西ネパール ドルポへの旅
2015.4.7〜5.22 ドルポトレール 踏査報告書 | ||
下記の行程でドルポに行って来ました。身体の動けるうちにが動機です。4月25日巨大地震あり、心配、御迷惑をお掛けしました。相方は影山さん長年公務員、退職の記念山行でしょうか 一緒に楽しんで来ました事。Facebookで発信しておりましたが電波不如意。ーーーーままならずーーー まずは帰国の挨拶といたします。2015.5.23 |
実際の行動 下記地図のポイント泊地で 徒歩旅行 地震後テント泊多くなる。
行動表 | |||
4月7日 | 郡山〜羽田 ---上海 ---昆明 | ||
1 | 4月8日 | 昆明 Kunming ---KTM | |
2 | 4月9日 | KTM stay | |
3 | 4月10日 | KTM stay | |
4 | 1 | 4月11日 | KTM〜飛行機移動 Nepalganj |
5 | 2 | 4月12日 | ネパールガンジ〜州都 ジュムラ |
6 | 3 | 4月13日 | JUMLA STAY 雨 |
7 | 4 | 4月14日 | 裏山へ research バンダあり |
8 | 5 | 4月15日 | JUMLA 〜 ゴテチャール |
9 | 6 | 4月16日 | ゴテチャール -- チョータラガオン |
10 | 7 | 4月17日 | チョータラ -- チョーリコット |
11 | 8 | 4月18日 | チョーリコット‐‐‐Kaigaon |
12 | 9 | 4月19日 | カイガオン --- ゴダコーラ (ゴラと発音していた) |
13 | 10 | 4月20日 | ゴダコーラ --- トリプリコット |
14 | 11 | 4月21日 | トリプリコット ---デュファール経由 スリガット |
15 | 12 | 4月22日 | スリガット----チェップカ |
16 | 13 | 4月23日 | チェップカ‐‐‐ チャンドワール (学校や寄宿舎のある) |
17 | 14 | 4月24日 | チャンドワール --- リンモ ポクスンド湖 |
18 | 15 | 4月25日 | ポクスンド ---- チャンドワール |
19 | 16 | 4月26日 | チャンドワール-- チャップカ 地震でテント泊 |
20 | 17 | 4月27日 | チェプカ‐‐‐‐デュナイ |
21 | 18 | 4月28日 | 県都デュナイ----ドルポ エアポート テント泊 |
22 | 19 | 4月29日 | ジュファール滞在 飛行機待ち テント泊 |
23 | 20 | 4月30日 | ジュファール滞在 飛行機待ち テント泊 |
24 | 21 | 5月1日 | Juphal‐‐‐マシナトールパハール飛行場 移動 |
25 | 22 | 5月2日 | マシナトール---by air 8人乗り Nepalganj |
26 | 23 | 5月3日 | ネパールガンジ 〜by bus ルンビニ |
27 | 24 | 5月4日 | ブッタ誕生日 ルンビニ ネパール暦で |
28 | 5月5日 | ルンビニーーー ポカラ バス移動 |
|
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ネパールエージェント 住所:Seagull Travels & Tours (P) Ltd.Rolwaling Trek & Expedition (P) Ltd .Naxal, Bhagwati Bahal, Dugad MargKathmandu, Post Box No.3870, Nepal Phone:977-1-4442019/4442629/4442641Fax:977-1-4435545 Email:seagull@mos.com.npwww.rolwalingtrek.com |
2015年4月7日〜5月22日
西ネパール ドルポの旅
2015・4/7
朝8:19の電車にて上京、郡山駅で出勤途中の庄衛氏に見送られて出発。浜松町でモノレール490*3=1470円 チケット新幹線8200を購入。
カトマンズへの土産のお茶3000購入 スパゲティとビール3250円 で日本を後にする。中国東方航空にて13:50離陸する。上海航空の飛行機で運用しているようだ。上海虹橋空港へ 国内線移動バス30元
上海浦東國際空港は高速バス1時間の場所であり、初めての人は戸惑う 21:10出発が23:00となる機内にて軽食が出る。乗り換えが夜中ともなれば難しい。空港レストランで
両替せずドルで12$=コーラ3本、
雨のため14度でかなり寒い。
4/8
時差1時間で実際は24時のMU便であった、疲れるはずだ。昆明2:00到着150元でホテル有り、空港ビバークとする6:00起きるビール2本と3茶で1200円17元オツリ
50$交換、両換を兌換というこの国では。定食48+48+ウドン38そしてコーヒー134、2時間遅れてのKTMゆき、昆明は大きな空港だった。空港でチェックインし荷を預けた後、表に出る。緑地帯の植物を見て回る、クワズイモ、擬宝珠、ブーゲンビリア、バラあり、兵士より停められ先に進めず、e-チケットを搭乗検査場に忘れるハプニングあり冷汗をカキカキ戻りもどる。机上後の昼食はライスキノコのニンジンいため、茹でピーナツ、ミニトマト、スモークチキン、ザーサイ等全部いい味、
KTMではまず両替10000=8000Rs
KTMではラムさんへ電話充電後、明日朝打合せ約束。
8:30パスポートと写真、空港入国手続き、Visa100$で 90日間のビザを取得。ーータクシー700RsーーードルフィンGHへ直行、
1食目はミルクティ45 タンドリーチキン、モモ(餃子)ビール2本=1340Rs
ダワの店にてロキシー2.&五目ウドンで400Rs で グーナイ
4/9晴れ
シーガルトラベルでラム社長、息子ウダヤ氏 | ネパールガンジのスネハホテルにて |
朝、エージェントのラム氏、ウダヤ氏挨拶4000$払い写真パスポート渡す、アンダワシェルパ45歳を紹介されてガイド経歴15年でドルカの出身。
計画説明会、食料計画、スーパーへ買い物。山越え考え主食購入した、ホテルで持参食料の確認を行い、一緒に食事、カリーライス、
午後フリー スワヤンブナート900入山料600ークマリハウス、ハヌマンドガ
ダルバール広場のアメリカ風コーヒー店 コーヒー美味しい
タメール帰宅途中、スーパーで3350Rsトレッキングレーション追加分を購入する
夕食は、小春にてかき揚げうどん、ぎょうざ、日本ビール、ワイン、2500 81年サーダーのペンバノルブ氏に会う、ここの従業員であった。元気そう
ダワの店でロキシーで、鳥ツマミで影山氏と飲む400Rs
4/10 晴れ
8:00ウダヤ氏と逢いアドバンス639$バックしてもらう。後日アンダワへトレッキング前渡し金とする。
入域許可証、入手、エージェントとの契約保証書確認しサイン。
パスポート頂き、旅行センターへ、徒歩にて移動100$換金=9800
後半アンナのトレッキング許可証ゲットTEMSである。6000Rsで
帰路砂糖、チョコドライフルーツ購入2330Rs
ホテルサンサラで外コーヒーを楽しむ、夕食はトンバ体験、ツマミは鳥バファロー揚げ、チャパティ,とチキンカレーで
4/11 晴れ
朝より用意し、シェルパを待つも来ず、昼食に入る、ダルバート&チキン、マチャ、マトン
シェルパ途中より参加1000Rs 4名たらふく。 ドルフィン前の肉屋の食堂。
空港2時間前到着、国内線フライト中なにもみえず?残念
ネパールガンジ空港で近くのホテルの客引に会う。シェルパはスネハホテルを聞いていないらしい。
客引きの車へ。最初のトラブルである。 夕刻スネハへ移動。
高級ダルバートを食う。翌日はゆっくり出発出来るので 高級ホテルを堪応もーーーお湯は出ずがっかり。
世話にならすに旅が出来たのは幸いだった |
|
スネハの高級ダルバート | 腰痛コルセット購入何処の世界でもあるらしい |
4/12 晴れ
ネパールガンジで移動、持病の腰痛悩まれ始める、途中で大病院前の薬局で腰痛ギブス世界標準を購入。
空港ではエクセスチャージ2000Rsとられる。ジュムラ行きは先頭に陣取りカンジロバ山を垣間見た。憧れの彼の地は曇りで空港事務所のない入り口でチェックをうける。スノーランドホテルの親父が迎えに来ていたがタクシー代800Rs要求される、このホテルは親父のロリダンク マハール41歳、妻パルバテイ マハール37歳、娘ゾルナ
マハール18歳
スバーマハール15歳、スベッツ マハール12歳が一家、ランクルあり、ホテル拡張中だった。ジュムラはヒンドーの世界だった。WIFI領域で交信、何度も途中より切れ、停電と弱電で安定せず。
4/13 雨
ジュムラの地図を求めて街を探す、ノクサ=地図で見つからず、EPIガスコンロ コッヘルこみで3150Rsで購入に後一個はガイドが1300Rsで買って来た。終日雨、街で昼食にモモを食って来る。銀行でドルチェンジ、1000$、換金レート99と上がっていた。
ジュムラの街角野菜も豊富だが一歩踏み出すとそこにはなんにもない世界 |
|
州都ジュムラ 裏山に登り町を俯瞰する。飛行場は北に位置しカルナリ川の合流点で盆地 |
4/14 晴れ バンダ
ジュムラでの買い出し来てみりゃ、バンダで街はシャッター通り、民主化要求?、無産階級のゼネストが地方都市でも展開されている。
南のジャーシ山に順化とリサーチということで登る、パトラシヒマールは山頂を閉ざしていたが高さが垣間見えた。
景観良好、満足し、帰途にー食堂見つからず、宿スノーランドで肉入りうどんで昼食とする。
ポーター雇用2名雇用するが1名は来ず、か弱そうな男がやって来た、3度カグマラを越えたと言う事で雇用、22歳をテルタール、36歳子持ちはラルバードルという。
この日はネパールの正月でホテルでは家族でデナーを共にしていた。シェルパ、チベットのローサル(正月)とは異なるからややこしい。
ポーターのテルトール22歳 ラルバードル36歳 | ガイドのアンダワシェルパとジュムラの宿のパルバッティー |
ドルポへ向けてスタート
4/15 曇り時々雨 ゴテチャール泊
いよいよ出発、8:30が1時間遅れての出発となった,、空港過ぎると直ぐ田舎風景、麦が実っていた。沢沿いに進み、チョータビシコーラ方面の水量と同じくらいの橋を渡って、左岸を行く
ポーターが1時間でカナを要求。
雨となり11:30学校前のバッテイで食事1時間ーー13:00頃出発
雨のトレック途中村人に声を掛けながら、谷を離れて山沿いに進みーーー峠に出る、この峠ゴテチャールと呼び、超えた散居村も、同様に呼ばれている。夜の明かりが24灯っていたが聞くと50軒とのこと
春早い豊かな所に見える。2820m 牧草地が広がっていた。
下り一方で17:45ーーロッジで泊まる事に、女主人コスクマリーが一人切りもりしている。
飲み屋的に男達がたむろして飲んでいた。翌朝この者達は居なかった。
イエットクマリーという娘と息子ナデイーが同居。娘の夫はアサルパシンと名乗っていた。不思議にも立派なホテルに男がいない
出稼ぎか、死んだのか聞けなかった。3ベットのドミトリーで19::00ダルバートを食す、固い肉皿を注文し一杯飲む。
ゴテチャールのロッジで記念写真 クマリー家 | 村外れのロッジより春間もない村が俯瞰できる |
ポーターは、洗面器一杯食すはダルバート、3食のこれでラムロツア
ドルポの旅は,朝昼晩とアルータルカリ、これでもヤッパリ、ミートツア?
