ふるさとの伝説、民話集発刊にあたって!!

梁川公民館長 佐々木勝重

 このたび公民館事業の一つである高齢者教室の皆さんのご協力を得て、小冊子ではありますがいくつかの貴重な伝説等が、収録できたことを喜んでいます。清らかな桂川、富士山を思わせる倉岳山、等自然の景観につつまれた梁川の地域、先祖から私たちへそして子、孫へと歴史を継承するとき、目をみはるようなすばらしい伝説や民話にふれることができました。この小冊子が激動する今日、自己中心の考えから失われがちな人情、連帯感、隣人愛などが永遠に生き続ける誇りある郷土のささやかな文化遺産として、広く梁川の皆さんにご愛読を願い次の世代へと受け継がれるならば幸甚と考えております。第二集を期待すると共に高齢者の皆さんの末永い幸せをお祈りいたします。

昭和53年3月


梁川の由来

 梁川町は昔桂川の落ち鮎をとる「梁かけ場」のあったところで、これが地名の由来だといいます。いつかの時代かはっきりしませんが、昔この地の人たちは川瀬に梁をかけて大量に魚を漁獲する方法を知らず、幼稚な方法で落ち鮎をとっていました。それを見かねた越後の薬売りが「梁かけの漁法」を教えたものだそうです。当時の梁かけ漁法は、長い生竹を割り、編んだスダレの梁を谷合いの川のせばまった場所に斜めにかけるもので、落ち鮎を一つ残らず漁獲したそうです。

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斧窪の由来

 斧窪部落のひらけたのは文禄三年頃で現在の「大屋」(斧窪正亮氏)の二代目長九郎という人が屋敷神様としてゴゼン山へ金比羅様、八幡様、山の神様を祀ろうと最初に斧を振り上げたところ間違って斧を窪地に落としたことから「斧窪」の地名になったそうです。ゴゼン山は昔戦国時代「のろし」を上げた山といわれ四方津ゴゼン、宮谷ゴゼンと並び高い峰を利用して敵が攻めてくると「のろし」を上げ救援をたのんだといわれています。
 斧窪の部落は昔から水が豊富で早くから人が住んでいたと思われます。畑を掘り起こすと土器(縄文土器)の破片をときどき発掘することがあります。
 また山の奥の方にはバクチ山と呼ばれている場所があります。平らな格好の木陰でかくれてバクチをしたのだそうです。

天狗岩(綱本)

 綱本の河原の向こう側にそびえる岩が天狗岩と呼ばれています。昔、岩のてっぺんに天狗が住んでいました。天狗は岩からこちらの部落へ綱を張り、夜人々がねしずまるとその綱を渡って遊びに来ました。これが「天狗岩」、「綱本」の地名の由来であります。

舟付(綱本)

 原部落の下を流れる桂川に「舟付」の地名があります。昔、舟付の向かい側に一軒の金持ちのおばあさんが住んでおり、舟往来をしていました。年の暮れともなると金を借りたり、返したり舟着き場はとても賑わったそうです。向山の山中というところにも、昔二、三件の家があったそうです。


雨ごいの話(立野)

 三、四十年前まではあちこちで雨ごいが行われていたそうです。立野部落でも日照りの時は「ワタリ場」の御釜へ農民が集まり、お米、酒、塩を供えお寺の住職がお経を上げると御釜に住んでいる蛇が尾を振って水を上げる。必ず二、三日の内に雨が降るということでした。昔は大名に穀物を献上するので日照りで農作物に被害があっては困ります。また、自分たちも食べる物に困るので真剣にお祈りをしました。現在は寺も無住のため行いません。


天皇様の石段(立野)

