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専用車両
作:高居空




「はあ…………」
  会社の1階に置かれた自販機の前で、俺はコーヒーが紙コップに注がれていくのを眺めながら小さくため息をついていた。
  社会人になってまだ3ヶ月強しか経っていないのに、サラリーマンなんて誰でもなれるし楽勝じゃんと鼻で笑っていた学生時代が遠い昔の事のように感じられる。それだけ今の社会人生活は俺にとってはハードだった。いや、正確には仕事がきつい訳ではない。やりがいはあるし、エンジンさえかかってしまえば余計な事など忘れて集中できる。ただ、問題なのは……
「あらあら、どうしたんですか田波君? まだ始業前なのにそんな疲れた顔をして」
「え!? あ……なんだ、世島局長か……」
  突然背中から掛けられた声に驚き振り向くと、そこにはショートカットの若い女性社員が微笑みながら立っていた。柔らかなブラウスにタイトスカートを身につけたその姿は、俺と同じ採用されたばかりのフレッシュマンを思わせる。この女が会社の中核を担う技術開発局の局長だとは誰も想像できないだろう。俺も最初に肩書きを聞かされた時は何の冗談かと思ったものだ。いや、今でも正直目の前の女がそんなお偉い方だとは到底考えられない。何でも開発局の中ではえらく尊敬されかつ畏れられているらしいのだが、違う部署の俺にとって彼女は“イイ女”以外の何者でもなかった。
「いや、何だか最近体力が落ちてるみたいで」
  俺は自販機からコーヒーの入った紙コップを取り出しながら肩をすくめる。本来なら目上の者にする態度ではないが、そういったところは世島局長は大分ルーズらしかった。それどころかむしろ、俺とのやりとりを楽しんでいるようにも見える。これは俺にとっても都合が良い。俺に興味を持ってるということは口説き落とすチャンスがあるってことだからな。
「ふふっ、まだ若いのにそんなオジサンくさい事言っちゃ駄目ですよ」
  笑みを浮かべる彼女に、俺は苦笑混じりで答える。
「いや、別に仕事が大変という訳じゃないけど、どうしてもあの通勤ラッシュというのがキツくてですね……」
  そう、社会人になった俺の最大の敵、それは毎朝訪れる地獄の通勤ラッシュだった。小学から高校まで地元の学校に通い、大学時代は単車を乗り回していた俺にとって、通勤ラッシュというのはこれまでの人生で初めて味わう苦行だった。どんなに前日早めに横になって体力を回復したとしても、こいつのせいで会社に着く頃にはヘロヘロになってしまう。これでは仕事に対するエンジンが回り始めるのも遅くなるってもんだ。
「今日なんかも列車の中は寿司詰め状態。身動きすらできない有様で。そのくせ隣の女性専用車両なんかは空いてたりするモンだから余計イライラするっていうか」
「なるほど。なら……これを試してみませんか?」
  そう言って彼女が取り出したのは名刺大の大きさをした一枚のシールだった。透明なシールの表面には黒字で大きく

『     専用車両』

と書かれている。
「…………なんすか、これ?」
  訳の分からないブツを手渡され困惑する俺に、世島局長はいつになく真剣な顔付きになると人差し指を立てて話し始める。
「そのシールは私の部署で作ったちょっとした試作品です。こちら側の空間に対し平行世界の法則を干渉させる事により、空間内の世界の理を自在に歪ませる術式……まあ、現状では極めて狭い空間にしか作用しませんし、歪ませられる内容も限定的、また世界を歪ませた結果起こる矛盾の解消方法など問題点は山積みなんですけど」
「……いや、何が何だかさっぱり分からないンですが?」
  思わず漏れた俺の呟きに彼女はクスッと笑うと、いつもの柔らかな表情に戻る。
「そうですね。理論よりも実際どう使うかですよね。
  まず、このシールを電車に乗り込むときに列車の窓に貼り付けてもらいます。あとは頭の中で“専用車両”の前にくる文字を思い浮かべるだけで、ここの空欄部分にその文字が書き込まれます。そうすると……」
  もう一度人差し指を立てて、ニコリと笑う世島局長。
「その車両はそこに書かれたとおりの専用車両になります」
「……いや、やっぱり訳わかんないンすけど……」
「あ、そうそう、このシールには文字を追加することはできますけど、書かれた文字を取り消す事はできませんから注意して下さいね。それじゃ」
「あっ、ちょっと……」
  言いたい事だけ言って去っていく彼女を呼び止めようとした俺の耳に始業のチャイムが飛び込んでくる。うっ、もうそんな時間か。さすがにぺーぺーの俺が遅刻するわけにはいかない。俺は手渡されたシールをズボンのポケットに突っ込むと、急いで階段を駆け上がった。