川の上は緑の牧地が広がり、上にガオンがあった。
4/16 晴れ後雨 チョータラ ガオン泊
フリガオン8:20通過、旅の途中川の合流点のマニガオンでナンとお茶、ボガバテイーとナデー赤ちゃんが揺り籠で寝ていたそばで頂いた。ゆっくり時間が過ぎーーーーフリガオン、マニガオンは仏教徒の村で、チョータラも同じだった12時30分
チョータラであと5時間が次の泊まり場との事。早いが宿泊決める。
クムコマリー62歳と娘のオンビーチャーは妊婦で、このロッジを切り盛りしている。3歳のオンミーチと言う息子がまとわりついていた。
聞くと4人の息子と3人娘を育てたという、この結晶がこのロッジ?
昼食時忙しく近所のアマ達で賑わっていた。男気がいないのが気になった。もっと綺麗にするといいホテルになる。物憂げな妊婦が気になった旅の者には幸福を祈るしかない。
干しキノコ、アミガサ茸が有った。興味を示すと高いと。ジュネーブの空港でも売っていたのでポピラーなキノコらしい
チョウタラガオンのロッジ 前の小屋が台所、食堂 | 干しアミガサ茸 |
食堂内部 あまり笑わない妊婦さんが気になった! 会計時計算機で叩きだした4000Rs |
4/17 晴れ後雨 チョーリコット泊
チョウタラガオンでロテーを頂き、宿代2000Rsと昼夜朝の3食6名で2000Rsだった。朝カナ7:20出発、民家のない道を進むとプリムラが咲いている、雪が出てきた頃、4時間でナウリラ到着。靴(ジュータ)が滑る遅れたラルバードルを迎えにテルタールが降りて行った。この峠は風か強く、寒い登ってくる彼を確認して下山に入った、下山路は東斜面で快適となった途中ナウリゴットカルカで昼食、キルダーシンのバッテイで食事=1500Rsダルバート6人で。チョーリコット手前で雷鳴と霰、雨となった、大きなガル(家)に飛び込みベット1で後は床に寝る。ここはカルナビルの家である。街道は何処でも宿泊はOKである。ロキシー冬虫夏草入りの、2杯、マトンミートカリーと茹でジャガイモを食う。20:00部屋に帰って寝る パルスオキシメーター値88ー66だった。宿泊費は4000Rsという、夜中トイレへの道が悪く足を落として洗って部屋に戻った。牛馬屋で糞尿に足を落としたのはわたしだけではなかった。丸太くり抜き梯子での登り降りである。朝はロテーとチャとタルカリーで家族との記念写真で出発、
ナウリラで雪となった ここも街道 | 峠を降りた所がナウリゴットカルカでキルダーシンが営むバッティでお茶と食事をして出発 |
チョーリコットではカルナビルの家に世話になる | 冬虫夏草入りロキシー |
カンジ゙ロバ山群の1部をカンジラロワと地元民は呼ぶがフリュウデットピークだろう
カグマラ峠への道を諦める
4/18 晴れ カイガオン泊
4時間行程で最高の天候に恵まれた、岬を回り込むと眼前にカンジラルワらしき峰が聳えていた。老婆?に聞くと手前がジャグドウラ
レクとの事でそしてその先にドットクンダリーだそうな、
向かえのコルがバラングラ3870との事で森林と雪のラインが見えた。
サーダー遅れて不調らしい。テルモスの水が飲めず11:30 ジャコットのロッジでは若いコンモン ルカイが1人で営んでいた。衛星テレビでプロレスを見ていた。2時間の昼食、1500Rsダルバートとチャ、向かいの学校にソーラーパネルが上がっており200Rsチャージ代というカメラを充電してもらう、数学の先生がチェスゲームをしていた。
妻は子らに折り紙を折ってあげた。夕刻の3:00過ぎにカイガオン到着、ポリスチェックを受ける、先行のポーターに導かれながら、シェポクスンドホテルにはいるダラーが主人で、弟夫婦と4人で営むロッチ&レストラン、ここでカグマラへの道を諦めてジェファールへ方向を変換する。深雪と、まだルートが開かれて居ない事が判明、多数異口同音でそれを覆すことは得策でないーーーーチャン2本とロキシー1本、皆で頂いた。マトンカリーで食事、星満天で空間見つからず。こんな星は始めて
53軒のカイガオンの夜、キャノン充電、ロキシーを蒸留見学、そして頂いた。
下の弟も同居らしい。バッチヤー(子供)が遊んでいた 明日から減量山行である。峠越え用のラーメンを食う。
チューレンヒマール プタヒウンチュリー方面背面にダウラの頭が出ていた。
カイガオンの村全景 | |
橋のそばのロッジ シェ ポクスンドでダラー家の人々と一緒に |
4/19 晴れ ゴラコーラ泊
朝は初ラーメンは6個圧力鍋入れ3分加圧、食べ頃だった。芋のタルカリーと食す。ポーターにはすくないようだ。
宿の看板の新調旗と記念写真を撮り、7:20出発。
昨夜の支払いは4000Rsと肉を食ったのに安価だった
khome lagna 3320mを10:00に超える
バランラ峠3870mを14:50にタッチ、前方にチューレンヒマール
プタ匕ウンチュリーとダウラギリらしき頂が見えた。コルを降りるとすぐ猿オガセの林となった。重力に任せて降りてカルカでテントのバッテイでコーヒーを頂く、女学生らしい2人旅の娘が高山病で寝ていた。クスリをあげる。峠越えは明日にしようとーーーー懸命な選択
ラルバードルが遅れて、ーーー5:00ゴラコーラ(地図にはゴダコーラとなっていた)の宿に到着。10時間のハードな行動だった。ここではシニータというデデーと娘カルマがクッキングをし、コリナ4歳のチョリが居た。親父は婿らしく静かだったダンバードル
カイと名乗った。近所のデデーが集まって賑やかな宴となった。9:00過ぎに2ベットで3人寝た。客用部屋がない。
鶏1羽 400Rsというので購入し頂いた。半分は揚げ、半分はカレー煮とし、ダルバートと頂いた。ロキシーを3リットルみんなで飲んだ。ここの村ではトイレのないドルポの世界となった。支払い時4000Rsという鶏半身食べ、あとの半身はテークアウトにしてもらう、誤解にて9000Rsの支払いにびっくり、フォーティハンドレットの聞き違いか?フォーハンドレット?お互い外国語だが、
夜食後の明朝食うと渡したバター、紛失。サーダー朝なりゃサッパイターツイナ
宿にて紛失、寝た後、喰ったか?
正直に言えばいいのにーーーーー「夜みんなで喰ったと」
朝食にロテーを頼み、ついでにランチも頼んだはずが、出発時 ツアイナこれも意思疎通。 こうゆう事だった?
バランラ峠の祈祷旗
峠を下るとサルオガセの森となった | カルカで昼食ジェットボイルでミルクティ |
4000Rsのでっかいおんどりとポーター |
ゴダコーラの一夜の宿(バッティ) 一家と記念写真 |
4/20 晴れ トリプリコット泊
ゴダコーラ〜トリプリコットまで4時間行程でだが、途中学校前の水場で野立てお茶とラーメンで昼食とする。
マシナトール空港は山上の空港で旗があった、3本の檜大木が目印
右岸を進むと川が4つの合流箇所が今日の泊り場、2:30到着後洗濯、身体洗い、で費やし
山上に寺院(マナストリー)がありここはヒンデーの領域?やはり半半らしい
、サモサ5個100Rs、コーラ110Rs
宿はソーラーの電気使い果しロウソク生活、アイパッドはチャージ成功100% 主人はプシパ ラジ マハトで妻はマンクマリ マハト。アルニマホテル&ロッヅが名前である
ここの食事はレストランでローソクをともしてのコロンビア人と一緒だった。昨日採取のワラビを灰汁で処理して翌日の朝、味噌を付けて食う、美味なり。アク抜き方法は普及しておらず日本の食文化であるを実感。ここのホテルは都会で接客法を学んできた、マスターの下、気持ちよく泊まれた。
トリプルコットが見えて来た | 川の合流点が |
アルニマホテル マハト一家と共に | ドルポ飛行場のマウント プタホテル |
4/21 晴れ スリガット泊
トリプルコットからジェファールへ、ポーター一人ここで解雇し、3000Rsとボーナス1000Rs 昼食、昨年世話になったマウントプタホテルのコックのツールバードルにデポ装備を預け、下山は村回遊コース50分でチェックポストに到着ーーー暑い中、熱射病となる。
ドルポサーキッドへスリガットのリバーサイドホテルに泊まる。ツアイ一家だった。
体調不良になる。すぐ床につき朝まで眠るー。チャ1杯がやっと飲める程度に衰弱ーーー宿代4900Rs
冬虫夏草の看板 採るなの看板? | 父デパール ツアイ、母シバクマリ、兄イケバードル、弟クリシュナバードル |
冬村は夏には無人となっていた |
絶不調、魅力を秘めたアイスキャンデー、あの1本が仇となる
高山病、試練与え、歩むは ゼンマイ人形か、自分にネジ巻く
4/22 晴れ チェップカ泊
スリガットからポクスンドコーラに入り、ナショナルパークのお事務所で3人9000Rs出費
高い! ポーターの10日分?