 立野の天皇様は高い高いお山の頂上におまつりしてあり、そこには大昔から立派な石段が積まれております。その昔、この石段をつもうと部落民が大勢で塩瀬のごんだ淵の沢へ石を運びに行きました。立野からは山越しに塩瀬への道があり、重い石をどうにかこうにか向山のわらび野(今もわらびの沢山出来るところ)まで運んできたところ、塩瀬の人たちが「塩瀬の石を運んではならん」とおさえられてしまいました。
 それから間もなく塩瀬部落に疫病がはやり次々に亡くなる者も出るなど困った人たちが易を見てもらったら、天皇様の石をおさえて運ばせないからといわれ、塩瀬の人たちは直ちにその重い石をいつの間にか天皇様まで運んで置いたという言い伝えが今に語られています。

山の神様(立野)

 古くからの行事で無格社ですが、お宮の前に山の神様が祀ってあります。昔は旧1月17日におむすびを作り、御神酒その他果物、野菜等供え、寺の住職が御経をとなえて部落中でお祈りをします。冬は山仕事が多く農民が山仕事で怪我をしないように祈る祭りです。
 ところが旧1月17日は大雪の降る時期になるので今では新暦2月17日に行っています。昔は木材を伐採し、薪を集め、篠切り、炭焼き等で生活する家が多かったようです。


大蛇(ウワバギ)の寝所(原)

 昔々その昔、西の沢(現在いづも屋さんの西側)にそれはそれは大きな大蛇(ウワバギ)と女蛇(ササバギ)が住んでいました。女蛇の体はこの世のものとは思えぬ美しさを放ちその姿を見た者はその美しさに惑わされ我を忘れ山に迷い帰らぬ人となるといわれていました。
 ある日、東の国からその噂を聞き大そう腕のたつ狩人が女蛇を捕まえようとやって来ました。
狩人は西の沢に入り何日も女蛇を探し、やっと見つけましたが彼は女蛇の美しさを見ないように目隠しをし、音をたよりに射ちました。大きな悲鳴が沢の中をつらぬきました。そこで狩人は目隠しをとりました。
 悲しんだ大蛇は滝を登り白金山でさびしく暮らしたといいます。白金山の東の方、沢という山の中腹に岩穴があり、昔そこに大蛇が寝ていた所があるといいます。ここを大蛇の寝所といっています。その昔、山火事があり大きな大きな大蛇の骨が横たわっていたそうです。


大ぞうり橋とひなづる姫(原)

 昔、富士の西の遠くの方で大きな戦がありました。城は落とされましたが、かろうじて逃げのびた身重のひなづる姫は、姥母につれられて東へ東へとつらい旅を続けてきました。
 山国の甲斐の当地についた時はすでに姫様は疲れ果て履き物もボロボロになっていました。
塩瀬へわたる丸木橋を渡ろうとした時、川のそばに住んでいたじいさんとばあさんは姫様をふびんに思い、ばあさんは姫のため温かい食事を用意し、じいさんは赤い鼻緒のわら草履を作って差し上げました。よろこんだ姫は足も軽く無事に丸木橋を渡り秋山の方へ向かいました。
 高貴なお方がぞうりを履いて渡った橋なので誰いうとなく御々ぞうり橋→大ぞうり橋と呼ぶようになりました。一行がその際一休みした橋の手前の道に大聖師道の名称が残っています。
 それから姫は秋山への山径、坂下峠のサンキュウリで産気付秋山川のほとり無生野という所でお産をされました。今でも秋山川にはその時流した血で赤い石が多いともいわれています。しかし、秋山村の村人は旅人の姫には薄情だったのでしょう。現在その地は無生野(無情野)と呼ばれています。その時生まれた赤ちゃんもすぐに亡くなったので、綱本へ葬り五輪の塔が建てられ、昔を偲ばせています。姫は秋山から朝日小沢に向かったらしく、「ひなづる峠」の地名があります。
 大ぞうり橋より少し下った所に、大正13年大正橋がかけられ、昭和40年には車も行き来っできる塩瀬橋がかけられました。
 (注)ひなづる姫−雛鶴姫は盛永親王のお方


おんた山の雨ごい場(原)

