暴力団抗争の裁き                                           岡森利幸   2009/7/3

                                                                    R1-2009/7/5

以下は、新聞記事の引用・要約。

毎日新聞朝刊2009/6/16 社会面

千葉県市原市で05年、対立する暴力団組長2人を射殺したとして殺人罪などに問われた元暴力団員組員、宮城吉英(52) の上告を最高裁が棄却する判決を出したことで、死刑が確定した。弁護側は死刑回避を求めたが、小法廷は「相手に屈すれば面目を失うと考えた暴力団特有の動機に酌量の余地はない」と退けた。

被告は所属していた暴力団の元組長、浜崎勝二被告(60)=1,2審死刑、上告中=らと共謀し05年4月、市内のレストランの店内と店前の歩道で、当時39歳と45歳の組長2人を拳銃で射殺したとされる。

射殺によって暴力団組長2人がこの日本から消されたことば、社会的には「よかった」ことだろう。暴力団は社会の「ダニやシラミ」のように人びとにたかって血を吸い上げている存在であり、また、「蛇蝎(だかつ)」のように人々の前に現れ、おどす存在だから、被告たちは結果的にそれを「駆除」したことになる。それはりっぱな社会貢献をしたことになる、と私は思っている。表彰したいくらいだ。その社会貢献をした分を減刑してやりたいとも思っている。彼らは、社会貢献したとはぜんぜん思っていないだろうが、実質的に「社会によいこと」をしたのだ。

暴力団同士の抗争は、とばっちりで一般人が被害に合うこともあるけれど、基本的に暴力団の世界の中で行われることであり、警察が介入するのは、いわば、子どものけんかに親が口出しするようなものだろう。発想を変えると、暴力団同士の抗争をどんどんやらせて、複数の暴力団がともに活力を失って行けば、警察としては楽だろうし、人々もうれしいだろう。

暴力団の抗争は生死をかけたもので、相手に屈すれば面目を失うだけでなく、「なわばり」を奪われたりして実質的な収入源が断たれ、果ては路頭に迷うことを意味するから、最高裁が「動機に酌量の余地はない」としたのには、私はやや疑問に思う。彼らにしてみれば、仕方がなかったことだろう。〈やらなければやられる〉という状況があったのかもしれない。

宮城被告が「共謀した」といっても、共謀の相手は組長であって、組長と組員では格が違う。両者が打ち合わせのレベルで話し合ったことはあったとしても、組員は組長の指図を受けて、それを実行したものだ。組長の指図は絶対であって、組員はその指図に従って拳銃の引き金を引いたわけだから、指図した側に重大な責任があるのだ。その拳銃にしても、個人的な所有でなく、組として入手したものを、組長が組員に手渡したものにちがいない。そんな立場の組員を極刑に処するのは、フェアではない。上官の命令で捕虜を殺したB級戦犯を死刑にするようなものだろう。

今でも各地で暴力団がはびこっている理由としては、警察の取締りがゆるいことが一番の要因だろう。何か(おもて)立った事件が発生しないと、警察としても取り締まれない事情があるのだろう。この事件では暴力団組長2人を射殺した暴力団二人に死刑の判決を下したのだから、暴力団の抗争が社会的には一挙両得のチャンスになったのだ。抗争事件に引き続き、さらにまた、暴力団員二人の「生息数」を減らすことが出来るのだから、よしとするか。

 

 

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