サーキットには時間がかかるので打診。下山時の飛行機が5/3はまだ飛んでいないらしい、カトマンズ事務所のウダヤに電話連絡、デュナイに降りたら電話約束 ーーカカ二休憩してーーーーアキコーラのポカバードルのバッテイを経てチェップカに4:00到着部屋を決めベットに横になる。
娘をおり、息子2名居た。親父は健在なようだ。何よりーーーー1年ぶりの再会である。
お粥とギョウザ所望す、体調不良で喉を通らず。早々と就寝。5000Rs
チェプカ村の全景 | ドルポサーキット行程コースタイム |
15歳の1年前 そして今年の---大人の顔、家事、絨毯織何でもこなす | チェップカのロッジの一家 |
4/23 チャンドワール泊
朝5時起床
7:30カナにて7:50出発4時間歩いてレチにて昼食。ジェットボイルでラーメン2個2回に分けてクッキング
茹でジャガ芋を食す、他のトレック隊も休憩のバッテイ。さらにワンピッチで子供の為の寄宿舎のある学校、ゴンパがあり橋を越えるとすぐ3:30チャンドワールのジャワナホテルに着いた。プルバラマ39歳が営むホテル、母と一緒だった。子供4人、寄宿舎にいるそうだ。
山椒の効いたアチャールを頂いた--ー痺れる。 テモール:ネパール語 エンマ:チベット語、だそうだ。
向いの空き地ににはソーラーパネルが沢山設置された所である。
学校併設の寄宿舎? | ポクスンド湖 |
我が隊もリンモガオンでドルポサーキット断念決定
4/24 リンモガオン泊
ポクスンドに向けて出発、3641のリンモガオンへ
途中ポロンガオンは冬村で今はひとはいない3時間で着いた
ポクスンドの色は神秘的な色である。太陽の光を受け青の形容が全てこの湖には存在する。
日差しを受けるとまた変化する。太陽と空との共演、競演で観客をお楽しませてくれる。
ボン教徒のラマの新ホテルはヒマライナホテルと言い、湖に一番ん近いだ所だった。
隣は若者達のトランプ博打場となっていて昼からよる遅くまで興じていた。
主人はニマラマ、夫人デンジンナグモ、親父ハソウマンラマ、妻ナンダラマ、弟ソナムラマ、大きなホテルを経営し、カッチャルでの交易拠点となっていた。しかし食事は旧母屋の台所でトイレも在るだけましな場所だった。
ヒマライナホテル | ポン教徒一家 魚眼カメラ機能働く |
行く手を阻むパシア峠への道 9月オープン?
ポクスンドコーラの流れは青く、いきいきと流れていた下流には魚が棲むという |
ドータラップへの峠は雪で閉ざされており、先行く、英、香港、屈強な退役軍人パーティは牛2頭、コックとポーターをポカラより連れて、用意周到計画隊で深雪で撤退してきており、右ならいをせざるをえない我が隊であった。
カトマンズと電話コンタクト、ニュージーランド隊のガイドは飛行機は4月25日再開の情報、4/30ジュパールネパールガンジに決定し、切符手配をお願いする。ウダヤ氏は飛んで居ればオーケーとの事、4/29に変更?
4/25 チャンドワール泊
リンモで半日過ごすはずが山曇り朝起きてカンジラルワを望むべくチョルテンへ登り村を俯瞰、30軒あまり、そして湖に写真を撮りに降りてゆく、鳥葬台のような石積みを見る。
リンモのゴンパの湖面に反射の画像をねらう。東山魁夷に出てくる風景に感動。
小屋の主人はボン教との事、ゴンパもボン教でこの谷はボン教徒らしい 下痢も止まらず、下山決定。
絶不調で早く降りる事にし、11時下山開始。水様便は時を選ばず、3時間でチャンドワールへここで泊まる。 大阪尼崎ミチビシ重工2週間滞在のトレッカーとしばし交流。お粥とマンゴーフルーツジュースを飲む。夜半、脈正常、しかし、水様便は場所を選ばず、夜中に処理。初体験。
4/26 晴れの1日 チェップカ泊
チェップカのオーナー夫妻と英軍人 | カッチャルが足を釣り橋より落とす、自力では抜けられず |
26日地震にてテント泊となった | 昨年世話になったカカニの宿のデディ=コウシラ |
何とか、抗生剤で下痢は止まった、体調も回復して、快調
ロテー2枚で出発する。8:30を回ていた。レチで食事も取らずPM2:30にチェップカに到着。先着があり、建物は危険との事にて、テント設営されてここに泊まる。カトマンズを中心に大きな地震ありとの事にて、死者5000との情報、娘よりメールありとの事にて心配しているようだ
途中の景色、ワラビの林に圧倒される、3度通った道でも頭に入っていない。
依然として飛行機は飛んで居ないらしい。明日はデュナイを目指し事にする、ビタミンを摂取しよう
芋以外は食って居ないのだから、英国陸軍退役軍人イギリス、香港の2名はポカラからスタッフ2名と牛2連れ、深雪で敗退、正当に食料持参の旅でポーター、コックの旅である。いいものを食っている。
今後はやり方を変えねばと思うオクラとかオニオンなど。
今日の払いは5人でロキシー4杯と2食、食って3500Rsという
県都へ
4/27 晴れ デュナイ泊
チェプカ8:20ーーカカニ経由昼食10:30〜 12:00ーーdyunaiへ 2:30到着 ガイド、ポーターと別れて
3名で県都へジュース3飲み150Rs ビール2本 700Rsモモ4皿
フライドライス
ヤキソバ
テントク
トマトスープ3
2部屋 800Rs
釣り橋を渡ると市場、生鮮野菜なし ジープが4台 | ジュファールの町 |
ブルーシープホテル | コテージタイプ |
カカニで前を行くカッチャルが弱ってよろよろーーーヨロヨロ最後は釣橋に足を落として抜けられず、テコて助けられるも 商隊にとってはお荷物となったーーー最後は見放される?
ドルポを旅する者は3食芋覚悟を決めて行け。南京虫対策(トコジラミ)恐るべし、夏だけではない、腰回り周辺の柔らかい所に紅斑がーーーーー聞きしに勝るとはこの事なり
何にもない場所とは聞いていたが、本当に何もない、彼らの生活を壊しての旅は本意ではない。
デュナイにメール送信のために3:30にやって来た、最高のホテル=ブルーシープホテルーーイン
しかし電気ツァイナ、WiFi は有っても電気弱く飛ばず、繋がらなかった
ワイファイ、電気ツアイナ、ミートツァイナ サッパイツァイナの夜だった。
HAJ伊東氏、娘に電話で日本とコンタクト無事を報告。身内にメール。
デュナイ情報EPIガス2500Rsだそうだ大量にある韓国製。
飛行機待ち
4/28 ジュファール泊
ジュファールまでタクシーで350Rsーーー3人 =1050Rs
朝対岸でバッファロー解体で町民の人だかり、買いにゆくもの多い
牛肉に未練あり3皿600Rsで食う
14:30戻り、テルトールを解雇する。サラリー10000Rsボーナス含む
村にメデカルドクター達による集団医療検診で小学校は休校となって居た。ホテル満室で学校前は長蛇の列が夕刻まで続いていた。近郷まで馬で出向き診療も同時進行で、夕刻はミーテング、キャンプファイヤーで酒が入り盛り上がっていた。最長老のDrは64歳と言っていた。クンブからボランテア?=国家事業?ーーーそこまでは聞かなかった。
夜はダルバート4人今日からテント泊、3張確保 スパパスタ、ケチャップ、魚缶≒ 950Rs
ミルク500Rs、サーダー粉と油買い明日に備える。テルトールは1泊して明朝3日で帰るという。
宿は満杯、テント泊となる、宿の大人も子らも客に部屋を取られテント、嬉しい悲鳴
ジェファールの集落で飛行機が来ないと閑散としている。
ホテル屋上より朝日の当る山々
望遠で西方の山を撮影
4/29 晴れ rest day ジュファール飛行機待ち
解雇 ポーターとミルクティーを共にする。パンケーキ、ミルクで朝食
壊れた靴の修理500Rs 頭髪をカット250Rsこれでも9:30さてどうしようーーーー
昼はスパゲッティを卵とサーディン缶と一緒に調理し、自炊。
アチャール、ヌン、醤油、パイン缶 950RS 卵7個175Rs
携帯、iPod、カメラ充電して日本とコンタクト4/29 晴れ rest day
5000人死亡らしい。日本新聞に載ったらしい、娘無事の連絡。菊地さんより届く
ユッタリとお時を過ごすーーーー今回、初の休養日、庄衛氏へメール送ると返事、尾形一幸会長へメール送る。
夜はダルバート、9:00 就寝。
4/30 晴れ夕刻スコール雷は西から東へ去って行った。飛行機待ち日 ジュファール泊
朝ミーティング、マシナトール移動がベターなようだ、ニュージーランド隊は28日に帰ったと地元ガイドはゆう、若い隊員は最後まで高山病だったらしく楽しめなかったと言っていた。190$一人ゴーマエヤースタッフとコンタクト。ここ空港でも明日テストフライトだという。ここの女主人もマシナトールヘ行ったので、待つならマシナトールを覚悟する。
ランチョンミート500Rsで購入、350Rsでククリラムで夕食。
薪を売りに来たダウラポーターを雇用契約=2250Rsで17歳の少年。高いが即決でーーー
妻はコックの子等と折紙で過ごす、影山氏はクリケット、ーーーーーー子供の名はカマル デアル
靴底を張り替える、靴屋が床屋に変身、頭を刈る | 世話になったミーナ、ツールバードル、コマルのデアル一家 |
ガンガとそのチョリ | 豆を石の上で挽くダルスープの為に |
我が隊もドルポを脱出する
5/1 晴れ マシナトール泊
6:00起き出し、茶、そしてパンケーキを焼き、食す。3枚多めで粉が尽きた。これをランチとする
ポーターが来る、茶を勧める、8:10マシナトール向けて出発順調に歩を進めてトリプリコットで警察のチェックポスト、丘の上のトリプラマンデールに参拝、ヒンデーの寺である。ヒンズーの神々、ガネーシャ、大黒もいるーーーーーー。
天上の生活道路 | 対岸の山腹にガオンがあり 交易路がある |
尾根上でポーターのローカルロティー(粗引きチャパティ)をみんなで頂く、アチャールと共に。
マシナトール 峠でラーメンを食す15:30 妻は脱水状態 350Rs 一杯70Rsである。
到着後、ゴーマ スタッフとミーテング、航空会社のゴーマはもう飛んで来ないという、1社だけ明日カトマンズから飛んでくるという、これにかけよう。ここまで天空のトレッキングコースを堪能。ここに来る日本人はいないだだろう。
パハール エァーポートの別名がこの空港の呼び名でもある。ウダヤ氏にテレホンで交信。チケットをカトマンズで手配依頼。
乗船名簿?名前を記帳、5-8が順番らしい我々の前に4人いる。US隊3名 一般人1名?