 昔、まったく雨の降らない年がありまして作物が枯れてしまい困った村人は大変心配しました。そこで、長老が村人を集め相談の寄り合いをしました。相談の結果、雨ごいのお祭りをして天の神様にお願いすることになりました。
 さて、どこで雨ごいをしたら天の神様に聞こえるかと思案しますと、村人の一人が「おんた山の頂上がいつも一番先に雨がふってくる。あそこが一番天の神様に近いべえー」といい、一同納得して早速次の日、おんた山の頂上で火を燃し煙を出しました。三日三晩太鼓をたたいて燃し続けました。そしたら突然空は一面雲におおわれ大粒の雨がさづかりました。
それから、日照りが続くとおんた山の頂上で雨ごいをしてきましたので、今でも雨ごい場の地名が残っています。


御在所と小松神社(原)

 平重盛公の尊骨を改葬したのは、80代後鳥羽天皇の世文治2年3月15日のことでした。病気で亡くなられた重盛公をいったん大阪へ葬りましたが、間もなく平家が壇ノ浦で滅びたので大阪は源氏に占領されてしまいました。そこで平貞能が削髪し摂津より尊骨を持ち来て原部落の険しい岩山の頂上に改葬したそうです。こんな訳で村人は御在所と呼んでいます。
 御在所より現在の小松神社の地に尊骨を移したのは、人皇89代亀山天皇、文永10年12月、約700年前のことでした。小松内大臣平重盛公の抗刀一振を坂本光憲氏の祖先に平朝臣景家という人が持ち来たり、小松神社建設にあたり土地に抗刀を奉納したそうです。
 昔、村内の者がこの刀を盗み出しさやとつばは売り払いどうしたことか刀は小仏峠の茶屋に置き去りになっていました。現在刀だけはていねいにお祀りしてあります。下原の大火(100年前)で鳥居が焼けたため、明治29年に再建されましたが、神社昔のままの立派な彫り物が残されて古さを物語っています。

六地蔵様(原)

 今から274年前の宝永元年郡内が大飢饉になると、全く食べる物もなく他から買い求める金もなくそれはそれは想像もつかぬ貧しい生活でした。それでも大名にきめられた年貢を収めなければならないのです。なんとか年貢をゆるしてもらおうと郡内各地の代表6人が谷村の代官所へ申し立てに行ったところ、申し立てが聞き入られないばかりか都留市高尾公園金井河原で処刑され帰らぬ人となってしまいました。
 なげき悲しんだ梁川の村人は供養のために六体の地蔵様を作り、堂の中へお祀りしていましたがその後、堂は大火で焼け、雨ざらしになってしまいました。そのうちお地蔵様を子供たちがいたづらし近くの古井戸へ投げ込んでしまいました。奇特な上条義基氏が現在の碑を建て、4月15日お酒やお菓子を供えお祀りをしています。その横に「堂の前」という家号の家(上条武雄氏)があります。

亀伯山瑞淵寺の由来(中野)

 昔、塩瀬には無量寺(今のお宮の少し手前)という京都の南禅寺を本山とするお寺がありました。本山より何人ものお坊さんが寺の住職として廻されてきましたが、托鉢に出ては、行方不明となり帰ってきません。その昔はお坊さんに問答ということがあり、問答に負けるとその地にいられなかったのです。そこで、特別修行を積んだ和尚さん(智源禅師)が来たところが、ある晩、夢枕に白髪の老翁が立ち、「この寺はこの場所では栄えない。私が案内するからついてくるように」と言いました。和尚さんはいわれるままについていったところ、「イドイリ」という泉の淵の橋の所まで来ると、「イドイリの水を引き入れて寺を建てたなら、水が涸れるまで栄えるだろう。ここに寺を建てなさい。私はこの泉の主である」といい白い亀となって水中に消えてしまいました。
 寺は現在の所に建てられ、又その昔は同じ場所に白山妙理神社、牛頭天王、薬師堂、愛宕堂も祀られていました。神仏分離により神社はすぐ前に寺と向かい合いに建てられています。寺の名称はその名も亀伯山瑞淵寺とされ間もなく塩瀬の古い寺は山津波に押し流されたといわれています。甲斐国志にものっているように、この寺の位は高く、昔、方々の寺の住職が谷村の代官所へ集まることがあり、他の坊さんはむしろの上にふざまずいて頭を下げているにもかかわらず、開心和尚は、「ここへ床机もて!」と一人いばって腰を下ろしていたという話が残っている。
 明治35年、塩瀬の大火の際、立派な寺は焼けました。それでも御本尊だけは持ち出し、その古さをしのばせています。又、昔から梵鐘の響きは村人の心のささえと親しんでいたが、大東亜戦争で金銀銅の供出があり、おしまれながら出してしまいました。寺の裏山や森の中には無縁有縁の石碑や観音様が数多く残されています。これらをまとめて供養のため上条ハツばあさんが碑を建ておまつりしてあります。


