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ワン・だ・ホー・ドッグ
作:高居空
「わん♪」
部屋に子犬の鳴き声が響く。
おいおい、このアパートはペット禁止なんだから静かにしてくれよ。
言っても無駄だろうと思いつつも、俺はそう口にしながら、ずぶ濡れになった犬の体をタオルで拭いていく。
俺がこの犬と出会ったのは、ついさっきのことだった。
残業を終わらせ、雨の中傘を片手に誰が待っているでもない単身者用アパートへと帰るさなか、植え込みに隠れるようにしてうずくまっているこいつを見つけたのだ。
今夜の雨は冷たく、このままにしておけば命に関わるかも知れない。
そう感じた俺は、仕方なく子犬を抱きかかえ、部屋へと連れ込んだのだ。
お陰で背広は大いに汚れて、クリーニングにださなきゃ着られない有様だ。
だがまあ、“あの子”に似たこいつを助けられたと思えば、悪くはないか。
ワイシャツ姿で犬の体を拭きつつ、俺は今はまっている“あの子”のことを思い浮かべる。
そう、俺がこいつを助けたのには、もう一つ理由があった。
こいつの容姿が、今俺の密かな癒しとなっている日曜朝に放送中のアニメに出てくる子犬にそっくりだったのだ。
犬種はたしかパピヨンといったか。実際のところ、アニメに出ているその子犬は、本当に純粋な犬なのか怪しい部分はあるのだが、ともかく、毛色や体型、鳴き声までこいつはその子によく似ていた。
まあ、似ているとはいっても、さすがにあの子と同じようなことはできないだろうけどな。
そう苦笑しつつ目の前の子犬の頭をくしゅくしゅする俺。
アニメのその子はいくつかの特殊能力を持っていて、人間の言葉を話せるほか、アイテムを使って人間の姿に変身することもできる。そしてそこから、さらに上の段階へと二段変身できるのだ。
さすがに現実の犬にそんなことを求めるほど、俺は現実と虚構の区別がつかなくなっているわけではない。逆に「助けてくれたお礼がしたいワン!」とか突然しゃべりはじめられたら、現実を受け止められる自信はない。
「なるほど、お礼をしてほしいのかワン?」
!
突如耳に飛び込んでくる女の子の声。
もちろん、俺はこの部屋に女の子など囲ってはいない。テレビもつけちゃいないし、スマホは今絶賛充電中で、画面も暗いままだ。
とするともしかして……
そんなバカなと思いつつ子犬の顔を覗き込むと、子犬はアニメ風にデフォルメチックされた笑顔を見せた。
「なら、とっておきのお礼をさせてもらうワン!」
そう言うと、むぅと力を全身に込める素振りを見せる子犬。
「それじゃあいくよー! せえの、イア! ブ・ラバパ!」
って、それはシリーズは同じでも違うタイトル出典だし、そもそも呪文がちょこっと違う!
そう反射的にツッコミを入れようとした俺だったが、突如全身に感じた違和感にうずくまってしまう。
「うっ……」
ぞくりとする何かが体を駆け抜けたかと思うと、突然、ワイシャツの胸の部分がぐぐっと盛り上がりはじめる。
濡れても平気なようにと腕まくりをしていたシャツから伸びる手がすすっと細く、白くなっていく。
同じように細くなった指先がマニキュアで彩られる。
そして次の瞬間、前触れもなく履いていたスラックスがぽんっと消え失せた。
「ああっ!?」
思わず口から漏れたのは、女のような高い声だった。
消えたスラックスの下から露わになったのは、むだ毛一つ無い、白くむっちりとした素足だった。その上の大事な部分は、体全体が小さくなったのか、ワイシャツに隠れ見えなくなっている。
そして、ワイシャツの下に着ていたはずの肌着の感覚は、今はどこにも感じられなかった。
こ、これって……。
つい先程まで男だった自分は、男物のワイシャツ一枚を羽織った女になっていた。
「準備完了だワン! さあ、これでたっぷりお礼ができるワン!」
「お、お礼って……?」
目玉ががぐるぐる状態になりながらも何とか尋ねる俺に、笑顔で答える子犬。
「任せるワン! 特級の国家資格を持つプロのバター犬の技、見せてあげるワン!」
ば、バター犬!? しかも国家資格ってなんだ!?
さらに目玉のぐるぐる具合が加速する俺だったが、貞操の危機に、ともかく何とかこいつが思いとどまるよう言葉を並べる。
「い、いや、でも俺は米派だし、そもそも基本外食かコンビニ弁当中心だから、バターなんて冷蔵庫にも買い置きないぞ!」
「ふっふっふー、甘く見ちゃだめだワン! 特級ともなれば、実物が無くてもイマジナリーバターでプレイが可能だワン!」
「え、えっ、ええー!」
そうして俺は、これまでの人生で経験したことのないワンダホーを体験させられたのだった。
今はペット可のアパートに引っ越した俺。仕事を終え家路を急ぐ俺が手に持つエコバッグには、店で買い足したドッグフードの他に新品のバターが入っている。もちろん、今夜も部屋に帰れば……♪
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