空港直近の宿は、ツ―ラーバードルデアルと妻ミーナデアル子供コマルデアルの家族の家である。ポーターに給金を渡すが帰らない? −−−バンダナが欲しかったのだ。赤いバンダナをあげる。
夕刻ラムで一杯。ダルバート8:00就寝、ベット2つで3人ーーーーー山はこれもあり
10:12分ーーー飛行機が来る、兄より電話が有り、明朝帰途予定を連絡。
あさ太陽に照れされたヒマラヤ | 一番機が病人を乗せて離陸 |
5/2 晴れ 飛行機移動日 マシナトール?ネパールガンジ 泊
5:00よりプタ、チューレン、ダウラ、の朝スルエットをたんのう
ロテイーとタルカリで朝食 、1番機は病人を乗せて離陸、空港移動し待つこと1時間、11:40搭乗、飛行場税200RS 超過10Kg 600Rs
2便に乗って12:30 エアーカスタマンダップ社機で帰還。ドルポサーキットのUS隊の3名(ドータラップ東回り)も待機していた。雪で超えられずに敗退との弁。残念!今春の隊はすべてがクリァー出来なかった事になる。
タライ平原 国境の町ネパールガンジへ
タクシー500RSでネパールガンジのバスパークへ
ここで塩キュウリでビール、チキンカリー、で乾杯。まずはこれで帰れる実感。 色々あったサーダー
シェルパとはモモカナ、小宴、同宿、明日朝3000RSでグッパイーーーーー
菩提樹の下 森下上人左 | 北の端にあり妙法山 日本寺 |
釈迦の誕生日にルンビニへ
5/3 晴れ 移動日 ルンビニ泊
6:45のバスでネパールガンジ?ブットワール?バイラワ?ルンビニ移動。宿物色、ルンビニビレッジロッジ600RS決定。
釈迦牟尼誕生の行事、村人こぞりてろうそく行列行進の群れへーーー行く先は黄金フッタ像の部屋の中へ
夜の集いに参会する。ーーーーーー宿前のレストランで遅い夕食となる長い1日だった。
日本の花まつり4月8日とは違っていた
5/4 晴れ ルンビニ レストデー ルンビニ泊
朝の散歩後、釈迦牟尼仏と食う為、冷えた西瓜を持参。寺で参拝の各国の衆生と共に食う。
法会参会座禅、マヤデビ記念館を見学、アショカピラーチェックし、暑さで休憩後
レンタルサイクルで南面を周回し、バザール、仏教寺院を訪ね歩く、
夕刻、妙法山日本寺へ森下行哲上人と面談、1937年生まれ佐賀出身で今はザンビアの日本寺に身を置いているとの事、ビザの関係で出国しまた戻る予定でルンビニに来ているいきさつや、アフリカ、アメリカ、ベルリン、南ア、ゼロワン、ーーーーーー
気さくに過去の世界平和運動に身を置いた話をしてくれた。昭和の生き証人のような人だった。
あとで上人の業績、往き様を知った。えらい人と逢ったのだとーー小さい身体でパワフルな人だった。
ーーーー夕刻法華ホテルで夕食、5000Rs蕎麦、コンチネンタルセット、2個、ビール、暗い中、自転車で長い帰途に?
5/5晴れ 移動日 ポカラ泊
6:45 ダイレクトバスで一路ポカラを目指す、7時間
14:30ポカラ到着
ジョシーさん紹介のファイヤーマウントホテル。200RS タクシー。コーヒー
フェワ湖で釣り見学
服購入、ランドリーでスボン洗濯、翌朝出来上がりらしい。 疲れ就寝。
明日の事は明日。出来次第出発?第二段、トレックが待っているーーーーー
桃太郎で煮込みカツ丼を食う
宿代2000Rsとの事。
second stayge | |||
29 | 1 | 5月6日 | Pokhara---ノーダラ カレー----オーストラリアキャンプ |
30 | 2 | 5月7日 | オーストラリアキャンプ ---- フォレストキャンプ |
31 | 3 | 5月8日 | フォレストキャンプ----ローキャンプ |
32 | 4 | 5月9日 | ローキャンプ---ハイキャンプ |
33 | 5 | 5月10日 | ハイキャンプ----マチャ、アンナ展望台‐‐‐ ローキャンプ |
34 | 6 | 5月11日 | ローキャンプ---フォレストキャンプ‐‐‐ ニューブリッジ |
35 | 7 | 5月12日 | ニューブリッジ‐‐‐ジヌーダンダ 温泉 ランドルン |
36 | 8 | 5月13日 | ランドルン----オーストラリアキャンプ |
37 | 9 | 5月14日 | オーストラリアキャンプ‐‐カレ-よりタクシーー‐‐‐ポカラ |
38 | 10 | 5月15日 | ポカラ 国際山岳博物館へ |
39 | 11 | 5月16日 | ポカラ |
40 | 12 | 5月17日 | ポカラ‐‐‐‐ KTM 移動 |
41 | 13 | 5月18日 | KTM シーガルトラベルへ 日が悪く テント泊 |
42 | 5月19日 | KTM 古都パダンへ | |
43 | 5月20日 | KTM ラトナパーク 自衛隊医務官 退所式 | |
44 | 5月21日 | KTM---昆明で中国入国 国内移動 上海 浦東空港深夜 | |
45 | 5月22日 | 早朝地下鉄2号で乗り換え2回-----上海虹橋空港へ 帰国 |
アンナの南面マルディヒマールへのトレッキングへ
5/6 晴れ ポカラより オーストラリアキャンプ泊
朝ベーカリーでパン購入し、ついでにアップルパイを食うこれが朝食となった
最後は、茶で流し込む?フェワ湖散歩?
荷が多いのとポーター兼ガイド1000Rsで雇用する、街でスカウトするが、素性確かなホテルの御主人に紹介してもらう
カナ代
500Rs 上積みで了承。
タクシー200Rsで移動しTEMSではなくACAPが必要でツーリストセンターへ3人で6000Rs支払い=トレッキングパーミッション取得。保険はホテル主人に聞くも10日の保険は無いらしいーーーーー
TEMSと両方必要とのらしい。この地域はACAPだけていいとの事でした。
タカリーキッチン4人で1500Rs ダルバートにデユーロ付、ヨーグルトありをポーターのラルバードルと?食う。彼はマルシャンデーの中流域の出身地、グルン族でパルバテーヒンドーである。この地域は仏教と半々の村だとのこと。
250Rsでタクシーーーーーバスパークへ
2500ホテル代とランドリー代
ポカラ?市バスにて移動ノーダラ?カレー下車してトレッキングにはいる
コースは岩崩れ、雪崩のないコースを選択し、グットビューポイントを周回し10日で回れるコースはを選択。
5/7 雨後晴れ
モデイーコーラとマルディコーラの間の稜線を行く フォレストキャンプ泊
オーストラリアキャンプゲストハウスに泊まり早朝6:00より雷雨となり出発を遅らせる。
主人はホリバージュルが言っていた40年前オーストラリア人がキャンプした場所。
ホテルが7軒あり全体が小綺麗にまとまっていた。2670Rs支払う
宿の前の機工房ではシルクの織り機で工女が働いていた。ポタアナのチェックポストで半券を切られる
デウラリ8:50通過バナナ1本30Rs トータル90Rs
周辺はジャンカルで1日続いた。山蛭が忍び寄りって来ていた。足許の靴下の間にーーーーマッチで火を当てポロリと落ちてもらった。血が止まらなかった。スボンの裾を靴下の中に入れて歩いて事なきを得る。
アサギマダラと遭遇。写真はとれなかった
。白い着生ランあり、ウバユリあり、ミズあり姫カラマツあり
途中でパン1枚で1:30フォレストキャンプ(コーラ)到着 ダウラ拾いのデデーと遭遇し、ここの主人はシックリシ出身のチェットリーでインドの傭兵で国境の部隊で働いていたとゆう酒できぶん向上し、匍匐前進を見せてくれた。オンババードル
チェットリー 妻ミトーチェットリー
茶、仮眠、夕食はチキンカリーを注文すると裏で解体の声があった。600RS*2
ロキシー1杯飲んで20:30就寝 肉てんこ盛りチキンカレーだった。
67歳で2人の妻先立たれる。5娘3男ありーーーカンチャ17歳でサテーと顔お出した。
ここフォレストC 4000Rs支払う
5/8 曇り フォレストキャンプ ? レストキャンプ経由?
