はじめに
 
 昭和20年(1945年)8月13日。満州事変より足かけ15年にわたって続いたアジア太平洋戦争が日本の無条件降伏という形で終わるわずか二日前。私の住む町大月がアメリカ軍の空襲を受けた。
 既に制海権、制空権を失っていた日本の近海にはアメリカ海軍機動部隊が遊弋するようになり、都市に対する焼夷爆弾攻撃を中心としたB29に加えて、航空母艦から発進した艦載機が頻繁に来襲し、大都市はおろか中小都市、山間部の町村にまで間断ない空襲を受けていた。山に挟まれ、河岸段丘上に発達した田舎の小さな町である大月も、ついには例外とはなりえず、空襲にさらされ、多数の犠牲者を出すことになったのである。
 「大月空襲」は不幸なできごとである。しかし、戦争を考えるにあたって身近で貴重な財産でもある。負の財産である「大月空襲」を、次代に「平和」を考えるための正の財産として伝えていくためにも、事実をできる限り正確にそして具体的に記録として残していく必要があると思う。また、その過程で空襲の犠牲となり尊い命を亡くした方々の個別的状況を明らかにしていくことは、その悲惨な状況の中での死に対し「平和の礎」としての意義を与え弔うことになると同時に、われわれの心の中に生き続ける永遠の命を与えるものであると考える。この二点により、都留文科大学大学院文学研究科の修士論文として「大月空襲」をテーマに取り上げることにした。
 「大月空襲」については、現在のところ大月市総務課が編集した『終戦二日前 〜八月十三日・大月空襲の記録〜』(1984年)の他、大月東小PTAが編集した『たたかいの後に 〜子どもにおくる戦争体験記』(1977年)と、遺髪塚整備委員会が編集した『み霊に捧ぐ』(1978年)という三つの刊本があり、また、『大月市史』(大月市編纂委員会 1978年)をはじめとする何冊かの刊本にも関連した記事を見ることができる。
 いずれも、空襲にあわれた方々の体験談を中心にして記述されており、その惨状を知ることができるが、以下に掲げる基本的な三点について、未解明の部分が残されている。
 まず、死亡者の情報があまりにも不足していることである。『終戦二日前』の巻末に空襲犠牲者の名簿が掲載されているが、年齢が不明だったり、苗字だけしか書かれていない人もいる。また、名簿に記載された人々が、どこで、何をしていて、どのような形で亡くなられたのか、本文の記述を読んでもわからない人が数人いる。それ故、死亡者数もまちまちで、未だに確定していない。
 次に、来襲した航空機の機種や機数、投下した爆弾の種類と個数が不明であることである。ある人はB29が来襲し、焼夷弾を投下したと言い、また別の人は来襲したのは艦載機だと言う。また、同じ小型機でもロッキードP51である、いやグラマンF6Fだ、と意見が分かれる。さらに、着弾した地点についても、市街地の周辺にも多数投下されていることが書かれているにもかかわらず、特定されていないなどの不備が目立つ。
 そして、最も疑問に残る点は、なぜ大月が空襲を受けなければならなかったのかという理由が解明されていないことである。空襲を受けることとなった理由の一つに航空機の製造をはじめとするいくつかの軍需工場があったことをあげる人がいる。しかし、そこではいったい何をどのくらい造っていたのであろうか。そして、当時の大月は、戦時下の日本においてどんな位置を占めていたのであろうか。戦時下の大月についてはあまり知られてはいない。
 以上の三点を中心に解明していく上で、まずは、刊本資料はもちろんのこと、大月市や学校などが保有している文書や米軍が公開している軍事資料などの文献資料の収集に努めた。文書等の資料は、敗戦直後の混乱期に散逸したり、故意的に記録に残さなかったり廃棄されたものも多いことは覚悟していたものの、公文書であることから、請求さえすれば現存するものについては簡単に見ることができると思っていた。しかしながら、研究の趣旨をいくら説明してもプライバシーの保護を楯に、閲覧を拒否されたり、原文ではなくメモで開示されたものも多く、思うようには収集することができなかったのが残念である。
 文献資料が予想していた以上に入手できなかったので、それを補うためにも、体験した人たちの「証言」にたよる比重を上げざるを得なくなった。しかしながら、戦後60年を経過し、人の記憶はあいまいになり、その日の天気さえも特定できなくなる。まして、当時20歳前後の若者の多くは戦地に赴いており大月に在住せず、それ以上の人々はすでに鬼籍に入っている人も少なくない。いきおい証言は、当時小学生、中学生だった方々から伺わざるをえず、「証言」は狭い範囲に限定された断片的なものになりがちであった。
 記述においては、できる限り新資料に基づき記述するよう心がけた。「証言」についてもこれまでのものから類推してつじつまの合うものを用いるようにした。しかしながら、未だに推測の部分も多く、未公開資料の開示請求、新資料の発見、新たなる証言の収集等によりさらなる研究が必要であることを強く思う。この拙い私の報告を読んで、新たな情報の提供はもちろんのこと、内容の誤りや研究方法についてのご指摘やご指導をいただければ幸いに思う。

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