貴船神社と耕地整理(立野)

 昔、今の田んぼはほとんど桑畑で養蚕で生計をたてていましたが、昭和7、8年の不況で生糸の値が下がり生活は苦しくなるばかり、そこで何回もの相談の結果、苦労に苦労を重ね田んぼを造りました。
 昭和8年から11年までかかり、11年に幹線水路を作り飲料用の上下水道も付設しました。それまで飲料水は現在も残っている横井戸、又は桂川までも汲みに行きました。今も水の苦労が年寄りの両肩に残っているようです。
 耕地整理のため、貴船神社は天皇様と一緒にお祀りしました。社内(現在杉本悟氏宅地)に大人5人が手をつない丸くなったくらいの大木があり、関東大震災の時には年寄り、子供はこの木の下でいく日も過ごしたそうです。
 ※貴船神社−四条院元師時頼を祀る
  鎌倉将軍頼経公勧請 天福元年

改修中でした。(平成17年末)

立野の大火(立野)

 明治24年2月18日夜半、東という家に奉公していた人が乾燥しきった藁屋根に放火してしまいました。立野部落は一面火の海になり、当時戸数23戸の内焼け残った家は、原、西、御寺、嘉右ェ門の4軒だけでした。その際、部落の古い物もほとんど焼けてしまいました。その爪痕として畠山恒雄さん宅の柿の木の片側が火で焼かれたため片側の生力のある方が焼かれた方にまくれ込まってその大火の跡を残しています。ただ畠山正雄さん宅の古文書、家系図等は大事に持ち出され、貴重な資料となっています。昔からの立派な寺が焼けなかったのはタケダキザンという和尚さんが三間梯を持ち歩いて寺を守ったということを聞いています。
注 武州多摩郡山田村広園寺末寺
茲雲山円通寺 大永7年建立 明海和尚開山現在は無住ですが昔ながらの彫り物の色彩はこの地方には類のない立派な物だそうです。

立野橋(立野)

 大野の貯水池の出来ない前の桂川はまだまだ水量も多く釜橋と矢掛に二つの橋がかかっていました。
立野と彦田で長さ8間2尺、直径1尺余りの杉の丸太を各々1本ずつ二本を渡し、簀の子を編み、その上に笹で網代を組んで渡っていたそうです。そえれも年2、3回は大水のために流され、そのたびごとに部落全員の人が杉丸太を山から切り出す作業をしなければなりませんでした。その時唄った「木やり唄」("ア−ヨイソラ"と音頭をとれば、一般が"ア−ヨイソラ"、"ア−ヨイソラ"と音頭をとれば、一般が"ア−ヨイソラ"、三回目、"エー皆さん!アーヨイソラ、精力でアーヨイソラ"、一般"アーヨイソラ")このような唄を繰り返しうたいながら丸太を引き出したものでした。
 橋が流されると子供は学校へも行かれなくなるので、綱の上の方の親戚に泊まり込んで学校へ通いました。又、橋まで降りるのも30段位の石段があり、冬になると石段に氷が張り、上り下りに大変危険でしたが、崖石の上に水天宮がお祀りしてありましたお陰で、誰一人怪我をする人もなかったということです。今も水天宮様がひっそりと岩の上に忘れられたように残っております。
 それから、大正10年10月釜橋という吊り橋がかかり、その日初めて梁川小学校で運動会が行われ、帰りに新しい吊り橋を渡ったことは今でも忘れることが出来ません。その後、現在の立野橋が昭和40年に開通し、車で通行できるようになったのも、熱海の故畠山鶴吉さんの甚大なる援助のあったことに感謝し、後世に伝えたいと思います。
このあたりに「釜橋」がありました。