LOWキャンプ2970m表示
7:10出発 ゆっくり行くも11:00 到着で、途中レストキャンプでパドンバードル経営のバッティでミルクを頂く、70を50してもらう。彼のいでたちはカチャール、男のルンギースタコートチョッキ、
背中にバグラーを背負い、ダカトピー帽子、シャクー(竹の蓑)プラステック併用で快適。天井はススで黒光りの竹の編みマットを張ってあった。
花はマムシグサI 、浦島草、猫の目草、ツバメオモト、ツガザクラの仲間あり、ツクバネ草、行者ニンニクあり、茹でてもらう、アルーを茹で、卵を茹で調味して食す。ロシアカップル下山して行った。
下からオーストラリア、タスマニアからスペイン女の子はマジョルカ島出身のカップルが上がってくる。明日の上部へ、
ラリグラスホテルで部屋代 400Rsである。ジャガン
ゴータムは主人の名で有る。
この地のフーマルは,別名である。
女房は 本日不調でユックリ。着後2時間寝た。夜も寝ていた。
ロキシー1杯、夕方雨、
5/9 晴れのち曇り ハイキャンプへ ローキャンプ支払い
3175Rsであった。
8:10 朝食のチャパテーを行者ニンニク入りオムレツとミルクティで流し込み
スタート4時間の行程、アサギマダラと遭遇。ヤク当年子が6頭、カルカにいて可愛かった。
11:40到着、3時間半の途中、桃色シャクナゲ、雪割草、サクラ草、黄色いサクラ草、浦島草、マムシ草、ノーゴーイチゴ、ツガザクラが木にぶら下がっていた、白山イチゲは未開花だった。
5/10
ハイCではダルバート2 ミックスカリー1、ロキシー2をゆっくりお湯で薄めて楽しんだ
翌朝4:30起床5:50 出発
山頂ビューポイント9:50、イスラエルの20代の若い軍人グループ3名が登って来て元気に上のBCへ向かった、この頃は雲の中、犬も着いて行った。
元気だったスペインのマジョリカ島おんなと相棒のタスマニアの男は高度障害で登って来なかった。犬とヤクとのファイトシーンをカメラに収めた。
11:00小屋で下山後ベジタブルラーメンチャパティを食する 休憩後、2部屋代350Rs+250Rsと支払い4570RSであった。
13:00 小屋の主人はプルナ グルン でシデングのタラ(下)に家があるという。と記念写真を撮り下山
15:00ローキャンプに着いた。妻がフラフラでハイキャンプまでアンザイレン。下山を早めたが、途中雨となり合羽の世話となった。中間小屋で雨宿りの若いロシア人グループは5名でテント持参のマルデーヒマールに行くという。モスクワのガイド夫婦で客らしい男女3人つれ、雪洞訓練の写真を見せてくれた。若いってすばらしい。
高山病でキャンプ間を2時間でおりたのは立派、その後は降りられず泊りに決定。小屋のジャガン ゴーダムはトウチュウ夏草を取りに行った。2個見つけて来た。なんとなく買ってもらいたいらしいーーーそんな趣味はない。冬虫夏草ーーーガネッシュでは越境のチベッタンと村人が殺戮もありと故田辺治氏に聞いていたのでその話でお茶を濁したーーーー。不老長寿という言葉がチャイナには魔力があるらしい。
高い時は高いが需要のない時期はそうでもないらしい。チャイナが欲しがっている時はーーーー。
ミルク茶を飲んでーーー夕食は卵を3個、ニンニク、行者ニンニク、タマネギ、トマト、を入れたチャンハンは塩コショウ、ケチャップ、醤油とコショウで味を整えて作った。自分で作った日本食だった。朝はいつも晴れ午後曇りのパターンである。夜中布団の上をネズミがもぞもぞーーー気持ちいいもんでない、電気を点けて寝た。翌朝この話をジャガンに言うと、ニヤッと笑って、1匹殺すと次の日は2匹、2匹殺すとその次の日は4匹――――山にはいくらでも居るーーーーここは山――――笑うしかなかった。
5/11 晴れのち雨、雹、雷雨
翌朝は、食べやすいパンケーキを注文し、6枚、=1000RS、チャージ代150Rs、食後、支払い3210Rs。下山中にレストキャンプでは、69歳のパドンバードルにライスプデングを馳走になり、120Rs謝礼を置いた。そのまま下山、フォレストキャンプでゴット
グルンのポーターサポートを断り、妻マヌーにレモン水を馳走になる謝礼100Rs置いた。ショートカットの道を急いで下山をし、再度アサギマダラと遭遇、何とか写真におさめた。水車小屋周辺にストックを起き忘れ取りに戻るが無かった。ニューブリッジで本格的な雨となった。
モモを注文、3個、ロキシー1杯ポーターにおごる。 残念にも小屋のスタッフがストック探すが無かったの報告。
ここはワイファイ域、200Rsという、2通送付。アサギマダラと遭遇、マチャプチャリーの襞
の出ている写真をFacebookに載せる。3人部屋360Rsらしい。もう1500mの平地となった。
高度障害とはおさらばである。
地震=ボインジャーラ
ラツネ=行者ニンニク、グーデイチョーップ=編笠茸
5/12 晴れ 温泉レストデイ
朝5:00より起き出しジェットボイルでホウジ茶を飲み、作戦会議。体調考慮、
チャパティとタルカリで朝食 スープ状タルカリだった。4090Rs支払い
本日は1カ月ぶり温泉でソワソワ、2時間モデーコーラを遡り、ジヌダンダへ
ここよりモデーコーラの河原にまで30分で温泉で途中湯守が同行、1人50Rsと言う。
着ているものを全部洗濯し、河原に干してから入浴。打たせ湯状洗い場、3つ、10人浴槽3つあり、先客の若いロシア女性有り、ーーーー
湯守が70歳で俺の背中を流したいと言う、人に背中をまかせるのは何十年ぶりだろうか?
背中の手が前の方もーーー自分で出来るところはノーサンキューーーーー1時間の長湯
猿が上湯に降りてきた。バンダールで頭しろ顔黒である。カメラを向けると河原に降りた。ベストショットは逃がした。ーーーーせっかく綺麗になったが汗をかきながら30分の登り、ーーー
帰路ジヌダンダで昼食、野菜卵入りフライドライスを注文、マンゴージュース400、300、300、150ホテル地震でダメージを受けている所の補修中、であったが群発地震2度あり、作業者固まる、調理も中断、やはりダメージ、があった大地震がスポット的に確認出来た。余震の便り了解。
ニューブリッジに戻り、宿の主人にデポ装備、ストック忘れ探しに戻ってもらった諸々の礼
を言いたかった。オームと名乗った。親じはポカラで手広く商いをしているらしい。
3時過ぎ、ランドルン向けて出発、今日の泊まり場に決めた、ガオンは階段状で上から見ると旧家屋が崩壊しており、建築基準法不在の地方の現場をみた、
途中水場にマダラの乱舞をみた、いつも頭上にアンナのサウスがあった。
5時過ぎ、上部のこ綺麗なWi-Fi有り電気有り地震でダメージない平屋のホットシャワー有りに、入った。まずはビール、チキンカリー、フライドチキンとお粥の妻が正解だった。美味
レモンティー、ホットレモンでくつろいだーーーー
ここよりジープ有り、1000Rsと言ったーーーどうしよう?
5/13 晴れ後雨そして土砂降り
移動日
5:00より起床、ここランドルンでは村の会議が持たれていた。
地震の復興の話だろうか?村では死者は出なかったと言う、何軒か屋根が落ちていた。
4525Rs支払い、宿の女主人と写真、ハングリーホテルを後にした。
道は車道で登りは無いと言う行程だがーーーーーバグラーはハンドメードだった、良い物だが不要の判断で見るだけとする。
車で移動ではトレックになら無いとあえて挑んだ。途中、ビチョックのデリーカルカで昼食ミカン、ラーメン2とフライドポテト注文、フレンチポテトと言わないと芋の煮っころがしころが出てくる、トータル1000Rs、ブルーバード、黄色バード、赤い鳥、など観察、娘3人、ダウラを独鈷で運んで居た。車道を離れた時より雨となった。
パソナで泊りを覚悟したが、ガイドが先走った態度、ロッチの態度が癪にさわった。チェックポストでチェックした頃雨やみ、30分でオーストラリアキャンプへの話ーーー決定
3:30到着 500Rsの条件でホテルを決めたが、2部屋オーダーで1000Rs、
トリカラつまみフレンチポテトでロキシーを飲みーーーー夕食は7:30ダルバード、スパゲティとする。アンナ4峰、2峰、ラムジュンヒマールが見えた。明日朝に期待しよう、あすはポカラ?
日本へ来たドイツ女性あり別府東京京都、日光を観光と言っていた。
ホテルの名はマチャプチャリーホテル、フリーランスコーリア青年あり。
5/14 晴れ 朝夜明け前より起き出し
眼前 に広がる山のスルエットを眺めて一喜一憂して8:00となり贅沢な時間を過ごした。
サウスーヒウンチュリ?ガンガプルナ? マチャプチャリー?アンナ4?2峰そしてラムジュンヒマールーーーー山を降りる日となった。腰痛をお騙す日々から1月が経っていた。
よくぞ3人共、足を壊さず歩けたもんだ。ジュムラ?ジュファール?ポクスンド往復?マシナトール空港へ~ネパールガンジ脱出ーーーー第2段の9日間マルデーヒマールトレック年寄りにはこれくらい出来ればジョウテキーーーー朝オムレツ、チャパテイ2枚でマチャプチャリーゲストハウスを後にする4500支払いーーータクシー800でポカラ11時
ポーターのダンバードル グルンを解雇。9日間。マナスルが見える実家がボインジャーラで大変な時にーーー次は、コプラー
カツ丼、豚丼ガンジ待っていた。1100Rs
マンゴー180 ビールチーズソーセージパンで夕食とする。1500RS
ポカラで静養
5/15 晴れ
山岳博物館へ 9:00開館。2度目でもあり、山岳文化、ネパール他民族国家の復習。相方は感動し興奮気味ーーー良かった。タクシーを2時間待たせたーー帰路、同方向のチベッタンキャンプへ カーペット見学、チベット難民救済事業。アムド、カム、雲南、ラサ周辺からの大量難民が南下ーーーー蔵人不運の時代が有った。1950年代?
今は街に漢字表記の看板多数ーチャイニーズマネーがアジア?世界 で踊っている。複雑だろう。ダライ・ラマ14世の世界での平和活動のパネルありーーーーーー
フェファ湖湖畔でタクシーを捨てる。900Rs
風の旅行社近くの食べ物屋へ 1500食ったのに1930円だった。席料、13%タックス?ーーー
地方ではタブーのアイスヨーグルト780Rsを贅沢した。
歩きそして土産屋さん冷やかし、15:30宿へモモ3・バフツマミ、(買い置きククリラム)で夕食とする
3人で280Rsであった、この食事が本当の旅かもしれないーーー
5/16 晴れ
朝より、何もしない贅沢は結構難しい。PDCAで生きて来たのでーーーー
早朝街で買い求めたドーナッツ1 キュウリ、トマト、茹でタマゴとミルクティで朝食とする。ミルクティーはジェットボイルで作りーーーーマンゴーデザート。今の時期はマンゴーでしょう。持って来た竿と毛針でトライ、動いていない湖ではあたりなしーーーールアーもお遊びでーーー毛針は子供にくれた。2時間湖畔に立っていた。ーーー日本では瀬で渓流魚が踊っているだろうに。
バスチケット手配、850Rs/人 エアコン付きとの事。移動手段ピンキリで24ドルは昼食つき、1500Rsはエアコン付き食事なし、だという、さいごはエアコン無しで750Rsだそうだ。
モズがホテルの前のスモモの木で遊んでいる。
いよいよポカラとさらば、KTMホテルオーナーのジョシーさんとコンタクト。元気な声に安心、無傷でーーー懸念が払拭された。
代理店のウダヤ氏とはコンタクト出来ず。
KTMで何らかのボランティアが出来ればーーーー
夕食はポカラの最後で桃太郎でビールと鶏のテリヤキ、ナス味噌炒め、各自中華丼、天ぷら丼、蒲焼丼を食べた魚はキャットフィッシュ=ナマズだった。美味なり 2550Rs
宿で6000RSのホテル代とバスチケット2550Rsで支払いをお済ませた。
地震で壊滅状態のカトマンズ文化遺産へ
5/17晴れ ポカラからカトマンズ移動
7:30予定のバスが客待ちで遅れてスタートし、朝食昼食で休憩し、最後はパンク交換で30分待たされーーーー 3:30KTM到着。地震4/25,
5/12の2回大きな地震有り。ホテルの奥様は怖いと平場でテント泊だそうだ。我々の為に特別開けてくれた。タメール地区は半分くらいクローズ、瓦礫等は無く綺麗で有り、余波が無ければ、平穏な感じだが1歩裏道では瓦礫の山、ドルフィンホテルの西の水場半分半分瓦礫で埋まっていた。ビルの崩壊による。バス移動の途中、ビルの崩壊や家屋崩壊多数存在。日本自衛隊日の丸作業服も見かけーーー頼もしい。ホテル、レストランも開店休業状態のよう、5/12に電気水道復旧したとの弁。
街は我々同様の帰国の為の旅行者のみらしい。ペンバノルブの車運転姿を見かける。無事で何より!
