後、猪ノ鼻トンネル付近でP51による空襲を受けている。
 この本の「第二章 戦中編 一七、グラマン大月を襲う」の中で、「大月空襲」について次のように書かれている。
「現在の大月市街中心部にグラマンF6が、列島近海の太平洋上航空母艦から飛来した。それに対し、海軍の戦闘機約二〇機が、二五〇キロと五〇〇キロ爆弾約三〇発と機銃掃射約二千発の攻撃を加えた。その結果戦没者五四人、負傷者四八人、被災民家三〇戸、壊滅した軍需工場五、被災者百二十人という被害を受けた。(中略)
 この空襲で近隣の町村も被害が多く、艦載機の投下した爆弾の半数は浅利や強瀬、七保にも相当の被災を与えた。
 艦載機の数はF6二〇機前後だったので全爆弾の数は約三〇発、これら戦闘機は爆撃が終われば太平洋上の航空母艦に帰る。洋上まで重い物体と危険度の高い爆弾をかかえて帰ることはスピードの面からも損失が多く、不要な荷物となった爆弾は捨てた。」
 被害の数字については、これも『山梨県政六十年誌』からの引用である。戦闘機数と爆弾の種類と個数、そして銃弾数についての数字については、これまでの刊行本では目にしたことが無く、鈴木により新たに提示されたものである。しかし、残念なことにその数字を提示した根拠については述べられていない。
 また、大月が初めから予定された攻撃目標として空襲されたのかどうかについても不明である。ただ、市街地周辺に落とされた爆弾については、「捨てた」という見解をとっている。