朝鮮人騒動(彦田)

 この村には後にも先にもこれ程大きな事件はありませんでした。明治の終わり頃大野貯水池への水路を作る工事がありました。梁川付近はほとんど山ばかりなので水路もトンネルにしなければなりませんでした。そのトンネルを掘る作業に大勢の日本人や朝鮮人がよそから来て飯場に住み込んでいました。聞いた話によりますと、今も変わらぬ恋の道、一人の美人のおばさんに恋を寄せ合ったことがもととかで、ある日酒に酔った朝鮮人が一緒の店にいた日本人を沢に突き落として死亡させたことから日本人と朝鮮人との大喧嘩になりました。
 何も知らないでトンネルから出てきた朝鮮人を斬り殺したり、夜になるとダイナマイトを投げ合ったりして死傷者も6,7人いたとか、なにしろ戦争のような騒ぎでした。5,6日間続いたこの事件も甲府49連隊により憲兵3人が来てようやくおさまりました。


ごんだ渕の石山(塩瀬)

 山の奥より清水が流れ涸れることなく、奧に入ると神秘的な感じさえするところがあります。そこには大きな質の良い石が豊富にあって、立野の天皇様、彦田の天皇様の石段などみんなこの場所から出たものだと言われています。戦時中は陸軍の砲台を作った石が沢山出たので、石を切り出したり、のみで形を作ったりすることが村人の仕事だったようです。中野部落に今も残る万霊塔は上下共に600貫という石、数少ない村人がどうやって建てたのでありましょうか?私たちの先祖の血が流れているようです。風化した石の文字も定かではないが「黙巖代」とあり、石と木々に囲まれた部落は信仰厚い平和な里のぬくもりを今も感じさせています。


新倉橋(新倉)

 その昔は新倉と金畑で過ぎ丸太1本ずつを出して橋をかけて渡っていました。大水が出ると二本の丸太を新倉側で引き上げておくと、金畑で酒一升を買うという具合になっていました。それは新倉側にちょっとした広場があったからです。しかし、やはり年2回位は橋を流されました。
 昭和3年に吊り橋がかかりました。その際、金畑の方から橋の名称に金畑の「金」の字を一字入れて欲しいと申し出がありましたが、昔からの新倉橋の名を変えるわけにはいけないと取り上げられなかったといいます。現在の橋は昭和40年にかけられました。


有倉神社の思い出(新倉)

 11月下旬、部落中の麦蒔きが終わると神社の境内に小屋を建てます。各戸より米なら5合、粟一升を持ち寄り、その年御祝儀のあった家からいろいろな物が上げられ、大鍋で煮炊きし、子どもから年寄又親戚の者まで呼んで一晩中唄ったり踊ったりの大さわぎのお祭りをします。その時のおにぎりのうまかったこと、今でも忘れられません。
 新倉地区は日当たりは良いが、雨が降らないと作物はほとんど出来ないのでことさら食料に苦労しました。さつまいもでもオイランという質は悪いが大きくなる種類を作り、それを乾燥させ粉にし、だんごにして食べました。
現在、米が余り減反減反の世の中、欲しい者は何でも手に入るこの頃の子どもたちにはどう説明してもわかってもらえないことかもしれません。この楽しみも、昭和12年で終わりました。有倉神社の主が白馬なので、今でも新倉では白壁は塗らない風習が残っています。
有倉神社です。 有名な相対道祖神

水車小屋(新倉)