現場写真公開ーーー2回目の地震で崩壊が進んだと言っていた。KTMよりー報と致します。
夜620Rs食事 ナン ラシー タンドリーハーフ
マンゴー200Rs
バナナ 150Rs
コーヒー サンサーラ250Rs
ホテルのワレメ等の亀裂無しーーーー無傷
ー
5/18 晴れ
朝食のため近くのバッテイへ茶と茹でタマゴ、パン2枚ーーーー
そのままタメール西の通りを南下、チャイナタウン的で漢語が目立つ、
風の旅行社もこの通りにある。古い建物の破損多数、つっかい棒で建物を支えて居る光景が目立つ。文化遺産のクマリの館、ダルマール広場周辺は壊滅状態で見る影もなし。ホワイトパレスも崩れて居る。ハヌマンドガ、同様、瓦礫の山、新旧同居がこの街、今後
行政が真価を問われるだろう。
火災の後もあり、見るも無残な姿となっていた。それでも庶民はしたたかに生きている。壊れかけた下で商売するものーーーーー多し。今ぐらっと来たらーーー命の保証は無い。
そんな思いで、街を歩いての撮影行である。危険ーーー逃げられない。広い通りは無傷。
69$ ドルポ脱出時の航空代金を超過料金支払うために9:00シーガルトラベルへ
タクシー移動
ラム社長と会い、日本からの心ない問い合わせに苦労の日々だった。居所随時連絡を責められた。御意!山の中ーーー旧NTTガラ系では、圏外表示、現地使用、アイフォーンの時代。Simカード時代?痛感。
安全を考えたら一刻も早く、帰国のすべしーーーみんな帰ったとの事。自分も外でテント泊で安全確保。ーーーーー安全保証できない。現状。
航空会社も緊急時考慮で対応している。マ航空然り、ーーー王宮裏の中国東方航空窓口で交渉、19日満席、20日飛行計画無し、21日チケットどおり、
今回の地震 震源地はGorkha, Dhading , Nuwakot, KTM, Bhaktapur, Lalitapur,
Langtang,
Sindhupalchok, Dolakha, Everest BC と移動形であり、ランタンは全滅との事。
交渉不調、レストラン華へーー
戸張氏不在、オーナーNepal人と交代し帰国したとの事、納得。味は残っていた。
夕刻よりホテルのオーナーのジョシーさんが我々にテント泊を勧めにやって来た。
今日から明日にかけて日が悪い、2とか5のつく日は悪い予感ーーーーネパールでは信じられているらしい。余震続く中で3度目のボインジャーラ(地震) ーーーー郷にいらば郷に従うのが利口ーーー
近くのロインチョール広場に移動、ここは国民に愛されたビレンドラ国王、その妻クイーン アイソリアの像があり王宮の東である。テントを張る。2人用ゴアライズに3人となった。寝るだけなので問題なし、炊き出しのパックライスカリーを頂いた。周辺より20日以上もここで寝泊まりしているとの事、カトマンズの芝生はこんな感じとなっていた整然と避難生活が行われていた。昼仕事で夜は泊りに広場へーーー当分続くだろうーーーー旅人の我々は明後日帰国する後もーーーーーー。畑のない都市生活者は、観光依存度が高い、
彼らへの援助は、来てあげる事だろう。カトマンズへ
5/19 晴れ
昨夜のテント泊2:00までぐっすり、寒さで寝袋の入る。何事も無くーーー
影山氏は地震後のスワヤンブナートへ
我々はパダンに行ってみる。ここも壊滅状態、テント設営の子連れ女性はネワールの美術品工芸作家?ーーーーファクトリーダメージで仕事ない家ないと嘆いていた。日本人と知るや、テレビで見たと言っていた。同類哀れむの顔となった。狭い小路は避け、安全地帯を心がけた。
バスで戻り、タメールで買い物、食事に入った店が袋小路でケーブ、天井に亀裂!腰を浮かせて食べーーー即刻出口へ 助かったの心。
今晩はホテル泊と決めた。
夕食は7時を回っていた、空いている少なくタメールを南下、桃太郎があいていた。
地元のグルカビールと天丼、酢豚、野菜炒めを夫々食べた。ホテルの玄関鍵を頂き
今晩は、我々だけ、オーナー夫妻はテントに戻って行った。
なすびがカトマンズに居るらしい?
5/20晴れ
朝テントをたたむ、ラトナパークで日本の自衛隊が医療活動して居るらしい?
敬意を表して訪問することにする。
到着した時が正に退所式の最中であった。ネパール側から関係各位の労に感謝の言葉が述べられ、ー隊長の敬礼で終わった。隊員の中には中国での大使館 武官も緊急に駆り出されての参加隊員あり、4/29?5/19で隊務を終了、記念写真も自衛隊式で国際部隊のセレモニーで幕が降ろされた。車列が出来、全隊員乗り込みラトナパークを去って行った。空港より民間機で帰国との事でした。
なすびが小川大使に挨拶する所に居合わせて、3度のエベレスト失敗ーーーまた来てくださいーーーのような話だった。
なすびと挨拶を交わし、同じ写真に収まった。今月いっぱい居るらしい、命大切に、気をつけて!ーーーとーーーー義援金、募金先頭でのPR活動に敬意を表し握手で別れた。
福島に元気を!がスローガンだっただけに残念である。
カトマンズでは暑い夜と雨季がやって来るこれからが正念場ーーーー。
5/21 晴れ
朝より帰国準備、 ルピーのあまりで8000Rsジュンポーのサングラスを購入。
空港利用税はなかった。夫妻は地震後屋上には上がる事が出来ず
キッチンを2階に移動し、これから暮らす様だ。マヤさんは怯えている。
ジョシーさんに支払い3泊分、100$320Rs お見舞い金を50$包み、200$=4日分?
隣のダワチェリン の車でカトマンズ12:00?空港へ700Rs
空港で35kg預け、destination:羽田と記入、搭乗
カトマンズ離陸16:00 昆明 通過 残金で1400Rsでお茶を買った。
700Rsのビールを飲んだ。
昆明にてトラジット、ここでイミグレーションで入国手続き完了。入国カード出国カード記入、飛行機で待つのかと思ったが、そのままで、国内線で上海浦東空港まで移動、影山氏到着直後トイレへ行ったきり帰って来ず、3階トイレへ行ったのでエレベーターを登りFカウンター 周辺を探す、居らず、1階に戻るが居らず。ゲート65より行ったのーーー解釈しい後を追う、飛行機内を探すーーー乗っておらず、降りようとしたが、降りられず、電話にてコンタクト確認が取れた。上海で待つことにしよう。浦東でチェック。次便をーーーーー最後にオチが待っていたとはーーーーー
機内では軽食が出た。時計を1時間早めなければいけない。この辺が理解されなかったのだろうか?
5/22晴れ 昆明?上海浦東空港ー虹橋空港
空港で朝を待って兌換、手数料50元かかる、2000交換、これで地下鉄=11元 移動が出来る。
8:50 中々発券出来ず。10分以上待つ、荷物が行き、やっとボーテングカードが手元に残る。B9の搭乗口ではまだ搭乗しておらず安堵。トイレへ駆け込み、残元でコーラ、ファンタ入手。
9:30机上の人となる
地下鉄にて移動時間がかかり、
気を揉みながら35kgのにを運ぶ、安いチケットの所以である。
影山氏のeチケットはカウンターに置いでくる。浦東空港より成田となったようだ、チケット書き換えOKだった。
成田9:00到着で日本へ着いたーーーーーー郡山へとのこと
羽田では民友新聞社の記者に取材される。地震のお話に終始する
2014年の記録
はじめに
カンジロバという名が私の喉の奥にひっかかってとれないでいた。
1974年頃、山岳会で遠征隊を計画した事があった。大阪市大澤田さん、北海道の故 阿部淳さんに情報提供をお願いし、東北海登研ではHAJの北海道のカンジラルワの京極さんに帰国直近の話を聞いていた。
山形のビジョラヒウンチュリーの亀井さんには昨年コンタクトしたが体調不良で逢えなかった。ーーーー
そんなこんなで2009年K2遠征、終了後は山人生の最終章のいい山の模索をしていた私でした。
66歳になり糖尿、高血圧、の薬仲間となり、今動かねばーーーーが私を後押しした。
2月に入り、身体を空けてーーーまずは偵察をとウィックの稲村さんにチケットをお願いした。
HAJの岩崎さんに西ネパールの旅の仕方のアドバイスを頂いた。
偵察適期をも考えず飛び出してしまった私でした。
いい時に来るべき後悔と雪線を超えての旅に不安の道行きだった。
2014.2.20成田よりマレーシア航空でカトマンズへ。
カトマンズでは
冬の偵察とトレッキングエリアが特別許可地域であり、2000年チョモランマ遠征時世話になった。
シーガルトラベルに相談する事にした。Face Bookでコンタクト、ネパールガンジ〜ジュムラ〜カンジロバ山群、
(西ネパール カルナリ州)の偵察の要旨を伝えた。ラム社長に逢い、意向を伝えるが今年は異常気象、この地域のデータがない事。
今の時期は宿泊施設がない事、ルートが開いていない事。等の障害が浮き彫りになった。それでも行くのか?
