混浴露天

混浴露天
作：高居空

　空に舞う粉雪が露天から立ち上る湯気と混じり合い、冬の温泉地ならではの何ともいえない風情を醸し出す。
　うっすらと雪化粧した景色を見渡しながら、俺は山中に作られた野趣溢れる露天風呂で一人疲れを癒していた。
「ふう、やっぱり一仕事した後の湯は最高だな……」
　粉雪の舞う中でも体を芯から温めてくれる源泉掛け流しの名湯に、自然と口から言葉が漏れる。
　俺はこの温泉郷で古くから伝わる源泉の一つを代々大切に守り続けてきた一族の跡取りだった。先代から託されたこの温泉を守るため、今は日夜この地で奮闘している。とはいっても、別に俺は温泉旅館の主人のような大それた身分という訳ではない。温泉街から舗装もされていない山道を十五分以上登った先にある、五人も入れば一杯になってしまう大きさの露天風呂一つだけの公衆浴場、それが俺が先代から受け継いだ仕事場だった。
　人によっては小さな浴場なんだから管理も楽なんだろうと考える者もいるかもしれないが、実際に働いてみれば判るがこれが結構大変だ。温泉しかウリとなるものがない浴場だからこそ、よけいにその管理には細かな部分までのこだわりや心遣いが必要となってくる。常に脱衣所が清潔な状態に保たれるようチェックを行い、露天からの景観を守るために定期的に林の中の清掃も実施する。温泉は加水、加温処理無しの完全なる源泉掛け流し。自慢の湯は乳白色のにごり湯でその白さは湯船の底が見えないほどだが、底の汚れが目に付かないからといって湯船の清掃を怠ったりもしない。今日も俺は雪の降る中、湯船をはじめ建屋全ての清掃を一通り終わらせていた。その上で今は休憩も兼ねてこうして本日の一番風呂を楽しんでいるのだ。
　だが、そんな俺のくつろぎの時間の終了を告げるかのように、建屋の方から木の床がきしむ独特の音が聞こえてくる。
　なんだ、もう営業時間になってたのか。俺は一つ息を吐くと湯に浸かったままゆっくりと音のした脱衣所の方向へと目を向けた。この浴場で働いているのは俺一人のみ。本当なら常に番台に座っているべきなのだろうが、どうしても諸事情で不在の時間というものもできてしまうため、浴場の入口には俺が不在でも客が風呂を楽しむことができるようにと営業時間を知らせる看板と入湯料を入れる木箱が備え付けてある。当然、そこを通って誰もいない番台を目にした客は管理人が不在だと考えているはずだ。ならば、今ここで俺が慌てて外に出て行く必要もない。逆に今出て行けば必然的に全裸のまま客と応対することになってしまう。その方がよっぽど相手に失礼だし不自然だ。ここはゆっくりと温泉に浸かったまま今日最初の客を出迎えてやるとしよう。
　そうして湯を楽しみながら待ちうけること数分、サッシを開ける音とともに本日最初の客がようやく俺の前へと姿を見せる。そこに立っていたのは、おそらく二十歳前後であろう中肉中背の若い男だった。
　手ぬぐいで前を隠しながらどこかこそこそと浴場へと入ってきた男は、出入口から数歩も歩かぬ距離で立ち止まると期待と後ろめたさの入り交じったような目で浴場をぐるりと見渡す。だが、そのすぐ後に男の顔に浮かんだのは、見ているだけでも気の毒に思えてくるほどの落胆の表情だった。
　まあ、その気持ちは分からないでもない。おそらくこの男は温泉ではなく“女”目当てでこの浴場へとやってきたのだろう。実はこの風呂は混浴、しかも開湯当初から代々それを守り通してきた由緒ある温泉なのだ。
　昔から小さいながらも良質の湯を誇る混浴の秘湯として知る人ぞ知る存在であったこの浴場は、近年の温泉ブームの中、とある情報サイトで若い女性の利用率が非常に高い混浴風呂として取り上げられた事をきっかけに、温泉よりも女目当てでやって来る若い男性客によって連日賑わいを見せるようになっていた。
　だが、当然ではあるがいくら混浴といっても温泉に常に女がいるのかと言われれば答えはノーだ。様々な理由で女性の利用率の高いこの浴場だが、それでもいないときはいないのである。そこへやって来てしまった男は不運としか言いようがないであろう。
