本土空襲に至るまでの経緯と時期区分
 
 大月空襲について述べる前に、日本本土がアメリカ軍の空襲にさらされるようになるまでに至る経緯と、空襲の区分と形態について簡単に触れておきたい。
 
 1931年9月、満州事変により中国東北・内モンゴルへの侵略を開始した日本は、さらにその勢力範囲を華北5省に広げるため、1937年7月の盧溝橋事件をきっかけに中国に対する全面戦争を開始した。強力な一撃を加えれば中国は屈服するであろうとの日本の予想に反し、満州事変以来民族意識に目覚めた中国人民は、軍閥の内戦を克服した後、1937年9月の国共合作を経て、抗日民族統一戦線を結成して民族をあげての対日抗戦に踏み切った。日本軍は、100万の陸軍を中国に送り込み、海軍航空の全力もこれに協力したものの、軍事的に中国を屈服させる事ができず、1938年の武漢作戦と広東作戦の後はそれ以上奥地に進攻する余力がなくなり、それまでの戦線を維持するだけの長期持久戦に陥ってしまった。
 泥沼化する日中戦争の打開を図るため、ドイツ・イタリアと同盟を結び、重慶の蒋介石政権への支援ルートを遮断するとともに、中国との戦争に必要な軍需物資の入手を目的に南方への侵出をめざした。その結果、東南アジア一帯を支配していたイギリス・オランダとの利権の衝突を引き起こし、中国に関心を持つアメリカとの対立を深めることとなった。
 1941年12月、既に仏領南インドシナに侵出していた日本は、真珠湾・マレー半島の奇襲によってアメリカ・イギリスとも本格的な戦争を始めることとなった。ねばり強い中国人民の抵抗により中国大陸に兵を貼り付けさせられた中での戦争は、緒戦こそ華々しい戦果を上げたものの、物量に勝るアメリカがしだいに盛り返し、ミッドウェー海戦で既に戦艦にかわって海上兵力の中心となっていた主力航空母艦4隻を失ってからは戦局が大きく転換し、太平洋方面に戦線を拡大した補給路が確保できずに次々と「転進」を余儀なくされた。また、沖縄に代表される戦略上の要地は決戦に備える本土への侵攻を遅らせるための捨て石として、そこにとどまり「玉砕」を命じられることとなった。
 一方、本土に残る「銃後」の多くの国民は、1942年4月18日のアメリカ陸海軍共同の奇襲作戦である「ドゥリットル空襲」により東京・名古屋・神戸が単発的な被害にあったが、1944年6月15日に中国の四川省成都から飛来したB29 47機による北九州八幡製鉄所への空襲が行われるまでの2年間は、物資が乏しくなり勤労動員が強化されてはきたものの「大本営発表」を信じて疑わず、日本の勝利を夢見ながら安眠することができた。しかし、この後すぐ7月7日にはサイパンが陥落し、グアム・テニアンにもB29の基地が建設され、ここより飛び立ったB29 88機が11月24日の東京都武蔵野市にあった中島飛行機製作所を空襲し、これを端緒として日本全域への空襲が本格化していくにしたがって、枕を高くして眠れる夜はなくなってしまった。
 
 マリアナ三島から飛来したB29による空襲は、その目的地、使用した爆弾の種類により次の三期に分けられる。
 第一期は、1944年11月24日から1945年3月9日までで、日本の航空機産業を主要な爆撃目標とした高々度(7.600m〜10,000m)からの通常爆弾による昼間精密爆撃である。しかしながら、高々度のために日本上空の偏西風や雲の影響を受け、目視は無論のことレーダーによる爆撃でも精度は著しく落ちていた。
 毎回の空襲で飛来したB29は60〜80機ほどで、投下されたのはおもに500ポンド一般目的弾であったが、東京・名古屋・神戸へは焼夷弾も投下されている。
 第二期は、1945年3月10日の10万人もの死者を出した東京大空襲に始まる、大都市への焼夷弾による無差別爆撃である。昼夜を問わず行われ、東京、名古屋、大阪、神戸、横浜、川崎が目標となり、低高度(3,700m〜6,100m)からの爆撃のため、爆弾搭載量が増え、風や雲に影響を受けることが少なくなったため目視爆撃の機会が多くなり、爆撃精度は向上した。
 東京大空襲では、約334機が飛来し、約100万発(2,000トン)もの油脂焼夷弾、黄燐焼夷弾やエレクトロン(高温・発火式)焼夷弾が投下された。他の大都市にも同様に大量投下したため焼夷弾の補給が間に合わなかったことと、沖縄上陸作戦支援のために1か月あまりの中断があったが、5月中旬から再開された空襲では毎回約450機が飛来し、攻撃の規模が格段に大きくなった。市街地の焼夷面積が50%前後になると、その都市は攻撃目標リストからはずされていった。
 第三期は、1945年6月17日の鹿児島、大牟田、四日市、浜松の4都市への空襲に始まる地方中小都市への焼夷弾攻撃である。一度の出撃で四都市をほぼ四日に一回のペースで終戦直前まで計16回行い57都市が攻撃を受けている。7月7日の甲府空襲、8月1日の八王子空襲もこの空襲の一つである。ただし、ヒロシマ・ナガサキへの原爆投下は、特別な指令に基づくものであり、この中には含まれない。
さて、空襲というとB29による焼夷弾攻撃というイメージが強いが、B29も通常爆弾を投下しているし、ロッキードP51やグラマンF6Fなどの小型機もまた、通常爆弾の投弾、ロケット弾の発射、機銃掃射などを行い、非戦闘員である「銃後」の民間人を攻撃した。
 P51は、1945年3月26日に硫黄島が陥落し、B29の中継基地が建設されるとともに配備された。航続距離との関係から爆装できず、サイパンより発進したB29の日本本土空襲を援護したり、独自に編隊を組み、日本本土への機銃による空襲を任務とした。日本本土への来襲は、1945年4月7日の朝、B29約90機とともに約30機のP51が東京西部工場地帯に来襲したのが最初である。身近な被害では、8月5日の昼近く、浅川駅(現JR高尾駅)を出発した下り長野行き419列車が高尾山北側の猪ノ鼻トンネルで2,3機のP51により襲撃され、機銃掃射により52名の死者が出ている。この列車には大月の方々も多く乗っており、『八王子の空襲と戦災の記録』(八王子市教育委員会編)には七保町在住の鈴木美良の体験手記が掲載されている。
 F6Fは、アメリカ海軍機動部隊の艦上戦闘機であり、1944年にサイパン侵攻作戦を支援するために硫黄島と父島を空襲し、フィリピンのレイテ攻略の際には、沖縄にあった日本軍の航空基地を中心に空襲している。本土への空襲は、1945年2月16日の関東地方への爆撃が初めてである。この空襲は硫黄島侵攻作戦を支援するために行われ、房総半島沖からのべ1,000機が発進した。艦上機にはこの他に、F4U戦闘爆撃機、SB2C爆撃機、TBF雷撃機などが配備されており、制海権を失った日本の沿岸に遊弋する航空母艦から発進し、125kgから1tまでに及ぶ爆弾を投下した。
 終戦に至るまで、これらの小型機は市街地はもちろん山間部にまで入り込み爆撃を行い、その運動性能にものを言わせて、動くもの全てに機銃攻撃を加えた。人々は、焼夷弾攻撃とはまた異なった恐怖に怯えなければならなかった。

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