の問いにまずは見て見たい、天気次第? 雪次第?、高度障害次第?20代夢に見た山域ーーーーーー。
まずはララ湖へ、この地域の国立公園でありポピラーな場所と思い、ここで順化してサーダーとチームワークを作ってカンデヒウンチュリー方面の偵察に向かおうと意思を固めた。
翌朝、電話が掛かってきた、すぐ来てくれの電話だった。
カンジロバが見える地点が見つかったのでそこなら行けるとの弁。ポクスンドコーラだった。
偵察の夢が消えた。下見の下見という事で納得。今を選んだ自分なのだから。
サーダーと3人でジェファール(ドルポの玄関)に飛び、トレッキングチームを作って行く提案だった。
シェルパの名はパサン カミ シェルパ 50歳 彼は15歳のカンチャ シェルパから始めた、根っからのシェルパ稼業で15Rsが初任給だったらしい、今はカトマンズとクンブに妻が2人居り、子供9人との事。
志小田、田辺、山下の名が彼の口から飛び出してくる。皆HAJメンバーで既知のメロサティ(私の友達)という事にて安心。
2014.2.22
カトマンズは金曜日で土曜は役所は休み、月曜まで動けない。タメールの北で以前お世話になったドルフィンGH滞在。
カトマンズ盆地のこの時期は、逆転層でスモックが拡散されずいつもどんより曇っている。
町は大渋滞でマスクなしではつらい、乾季でほこりっぽさもあり滞在したくない町である。
カカニの丘へバスの旅を計画。まずはカトマンズの北部マチャポカリのバスストップへ
カカニはイチゴの産地で日本の技術支援でニジマスの養殖の盛んな地域である。ヒマラヤのビューポイントであるが曇りにて今日は見えない。
日本のマナスル遠征ゆかりの地で京大の偵察時ここから眺めて夢をはせて地でもある。
今回のトレッキングではパソコンを持たずipad mimiを購入して旅に出ました。果たして上手く繋がるか?日本の
ルーター使用せずWiFiの環境下で?繋ぐことがお金が掛からず。日本との交信が出来る。
シムカードを購入してスマートフォンで交信がいいらしい。
停電の多いKTMでは、夜中の通電時に充電しておかないと使用できない事が多いので要注意。
ネパール人は皆利用しているようだ。
現場の天候などGoogleアースで雪の状態判断してゆこうと思っていましたが。
フィールドでは電波が届かない事や現地のルーターがないのでダメでした。行動中は下の村にデポでした。
2/23
保険について
トレッキングくらいと思って安易に現地雇用者の保険を考えていなかった。
この時期は誰もいかない所へ、パーミッションを取り、チケット購入、出発、会社に一冊入れてスタートです。
何があっても自己責任の確認です。
会社に責任はない。ネパールの規則に従う事、ネパールスタッフや雇用のメンバーの万が一の諸費用の全てが、カンジロバ偵察者の我々の発想から起因する事への確認。
山やへの警鐘を受け止めての出発です。厳しいが現実です。
気を引き締めて行かねばの心境です。PL法
この念書は、大きな意味を持つ事を後で知った。
万が一の事故の時は本人と本人以外で家族、遺族の今後の生活費まで面倒をみる事の保証書の意味を持つ事だった。
大きな遠征代理店のネパール法人は幾人もの事故を見て来ただろう。高所に弱い現地雇用者も多いので。
その都度、直面する費用負担の請求場所、後に来る補償問題。
保険の肩代わりになるものだった。(日本の自賠責や任意保険)と意味は同じである。
カードで解決するとかの事では無い。
最近の頭のいいネパール人はこれを逆手とる事への警鐘を後で知った。
2000Rs/週でOKなのだから保険をかけて出発した方がいいに決まっている。
今回の収穫はトレッキングパーミション0001と0002の入域許可証でしたが、民家でのドルポの人との触れ合いの旅と冬場の牧畜民の暮らしぶりを見れた事です。
各村々の生活と戸数と村民数のチェックも収穫でした。泊まったところの家族構成も聞き取り出来、毎晩ロキシーが飲めた事でしょう。
罠漁のマチャ(魚)とり、釣り針のない釣魚法?の仕掛けもチェック出来、鳥葬で有名なティル(ハゲタカみたいな鳥)の食餌風景の撮影、猿の死肉に群がる光景、
ポクスンドコーラのマチャ、ヤクのドライミートの製法チェック
野生ハヌマン?バンダール?の撮影、
スノーレパードの足跡が行く手を際切り、獲物の山羊の頭が転がっている道を進みます。
ローサルというチベット、ドルポ、シェルパ族などの正月に立ち会うことが出来た事、この時期だけの冬村の生活と生活の知恵、生きる厳しさ、デインという陪食の風習。皆家族みたいな生き方。
ポクスンドの19歳の娘パンマが1週間かけてヤクを連れてクーラパスを越えてチベット国境に交易に出かけるし
たたかさや、一発降られたら帰れない怖さのある旅でしたが膝までのラッセルで諦めがつき無事帰還?
ドルパが汚いとか遅れてるとか言うの容易いが文化の違いである。
日本だって明治の中期まで地方では同じくだったのではないか
鼻垂れ小僧と鼻垂れ娘がいてみな貧しかった。でも笑顔が有ればいいではないかーーーーーー。
ドルポの話に戻ろう2/28
ドルポの入口はジェファールです、300戸1600人が住む村である。
飛行場は未舗装の平地でこの下に階段状に村が広がっている。空港には日本の中古ブルトーザーが働いていた。空港到着後、最初の宿は空港
直近でガンガという娘の居るスーパーでホテル併設されている。
ここで働くトゥラー35歳とミーナ33歳の間にはコムセール9歳の男の子あり、賄いをしてくれている。
ここのオーナーは別である。
ドルポの入り口はまだヒンズー教色の濃い村である。ここで旅じたく、ケロシンストーブ等の装備、食料購入後、急遽変更し、全装備と食料をキャンセルし、身体一つで旅をすることに致しました。カトマンズではわからない旅程に宿ありの情報による変更だった。ガンガには気の毒な事をした。
宿の下に大きな中学校がある。近郷から通って来ているようだ。
途中の旅は、イザベラバードの心で、野帳持って彼らと同じ食事で行動することと致し不要な装備を排除した。
この村ジュファールは2475mでとdunai間は車道はあるがヘリコプターで運ばれたプライベート車が2台あるのみで、緊急時等に郡都と結ばれている。
カッチャルによる交易の拠点でもある。空輸された南(タライの穀物などインド平原より)の品が集結される。
カッチャルとはラバの事で、1代でファミリーは作れない。荷役専用のハイブリットで馬(ゴラ)とは区別している
意図的に生産された動物であり、旅人にはわからない利点を持った動物のようだ。
ここで ナリンドラ B.C 22歳をポーターとして雇用する。食事付きで800Rs 3人兄弟の末っ子(カンチャ)で
酒のうえでの喧嘩で負傷。耳が痛いと言っていた。この喧嘩で6か月間服役してきたらしい。
眼下に半摺鉢状のMotipur 村の段々畑が整備されており上部に森林帯を持った斜面があり函養域になっている。リンゴ栽培もしており、水利のいい土地のようだ。
2時間下るとスリガットガードで
スリガットは2080mのポクスンドコーラとthuli bheri nadiの合流点でジュムラ方面への交差点でもある。
軍のチェックポストがありカッチャルの商隊が行きかう街道でもある。
また軍の駐屯地があり。ナショナルパークの事務所がある。外人は入園料3000Rsで6000とnepal人50を払う。
河川敷になっていて上流のdunaiから汚水やゴミが流れ嫌らしい。
アカショウビンを目撃。撮影には至らなかった。布の魚籠一杯の魚を持った網の手入れをしながら売りに行く男と遭遇し、漁具の仕掛けを見せてもらう。魚のワナ漁で夜のみの漁との事。周辺で釣り人も確認。
その味は如何に?ということでマシャ(魚)の素揚げを頂くシンプルに、ヌンをかけて頂く
美味。
製材現場はネパールではポピラーで背丈ほどのノコギリを上下2人で操る。流域数カ所目撃。
2/28の泊まり場はカン二ング村2250mでラズホテルの庭先を借りてのテント泊。
主人ラナモール カルキ チェトリー38歳、妻コウシラ ライ40歳ルクラ出身。
カトマンズのカーペット工場で知り合ったとの事、子供はカトマンズにいる。
この村はカガニと呼んでいた、上部に大きなガオンあり。
後に入居した沢沿いの住民は9戸30人居住で、夏はホテルで現金収入源となっていた。
ダルバートに欠かせない葉物野菜が植えてあって柑橘も大きく育っていた。すぐ下に小学校があり青空教室で8人位机に座っていた。
行儀がいいので感心。おなご先生の手には棒があった。
酔って鶏を抱えて帰って来た主人、冗談で空手の先生と言ったら、会うたびにグルと言っていた。
不要装備デポ。ーーーーー。
帰路居候のジリから来た、オカマ声のサントス タマンと火の付いた薪で喧嘩になった。
ロキシーが不味くなるのでその場を去った。夕食時 タマンはいなかった。美味しいチキンカリーがあった。
翌朝子供がストーブの前にいた。陪食。当たり前の光景に写った。
3/1ポクスンド谷を遡上すると最大の冬村はジェーロス村がある30戸300人が暮らす村。
水車の粉挽き場water millもあり、プンモやリンモ、それにポクスンド村からの避寒の村である。
家屋は半地下の母屋と獣舎が併設で敷き藁は、堆肥として利用のリサイクルシステムで合理的である。
トイレはもっぱら自然への還元タイプ(何処でもいいと云う事)滞在しないので多くは語れない。
山の裾野に湧き水があり、沢水と利用の村であった。魚もいるとの事でした。
看板を掲げた宿泊施設は見当たらなかった。4月に帰るべき緑野が待っている。
さらに遡上するとサンタ村があるここは、3人の妻を持つ果報者?アキコーラの色男?