  “クソッ、何だってんだ今日は…………”
  翌朝。俺はいつものように満員の電車の中に寿司詰めにされていた。いや、正確にはいつものようにではない。なぜなら今の俺は前後左右を100キロ以上あるだろう脂ぎったメタボ親父どもに取り囲まれていたからだ。車両が揺れるたびに奴らのシャツに吸収されきれなかった汗が俺に塗りつけられる。まったく冗談じゃない。
  俺は肉の壁に押しつぶされながら内心で愚痴り続ける。俺が列車に乗り込んだとき、既に車両の中はケータイすら使えるスペースがないほどの混雑ぶりだった。それなのに列車が駅に到着するたび人が無理矢理押し込まれてくる。しかも周りのメタボ親父のせいで不快感も倍増だ。こんなに混雑した車内はこれまで体験した事がない。まさかあのシールが人を呼び寄せてるんじゃないだろうな……。
  俺は頭と頭の間からかろうじて見える窓に貼られたシールを睨みつける。昨日世島局長から渡されたシールを、俺は電車に乗り込む際に窓へと貼り付けていた。正直、あの女が言うような効果など俺はまるっきり信じていなかったが、次に彼女にあったらシールの効能がどうであったか聞かれるに決まっている。その時に試してませんでしたではさすがに具合が悪い。そんなわけであそこに貼り付けてきたんだが、何だが悪影響が出てるような気がするぞ、これは。
  窓に貼られたシールには、渡された時と同じく『     専用車両』の文字が浮かんでいる。そういえば、今日も隣の女性専用車両はやけに空いていたよな。まったくうらやましい限りだ。どうせならこの車両も女専用になってスカスカになればいいのに。
  そう思った瞬間だった。眺めていたシールが白く輝き始める。
  なんだ……!? 思わず目を細める中、シールの『専用車両』の文言の前に、ゆっくりと文字が浮き出てくる。


  『女専用車両』


  視界がグラリと揺れる。一瞬の立ちくらみ。思わず前の親父の背脂たっぷりの肉壁に顔を埋めてしまう。親父……? いや、何かが違う。頬にあたるこの感触は…………いくらメタボでも親父が身につけていてはいけないもの…………これってブラジャーの肩紐なんじゃないか!?
  驚いて顔を上げると車内の様子は一変していた。さっきまで男どもで溢れていた車内が、女達がひしめくそれへと変わっていたのだ。美人からブスまで、年齢も様々な女達が、狭い車内の中で嫌な顔をしながら押し合いへし合いを繰り返している。何なんだこれは…………まさか、あの窓の表記が『女専用車両』になったから中の乗客も女に変わったとでも……?
  しかし、乗客達は自分が女に変わったにも関わらず一切取り乱した様子はない。まるで、以前からそうであったかのような…………。まあ、いいか。今はそれよりも重大な問題がある。そう、こうして女専用車両になったのにもかかわらず、車内の混雑は全く変わっていないじゃないか!
  ひょっとして、女専用車両になって変わったのは性別だけで、年齢とか体格とかは変わっていないのか? そういえば周りのオバサン達も以前と同じく百貫デブのスーパーメタボ体型のままだ。これでは全く意味がない上に女に触れているという嬉しさも沸いてこない。さあ、どうしたものか…………そうだ、ここをこうすれば…………!
  再び窓の一角が光を放つ。頭の中で思い浮かべた文字がシールに書き加えられる。


  『美女専用車両』


  文字が浮かび上がるのと同時に、四方を取り囲んでいた肉の壁がすっと取り除かれる。見るとそこには肉感的なボディラインをスーツ越しに浮かび上がらせる美しい熟女の姿があった。車内の女達もさっきまで“イイ女”ランキングで大きくばらつきがあったのが、今では一様に特上の女へと変わっている。混雑具合もほんの少しであるが緩和されたような気がする…………が、何か物足りない。そう、これだけの美女達と体を触れ合わせてるというのに不快感以外何も感じないのだ。まだ彼女達には足らない要素があるのだろうか。
  うむ、やはり原因は彼女達の年齢か? 周りの女達は美女とは言ってもどうみても50過ぎ。あまりに年増なので体が反応しないというのは大いにあり得る。 それなら…………
  再度シールが輝く。先ほどよりも長い文言が文章の頭へと浮かび上がってくる。