 水車小屋は梁川の村中どこの沢にもあって各戸まわり番で穀物をついていました。新倉も大呼戸・小呼戸に水車がありましたが、それも日照りが続くと水が無くなり動かなくなるので石臼でつきました。あら麦三升を入れ、朝8時〜11時頃までにつき、それを昼食にし、残りを夕飯にしました。現在80才の年寄りがこれをやってきたのでそれ程古い話ではありません。
 その頃は麦粟が主食だったようです。水車の回る音、どこかのんびりと隣り近所が助け合って生きていたであろう。昔のくらしがしのばれます。その後しばらく電気車に変わり、現在は麦粟を作る人も見当たらなくなってしまいました。各戸ごとに自動車を持ち、サラリーマンの家がほとんどの現在、水車も姿を消し石臼は骨董品となり忘れられつつあります。


甲州街道と江戸道

 昔、大名が甲州街道を通る際には、梁川村からもあらかじめ何人という人足を言い渡され、荷物を宿場から宿場まで運ぶ手伝いをする「お伝馬」ということがありました。
 今も残る「お伝馬帳」に、出た人の名前がしるされ、日当として税金から差し引いたのだといわれています。一方、梁川側の裏道(江戸道)は犬目に関所があったので、身分を隠す者、通行手形を持たない者などがわらじを履いて細い山道を登ったり下ったり、てくてく歩いたそうです。この江戸道の途中、畑の中の四ツ辻(小学校南側)には伝説も分からぬ「おかね様」の石像、江戸道をしるされた石等がが建っていますが、今は山へ入る人も少なくなり、その道さえ藪になっています。

全昌寺の変遷

一 名称

 棟札に記されている通り最初は全松寺、次には善松寺と記され、次には小松山全昌寺、次に現在の龍滝山全昌寺となる。
 全松寺、善松寺は小松大明神を合祀してある寺であるので松の字を入れた寺号にし、善松は音に意味があり、字そのものには執らわれなかったのではないだろうか。
小松山と山号を付したのは、宮と寺が分離して建造され、寺院には山号、寺号をもつべきところから山号を小松大明神に因んで小松山とし寺号を全昌寺と改めたのでなかろうか。小松山全昌寺としたのは松の字が重複するからであろう。
 その年代は不明なるも龍滝山と山号が改まったのは西村滝下にあった十王堂や一応寺としての機能を持った建物があり、これを合併して前の全昌寺後へ寺を建てた時、寺の15代中興哲舟和尚の時代だと考えられる。
西村三戸、綱本四戸、原十戸、彦田四戸、斧窪六戸時代の地図には龍滝山全昌寺として寺の堂宇が描かれている。ちなみに、哲舟和尚は安永2年(1773)7月8日示寂とあるから200年ほど前である。

二 建物

 最初は小松宮と合祀されていたのは確実と思われるが、その後甲斐国志に掲載されている小松山全昌寺は慶応4年8月現在では本堂7間×6間、庫裡7間×5間、門、消失 物置2間×9尺、便所9×8尺、堂5間×3間、本尊馬頭観世音、年貢地4反2畝15歩とある。二度の火災にあったことはわかっているがこの堂宇が最初焼失したのかそれ以前にあった堂宇が初に焼失したのかわからぬが、年代から考えて後の堂宇ではないかと考えられる。
 いずれにしても二度目の火災は昭和18年3月18日隣接していた役所の火災により類焼したのだが、当時の寺総代世話人相徒が戦時中資材制約の折柄甲東村より古材を貰い受け仮に本堂兼庫裡を建てたのが現在の建物である。

あとがき

 この度「梁川のむかし」発刊に当たり、編集のお手伝いをさせていたゞき、先ず私自身本当に勉強になりました。
 各地区ごと山崎先生、公民館長さんと共にお訪ねして、高齢者の皆さんの熱心な話し合い、暖かい人情、明るい笑顔に接した時、「梁川のお年寄りは仕合わせだなー」と心より嬉しく感じました。
 ご協力ありがとうございました。まだまだあの地区、この径に秘められた伝説や生活体験を第二集、第三集に期待して居ります。
 昔も今も変わらぬものは、この地の暖かい一人の心だけではないでしょうか。人と人との触れ合いを大切に毎日を楽しく過ごしましょう。

編集世話人(運営審議委員)
佐々木 操


参考資料

甲斐国志 

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