ポカバードル サハールの1軒屋でバッテイを営んでいる、 アキコーラの合流点である。
息子4人と娘4人と暮らしている。これも許される世界である。
チベット文化圏では結婚形態も経済状況次第のようだ。不毛過酷な地で、生きれる事が最優先される世界で、口減らしのラマ僧、女中奉公はこの地で生きる知恵とも思える。
食事時に家の門口に立った者に等しく食事を与える習慣は明日は我が身とか、情けは人のためならず。
現世の功徳により来世の幸せを疑わない民ーーーーーー。
西蔵人に備わった仏教精神と見た。
今日はチェプカ村で荷を解く予定である。
チェプカ村 2678m
9戸村民50人のチべッタンの村である。ロッジは2軒ありヤクホテルに世話になる。
3/1〜2チェプカ村にて雪が降り2日の滞在である。お世話になった家族は チべッタン家族で到着時、酔っていた。コワモテのサムライはダウプンジュー ラマ。息子ギャルゼンは向かいのロッジ経営で嫁と独立している。
二男ツェタイン ラマはカトマンズのお寺で修業中で長髪のまま、正月で帰省してきた。
三男ツェリンは馬でデユナイに買い物に行き帰路、友人(サティ)と帰宅この世界では特別な付き合いのようだ。
四男はカンツァで15歳ツアマン ラマであどけさが残る。第2夫人との間に働き者の娘がおり15歳と同じ歳である。
そのほかポクスンドのシェバン バイジーの娘、サンモー、インルウンも降りてきて同居。
居候娘 スンゾー、ほか4家族くらい住みついているようだ。
チベット難民がこの地で牛馬を飼いジャガイモを育て、冬の干し草作り、副業でホテル、2人の嫁とネパールに同化。人生ドラマを演じた顔である。4人の息子も帰り、親父としてはこれ程嬉しい事はないはずだ。
我が身に例えてしまう 旅の空であった。
ここの切り盛りは全てニマ母さんの仕事。第1夫人
天井はツアンパで飾られていた。これは主の仕事のようだ。伊達に生きてはいない。やる時はやる男のようだ。
ローサルはチベット文化圏の正月が1週間続く。
今年は午年=ゴラyearは日本も同じであった。主は、訪問時、サムライ顔で酔いつぶれていたが
1夜明けると家中飾り付けられしっかり正月気分だ。家族全員集い、サッパイサンガエラムロッツアの挨拶と仏様に300Rsと手持ちの飴をを供える。
出発の日、カタとチャン(ドブロク)を頂いての出発である。タルチョー、ルンタも正月に新調。
この村は通年を通しての生活者と冬をやり過ごすために間借り的に居住している者との村であった。皆仲良く住み分けているようだ
ヤクの干し肉は天井裏でいぶされる。ポクスンドから来た娘は、この村で何を思っているのだろう春を待っているのだろうか?
子供がやっと入れる穴、地下には大根やジャガイモ、春収穫期まで食いつなぐ貴重な食料である。
我々飛び入りが入ったおかげで食料不足にならなければと思うがここからDUNAIの町までは馬で半日だろうそれほど心配する事もない距離である。
旅の途中で
ロシアの青年(和光市在住)が現地で唯一のトレッカーでした。
独立行政法人理化学研究所勤務で7月日本女性と結婚との事でした。
アントン君31歳こんな所に目を付けて来るとは?なかなか根性がある男である。
2014.3.2AM7:00
冬村最奥のポロン村を目指す、長丁場を覚悟でチべッタンブレッドのランチボックス持参である。
Rechi 3011m、 Sanduwa 3058m 、Chunuvar3130mは無人の村である。
夏は賑わうだろうーーーーーゴンパ、ロッジ、学校などこの地では珍しいネパールの近代建築である。
1時間歩くと雪が出てきた。2羽のティルが南の空に飛んでいった。雪豹の足跡が続いている。子供連れらしい。
山羊の頭部が落ちていた。スノーレパードの餌食となったのだろう。PM1:45 Polam
到着。
15戸60人が暮らす村で陽光の入り易い南面向きの傾斜地で地の利がいいので冬村となったらしい。
灌木ブッシュがおおい。アマが村の下におり、家畜を追っていた。結局この家に逗留を決める。
半地下状態の家屋に囲まれた防風地点にテント設営。夕刻雪が舞、吹雪となった、最悪長期滞在覚悟した。
テント泊は雪で潰される可能性あり、母屋に避難する。囲炉裏を囲み、横座を勧められるまま、神棚を背負う形で居場所確保。
90歳の母健在ガーソンム
息子はチョホ タルボ60歳その妻アンモ55歳。上の2人の娘は嫁に行き、19歳のパンマと17歳のヤンゾンと
1人息子チェバン ナムギャル ブッタ12歳がこの家の構成である。
3/3 ポクスンドに肉薄すべき時至る。昨日の雪が嘘のよう、春の淡雪のように消え、陽光降り注ぐ中、出発する。
湖より大滝がコーラに流れ落ちる様を左に見、高度を上げる。カンジラルワの一端が見える、ポクスンドの湖も真近に見えてきた。
この頃になると雪も膝まで潜るようになってきた。これ以上突っ込んでも、メリットは無いと判断し退却を決断する。
カンジロバ山群の偵察は次回とし、このトレックに幕を引くことに決め、村に戻る。冬村ではローサルの行事が行われていた。
子供達が15名位でピクニックと称して飯盒水サンのような野外食事会
大人は遠巻に見るだけ、ダルバート、チャイはチベッタン茶、チャンもある。大人の真似事だ。年長組が年少組をもてなす。
微笑ましい行事は国境を越えて存在している。夜になったら村の中より歌が夜中中聞こえてくる。
15年前チベットのロンブク僧院に泊まった時もこんな感じだった。男女の歌の交換が唯一の正月楽しみなのだろうーーーーーー。
寝袋の中、果てることなく続いていたーーーーそのうちこの高度の影響もあり、思考が止まって朝をむかえた。
冬村ポロンでの2泊3日の滞在で多くは語れない、正月でもあり非日常だと思う、主人は朝から酔っ払っていて、
木の木陰でごろりこちらに来てはゴロリの野犬のような生活であった。囲炉裏の周りで丹前みたいな着衣、そのしたは素っ裸であった。
息子と一緒に寝ていたが、朝小便に起き、また寝た、妻より出されたディユーロ(蕎麦がき)を寝ながら四つん這いで手で食べる様をみた。唖然とした。マナーとか人間としての文化とかないのか?
雪も止みテントに戻った翌日は、妻と息子と3人同衾であった。冬が終わり、夏の村に帰ったら後は、
猛烈に働き1家を支えて来たはずで、
家族7人を養ってきたのだろう。娘たちもよく働き、息子も素直に育っており、近所の子共にも食事を振舞う大らかさあるのだからーーー。冬村の旅も終わりになり、帰って行く我々、残る彼ら、ダルバートに芋とか葉物野菜が入っていない食事、冬村の限界なのだろう。
最奥の村は厳しい、下の村に降りて行くのが正解?
ここが良くてとどまっている15戸60人の明るい顔が全てを語っているような気がする旅だった。
夏には5軒のホテルロッジが有り35戸のポクスンド村は観光地となっているのだろう。
そして娘19のパンマはヤクの背に交易の品を乗せ、国境を越えてチベットに行くのだろう1週間かけてーーーーーー。
ピクニック行事、娯楽の無い世界、日本も100年前はこんな感じだったかもしれない。大人が手を出さないのがいい。
ソーラーが家々にあったえ中国よりもたらされた物で1灯は灯っていた。
戸口にヤクが顔を出して俺を忘れるなと言った。クロマメが干してあった。雪景色。記念写真親父がいない。
帰るときカタをかけて無事を祈ってくれた。感謝!
3/6カルナリ州ドルポ郡、郡都Dyunaiという町に降りてきました 。今回のトレッキングはポクスンドコーラを遡り、カンジラルワの見える所で終了と致しました。
やはり雪に阻まれて、仰ぎ見るのみの山行でした。この地域は冬村に避難しており村々は無人が多く、
空いている所をサーダーとポーター1人連れての4人でのキャラバンでした。鳥葬、河口慧海のチベットへの入り口を旅して来ました。鍋釜持たずの天幕1張りの旅は、高級ホテルのネパールガンジ、を除いては、ジェファール空港、カンニング村、チェプカ村2泊、ポロン村2泊でした。ダルバートオンリーの世界でした。
帰路はそれぞれの村に一泊毎して郡都のドナイに泊まり、モモとコーラのラム酒割りで乾杯でした。
この後ジュファールに1泊でネパールガンジに戻り、バスで帰途にチトワンの世界文化遺産であたたまって2週間のトレックを終えました。
2014.3.11第2ステージを模索しよう。
酒場放浪記 カトマンズにて
夕刻、飯を食いに外に出る。近くのシェルパレストランの暖簾をくぐる。取り敢えず隣のおっちゃんと同じチャン2杯を頼む、美味でいい。後で聞くとここのアマの正月用のチャンだった。
野菜テントクとミックステントク&モモを注文。
のみながら話している隣の男はヒマラヤ観光開発のネパールサイドの関係者でアンギャルツェンシェルパ
ここのオーナーだった。1時間話し込み、気持ち良く美味しく頂きいくらと聞くと490Rsとの事、妻と大満足のカナだった。ミートツア? 一週間後また訪問すると あのおいしいチャンはなかった。
ローサルチャンは特別なのかもしれない。
2014.3.12パサンカミ シェルパ 昼食招待
ドルポの旅を終える日に是非、家にと話しがあった。彼の家は飛行場の北にあった。
私達のために用意されたマチャカレーとチキンカリー、マンゴーアチャール、等が用意されていた。
川旅でマチャ居るか?の質問と旅先のマチャ漁に興味を示したのでよっぽど魚好きと思ったらしい。
それにローサルチャンだったこれは、夫人が正月の為に用意したどぶろくであるが白濁していなかった
特別に上澄みか?処理された清酒似の液体だった。美味。
旅の途中チャンを飲む機会があった時、これはチャンのベィビーと言っていた意味がやっと判った。
杜氏はだしの味だった。成熟した味でチャン特有の酸味も感じられなかった。この技は脱帽ものであった。
この杜氏は奥方で、15歳年上の姉さん女房。
そして81年カンチと2000年チョモで一緒のナワンヨンデン シェルパの伯母さんだったのにびっくり。
クンブの里にもう1人妻と子供が居るとの事。シェルパ社会も元はチベットなのだから驚く必要はない。
山紫水明=ハワパニラムロの世界へ。
2014.3.13今日から第2段トレッキング。迷ったあげくに ゴザインクンドに決定。
ドンチェの街は14年前通過した場所ですが今回、ファース.ト コンタクトです。
バスで650Rs、ゴザインクンド辺りを一回りで雪があったら敗退。身体一つの旅です。
いずれにしても3/20がタイムリミットです。
pm4:00バスにてドンチェに降りました。ホテル投宿。いい部屋500Rs 目の前にランタンリルンが見えます。
シャワーを浴び、水が止まらず、ノブを閉めるとハンドルがポロリ、金属疲労で不運にもババを引いてしまった。
やはり請求が来た。5000Rs
2014.3.20本日帰国 13:20カトマンズを離れます。1月の旅でした。何処で生活しても一緒?の日常の旅だった。
ドルポ、テライ、チトワン、サファリ、ゴザインクンド巡礼、
サーダーの家招待、ホテルオーナージョシさんとの食事会、ブタハニカンタの尼寺参拝ハイキング、
残念にも華の戸張氏には会えなかった。カカニへのバス旅、初対面のパサンカミシェルパとの2週間、お互い英語苦手の二人、
今は少ない目配り、気配り、心配りの古いタイプのシェルパの伝統を背負った男だった。感謝!!
昨日挨拶にシーガルトラベルに立ち寄った、イモトアヤコのプロジェクトの為に若いスタッフが作業していた。
楽しみに見させて頂こう。