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海辺の即売会
作:高居空
容赦なく降り注ぐ夏の日差しが半ば密閉された会場内を灼熱の地獄へと変え、全国から集まった男達の熱気がさらにその温度を上昇させる。
「うう……もう保たない……」
完全に蒸し風呂状態となった会場の一角で、僕は椅子にもたれ掛かって大きく天を仰いだ。
とある海に隣接したこの展示場では今、世界でも最大規模と言われる同人誌即売会が開催されている。夏と冬の年2回開催されるこの即売会には開催期間の3日間でのべ数十万人もの人が訪れるとも言われ、特に最終日には男性向け同人誌のジャンルが割り当てられていることもあって、会場の通路を埋め尽くさんばかりの男性客が集まることで知られている。そして今日はその最終日。会場内は汗だくの男性で溢れかえり、本来なら十分な能力を持っているはずの空調設備も設計時想定されたキャパシティを大きく超える人の密集ぶりにその力をほとんど発揮できないでいる。僕がいるのは販売ブースの内側、つまりは売り手側で通路の混雑とは無縁ではあるものの、それでも体のいたる所から汗が噴き出し、服はべっとりと肌に張りついてしまっている。
「ああ、こんなことならもっと暑さ対策をしとくんだった……」
半ば朦朧する意識の中、外へと通じるシャッターの方角を見やる僕。主催者からの事前通知でシャッターの近くにスペースが配置された事を知ったときは“海からの風が入ってきて結構涼しいのでは”と思ったけれど、それが誤りであったことは会場入りしてすぐに思い知らされた。とにかく一向に涼しい風なんて入ってこない。それどころか逆に太陽によって熱せられた地面の熱がもわもわと会場内に流れ込んでいるのではと思うほど、異様な熱気が僕のスペース周辺には充満していた。一度でも夏の即売会に参加したことのあるサークルだったらそのくらい常識なのかも知れないけれど、文字通り初参加である僕にそのようなことが予測できる訳がない。さらに換気されることのない会場内の空気の中で着実に濃度を増していく汗の臭いと目的の場所に向かおうと目の前の通路で押し合いへし合いする男性客の姿に……まあ、そのうちの何人かは僕の書いた本を買いに来てくれた人だったんだけど……僕は体力だけでなく気力までも限界までゴリゴリと削られてしまったのだった。
「はあ……なんか、目が回る……」
グニャグニャと目に映る景色が歪みはじめたのを感じながら、僕は足下に置いた何本目かのペットボトルへと手を伸ばす。開場前に事前に自動販売機で大量に購入しておいたペットボトル。これだけが今の倒れそうな僕を支える唯一の命綱だった。もっともその効果も今ではほとんどなくなってきているような気がするけど……。
もはや視線を動かす気力もないまま、僕は前の通路を行き来する男性客の姿をぼんやりと眺めながらペットボトルのふたを回す。次の瞬間、ポンという小さい音とともにどこからか鈴の音を思わせるような女の子の声が聞こえてきた。
“ぷは〜っ、助かりました〜。わたしは古より存在しているランプの精に連なる者です〜。手違いでランプではなくペットボトルに封じられてしまったわたしの事を解放していただき本当にありがとうなのです〜。お礼に古からの習わしに則って何でも好きな願いを3つだけかなえてあげますです〜”
…………まずいなあ、ついに幻聴まで聞こえてくるようになっちゃったか…………。
もやがかかったような頭でぼんやりとそんなことを考えながら、ぐるぐると回り始めた景色を遮断するように目を閉じた僕はペットボトルを口へと運ぶ。そのまま一気に中の飲料を飲み干すが、体のだるさと曖昧模糊とした頭は一向に回復の気配を見せない。
ダメだ……これじゃいくら水分を取っても意味がないよ……せめて、せめて海からの風でこの熱気と臭気をどうにかすることができたなら……
“分かりました〜。それではとびっきりの海風を楽しめる環境をご提供するです〜”
そう声が聞こえたような気がした瞬間、僕は体を吹き抜けていく涼やかな風を感じていた。
…………?
