玉川秋雄の記憶


覚えていることを忘れないうちに書いておくページ。

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 since 2006. 12. 13

2007.01.13 丸光の屋上の記憶を追加
2008.02.20 ギャングの思い出を追加
2008.09.09 右まぶたの傷を追加

【保育園以前】 1960年10月21日〜
・母親が夕食の支度をしている。母親と父親の名前を覚えたことを伝えたのだけど、
 あれは何歳の時だったのだろうか?
・布団に潜り込み、布団の中を洞窟に見立てて、洞窟の中を探検して遊ぶのが楽し
 かった。
・川田の母親の実家に行くときに、康孝おじちゃんの自転車の荷台のところに乗せて
 もらったのだけど、右足が後輪と荷台の間に挟まってしまい、くるぶしに擦り傷が
 できた。
・線路の脇に流れている小川にドジョウが泳いでいた。
・母方のお婆さんが亡くなり、川田で葬式が行われた。
 お墓に向かう途中でウンコをしたくなり、もらしてしまった。
 お墓から戻ってから、康孝おじちゃんに井戸水で洗ってもらった。

・長野のデパート「丸光」の屋上に子供の遊び場があり、自動車に乗って遊んで
 いた際に、両親からクラクションを鳴らすように言われたのだけど、どこにそれ
 があるのか分からずに、結局、クラクションを鳴らすことができなかった、とい
 う記憶を思い出した。【2007.01.13追加】

【須坂東保育園時代】 1966年〜

・空気で膨らますタイプのプールでパンツ一丁で皆が水浴びしていたところ、
 バーンという大きな音がした。
 近くの花火工場で爆発があったようだ。
・火災訓練か地震の避難訓練が行われて、記者の人がマグネシウムのフラッシュ
 を焚いて、写真撮影を行っていた。
 後日、信越放送でその模様が放送されたようなのだけど、残念ながら見る機会は
 無かった。
・お昼寝の時間になると、スポンジ入りの敷布団を敷いてお昼寝をした。
・3時のおやつには、丸いドーナツなどが出た。
・お皿に盛られたおやつもあり、お皿をペロペロと舐めるのだと母親に話した
 ところ、行儀が悪いから止めなさいと叱られた。
・昼食は姉のお下がりの弁当箱のお弁当。
 薔薇の絵が描かれていた弁当箱と、バッターが描かれた弁当箱があった。
・小平さんの駄菓子屋で、銀紙に包まれたチョコレートパンを買って昼食にした
 こともあり、お気に入りのパンだった。ホワイトクリームが挟んであり、赤い
 チェリーのようなゼリーが真ん中に乗っていた。
・トイレの洗面所には洗面器にクレゾール石鹸を溶かした水が置いてあり、それ
 に手を浸して消毒していた。
・折り紙でアジサイとカタツムリを折った。
・帰宅するときに雨が降っていた。姉が傘を持って迎えに来てくれた。
・積み木で遊んでいると、「それは俺達が積んだものだ」と文句を言われたので、
 何で皆が遊ぶための積み木で遊んでいたのに、文句を言われなければならない
 のかと思い、ちょっと悲しかった。→保育園を中退するきっかけ
・保育園を退園する時に、母親に連れられて保育園に向かったのだけど、その時の
 私の頭の中は「ブリキの玩具のロボットが欲しい」という思いで一杯だった。
・

【森上小学校時代】 1967年〜

・入学する前に母親に連れられて森上小学校に行き、「お馬の親子」を踊った。
・私の前の女の子は背の高い滝沢さんだった。
・担任の黒岩博視先生は、腰に手拭いをぶら下げていた。
・黒岩先生のクシャミは非常に大きな音で心臓が止まりそうだった。
・黒岩先生は、マイカーを購入して、保科温泉へサワガニを捕りに
 連れて行ってくれた。

【相森中学校時代】 1973年〜

・担任は小山省三先生。

・栗金(栗原金三先生) 金蔵だったか、金造だったか、忘れた。
 非常に恐い先生だった。


【須坂高校時代】 1976年〜

・担任は野中先生。あだ名はキューピーちゃん。
・物理の高木先生。あだ名はギャング。
・竜胆祭で龍のハリボテを作った。

【信州大学(工学部電子工学科)時代】 1979年〜
・新歓のコンパで飲まされて、布団の上にゲロを吐き、翌日、流しで布団を
 洗うという、悲惨な寮生活の始まりだった。
・高木先生が亡くなったという知らせを聞いて悲しかった。

【補足】 ギャングの思い出を追加 【2008.02.20追加】

姉から何かの用事で電話があり、その際に高木先生が蜘蛛膜下出血で亡くなった
ということを知らされた。

高木正弘先生はギャングというあだ名で呼ばれており、須坂高校の名物先生のうち
の一人だった。

私は非常に悲しくて、駒草寮のB棟155号室の2段ベッドの上にある押入れの
中に入って涙を流していたのだけど、同室の加藤健三君が暫くしてから部屋に戻っ
てきて、「玉川のサンダルは部屋にあるのだけど、姿を見かけないので心配だ」と
いうようなことを友人に話しているのを押入れの中で聴いていた。

このまま押入れの中にこもっているのも何なので、私はここにいるよと、押入れ
の扉を開けたのだった。

【参考リンク】 高木正弘先生通称ギャングの話
        ■「ギャング」こと故高木正弘先生と龍■


【信州大学(大学院工学研究科電子工学専攻)時代】 1983年〜
・ひたすら実験を行う。

【入社(NEC)時代】 1985年〜


【NECエレクトロニクス時代】 2002年〜

・2008年9月9日 左まぶたの腫れ物をつぶし損ねて、まぶたが腫れてしまった。

鏡で腫れた左まぶたを眺めていたら、右まぶたに古い傷跡があることを思い出した。

小学校の頃だったか、中学校の頃だったか忘れてしまったのだけど、この傷について
母親が話してくれたことを思い出した。

私が「ご本読んで〜」と母親にねだったところ、「うるさいっ!」と言って私を
押したところ、私が転んでしまい、炬燵の角に右のまぶたを打ち付けた時にできた
傷であるとのことだった。

私はそんなことは全く覚えていなかったのだけど、母親は非常に申し訳無さそうに
その話を私に聞かせてくれたのだった。


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★覚えている記憶を遡って、一番古い記憶を思い出すことが、このページを
 作成した理由。