  『二十歳の美女専用車両』


  次の瞬間、車内の雰囲気がぱっと華やいだものに変わる。気が付くと周囲には瑞々しい美女達が溢れていた。ブラウスを大きな胸が押し上げ、スリットの入ったスカートが腰の細さと脚線美とを強調する。はち切れんばかりの肉体を持った美女の群れ。だが……それでも何か物足りない。列車が揺れるたび胸や尻が押しつけられているというのに、やはり不快感しか感じない。何故だ…………。
  無意識のうちに腕組みをし視線を落としたとき、その答えは前触れもなくもたらされた。

  ああ、なんだ。そういうことか。考えてみれば簡単な事だ。




  私も女なんだから、同性にくっつかれても嬉しいわけがない。




  どうしてそんなことに気が付かなかったのだろう。目の前にあるこの大きな胸は私が女である事を雄弁に物語っている。いや、そもそもなんで私は自分の事を男だなんて思いこんでいたんだろう。この車両に乗っている私は二十歳のOL以外あり得ないのに。ああ、やだ。やっぱり疲れがたまってるのかな。自分が男だって妄想しちゃうだなんて。
  …………でも、実際男の人がこの車両の中にいたらどんな風に思うんだろう。やっぱり滅茶苦茶興奮するのかな。どさくさに紛れて触りたいとか考えたりするのかな。何だか凄く興味ある…………何でだろ? …………それって、女でも女の子が好きなら同じように感じるモノなのかな。もしそうだとしたら、ちょっと体験してみたいかも。
  そう思った時、私の前方の窓に貼られたシールが突然輝き出すと、あぶり出しのように何かの文字が浮かび上がってきた。


  『女が好きな二十歳の美女専用車両』


  あれ、なんだろ。何だか私凄くドキドキしてきた。あっちにもこっちにも凄く可愛い女の子ばかり。しかも、体まで密着させて。ああ、何だか我慢できなくなっちゃいそう。
  ううん、ここは我慢しなくても良いんだよね。世間様の前では御法度でも、この車両は女の子が好きな娘ばかりなんだもの。スキンシップを楽しまなきゃ乗った意味がないじゃない…………。

  電車が揺れる。
  よろけたふりをして私は前方の女の子の背中に自分の胸を押しつける。
  誰かが私のお尻をなで回す。
  電車が揺れる。
  バランスを崩したふりをして女の子のお尻をなで上げる。
  誰かがよろめきながら私の胸にしがみついてくる。

  密閉された車両の中で、私達は甘い吐息をつきながら至福の時を過ごしていた…………。





「はあ…………」
  会社の1階に置かれた自販機の前で、私はコーヒーが紙コップに注がれていくのを眺めながら甘いため息をついていた。
「あらあら、どうしたんですか田波さん? まだ始業前なのにそんな疲れた顔をして」
「え!? あ……なんだ、世島局長……」
  突然背中から掛けられた声に驚き振り向くと、そこにはショートカットの若い女性社員が微笑みながら立っていた。会社の中核を担う技術開発局の局長、世島さんだ。何でも開発局の中ではえらく尊敬されかつ畏れられているみたいだけど、違う部署かつちょこっとアブノーマルな性癖を持つ私にとっては“イイ女”以外の何者でもない。
「いや、何だか私最近体力が落ちてるみたいで」
  私は自販機からコーヒーの入った紙コップを取り出しながら肩をすくめる。本来なら目上の者にする態度じゃないけど、そこは同じ年頃の女同士、カタい事は抜きということになっている。
「ふふっ、まだ若いのにそんなオバサンくさい事言っちゃ駄目ですよ」
  笑みを浮かべる彼女に、私は苦笑混じりで答える。
「いや、別に仕事が大変という訳じゃないけど、どうしてもあの通勤ラッシュが大変で……」
「ふふっ、でも何だか前より楽しそうですよ」
「そう…………見える?」
「ええ。なんだかいつもよりすっきりしている感じ。その調子で仕事の方も頑張って下さいね」
「は〜い」
  私は紙コップを口に運びながら、先生に答える子供のように片手を上げる。
  よ〜し、今日も一日頑張りますか!


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