何が起こったのかと目を開くと、そこにはこれまでの地獄のような環境が嘘であるかのような信じられない光景が広がっていた。
どこまでも続く青い海、そして波打ち際から広がる白い砂浜。何故か僕はそのリゾート地のビーチを思わせる砂浜の上にいた。目の前には同人誌の置かれた長机。信じられないがどうやらここは同人誌即売会の会場であるらしかった。椅子も見覚えのあるパイプ椅子だったが、見るとそれぞれのスペースには一本ずつカラフルなビーチパラソルが立てられ、眩い日差しを遮るとともに吹き抜ける海風をより涼やかにしている。ついさっきまで漂っていた臭気も清らかな風の流れにより完全に消え失せていた。机の同人誌と汗を滝のように流しながらひしめきあう男性客の姿さえなければ、誰もここが同人誌の即売会場だとは思わないだろう。
あらら……ついに幻覚まで見えるようになっちゃったか……。でもなんか、風の流れはやけにリアルに感じるけど……。
相変わらずはっきりとしない頭で目の前の現実離れした光景を眺める僕。ただ、幻とはいえ涼しげな風景を目にしたことで体は幾分か楽になってきたような気がする。まあ、実際には僕が幽体離脱しかかってて体の感覚が薄れてきてるだけって可能性もあるけれど。
しかしなんか、これだけだとまだまだ暑さを感じるなあ……。大体、ビーチなんだからそれなりの格好をさせてもらえれば良いのに……。
“了解しました〜。それでは服をチェンジさせていただくです〜”
そんな声がどこからか響いた次の瞬間、ビーチを行き来する人々の服がいきなりその姿を変える。同人誌を売る売り子、通路でごった返す男性客、それらの身につけた衣服が全て水着へと変化したのだ。ふと自分の体を見下ろすと、僕もいつのまにか海パン姿になっていた。さすがは幻、何でもありだ。でも……
これって、余計暑苦しくなったような?
思わず眉根を寄せる僕の目の前では、水着姿となった半裸の男達が全身から汗を吹き出しながら押しくら饅頭を繰り返していた。肌と肌とをぶつけ合い、汗の滴を飛ばしながら自分の行きたい方向へと強引に進もうとする男達。これが鍛えられた肉体同士のぶつかり合いならまだ見られたものなのだろうが、残念ながら彼らの体はそれとは正反対のものが大半を占めている。これではただ暑苦しいだけでその姿を見せられている方はたまったものではない。即売会場で押し合いへし合いをするのはある意味仕方のないことなのかもしれないけど、もっとこう、見ていて気分が良くなったり元気が出てくるようなものにはならないのかな……。
“承知しました〜。それでは最後のお願い、かなえて差し上げます〜”
僕の心のつぶやきに誰かがそう答えたような気がしたとき、再び目の前の風景ががらりと変わる。
目の前のビーチから男性の姿が一瞬にして残らずかき消える。その代わりに男性が存在していた場所には18歳くらいの色とりどりのビキニを身につけた美しい女の子達が立っていた。こぼれ落ちそうなたわわな胸を色っぽい水着で包み込んだナイスバディの女の子達は、通路で珠のような汗を浮かべながら体を押し付け合って何とか望む方向へと移動しようとしている。体と体がもみ合うたびに押しつけられた胸が形を変え、弾力のある肌から汗が飛び散る。その混雑ぶりはヒステリーを起こすような子が出てもおかしくないようなものだったが、彼女達はこれから買おうとしている同人誌の内容を想像し妄想に耽っているのか、体がぶつかるたびに怒号や叫び声の代わりに色っぽい声と甘い吐息を漏らす。
その扇情的な光景を、僕はいつの間にか机から半ば体を乗り出すようにして見つめていた。
うん、これは良い。これなら見ていて楽しいし、何だか体中から元気が沸いてくる。あれ? そういえば僕、さっきまで体調が凄く悪かったような…………って気のせいかな。何かこう、今はまるごと体をリフレッシュしたみたいな感じですごく調子が良いし。さてと、あんまり眺めてばっかりいないでそろそろ僕も頑張ろうかな。
そうして僕は椅子から立ち上がると、女の子達に見とれているうちにいつの間にかずり落ちそうになっていたビキニの肩紐を直しながら彼女達に微笑みかけた。
「は〜い、こちらも新刊ありま〜す!」
……あれ? でもなんでこの娘達、こんなに必死になって女性向けでなく男性向けの同人誌を買い漁ってるんだろ?
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