　若い男はよほどショックが大きかったのかしばらくその場で棒立ちとなっていたが、やがて体を大きくブルリと震わせると、それで我に返ったのか腕を体に巻き付け歯をガタガタさせながらこちらへと小走りで向かってくる。まあ、当然といえば当然だ。この粉雪の舞う寒空の下、湯にも入らずに全裸で突っ立っているなんて正気の沙汰ではない。
　湯船の縁に立つやいなや、掛け湯もせずに風呂へと飛び込んでくる男。
　その瞬間、露天に張られた湯から一斉に湯煙が立ち昇った。
　まるで濃霧に包まれたかのように一瞬にして視界のきかなくなる浴場。その中で俺は向かい側にぼんやりと見える人影に向かって声をかけた。
「どうですか、ここの温泉は？」
　それに対し湯煙の向こうから返ってきたのは、まるで女性のような柔らかな声だった。
「あ～、すごく気持ち良いです～。湯加減もぴったりだし、お湯もとっても柔らかくてお肌がすべすべになりそう～。さすが人気の温泉だけありますね～」
　そう言って大きくはあっと息を吐く声の主。やがて徐々に湯気が薄まってくると、その人影が長い黒髪を結い上げたどこかおっとりとした感じの若い女性であることが明らかになってくる。一方で先ほどこの浴槽に飛び込んだはずの男の姿はどこにも見あたらない。
　目の前で俺の視線などまったく気にすることなくリラックスした表情で湯を楽しむ女の姿に、俺は皮肉な笑みを浮かべそうになるのを必死でこらえていた。
　実はこの温泉には一般に知られている効能の他に、代々源泉を守ってきた俺の一族しか知らないもう一つの効能が存在している。その効能とは、ある特殊な条件の下で湯に入ると、入った者は一瞬にして男性なら美しい女性に、女性なら逞しい男性へと変化してしまうというもの。言葉で言うだけなら誰も信じないであろう非現実的すぎる効能だが、今俺の目の前には実際にその効能を身をもって証明している者がいた。そう、俺の向かいでうっとりとした表情を浮かべながら湯に浸かっているこの女性こそ、先ほど湯船へと飛び込んだ男の成れの果ての姿なのである。
　俺の家に伝わる伝承によると、この温泉は昔ある修験者が“常に男女が睦まじく入れるような湯を”との願いを込め、験力を使って湯を湧かせたのが始まりとされている。だが、その時の修験者の念が強すぎたのか、湧き出た湯にはある一定の条件を満たした者の男女の性別を変えてしまうという奇妙な効能が生じてしまっていたのだ。
　この湯は一人で浸かっている限りは普通の温泉の湯と全く変わらない。問題となるのはそこに誰かが新たに入ってきたとき。新たに入ってきた者が最初に入っていた者と異なる性別であった時は湯には何の変化も起こらないのだが、これが同性だった場合は即座に湯に隠された効能が発現することとなる。その効能とは正確には“後から湯に入ってきた者を先に入っていた者とは異なる性へと変え、さらにその性的魅力を増大させる”というもの。今回の件でいえば、最初に湯に入っていたのが男の俺であったため、後から入ってきた男は俺とは違う性、つまりは女性へと変わってしまったのである。
　湧き出た湯に修験者のかけた念は、“常に男女が睦まじく入れる湯”というものだった。一見すると何の問題もないように見える願いだが、その願いを成就させるためには前提として男女がこの湯の中に入っている必要がある。同性同士で風呂に入ったのでは、当然の事ながらいつまで経っても修験者の願いである“男女が睦まじく入浴する”状態になることはない。おそらくはそれを強引に解決するために、この湯には異常としか言いようのない効能が備わってしまったのだろう。それは、男女が湯に浸かっている状態であれば、後からどの性別の者が新たに入ってきたとしてもその者の性別が変化することがないことからも伺える。なお、余談だがその状態で誰かが湯から上がり、風呂に残った者が同性のみとなってしまった場合は、やはり湯の効能が発現して風呂に最後に入ってきた者の性別が変わってしまう。こうなると正直もはや呪いの類である。
　だが、そのような尋常ならざる効能を開湯当初から有していながらも、この温泉はこれまで特に騒がれることもなく山間の秘湯として俺の代まで受け継がれてきた。当然、その間に性が逆転してしまった者は百人や二百人ではきかないだろう。しかし、今に至るまでこの湯に入ると性が逆転してしまうといった噂は一度も立ったことはない。なぜなら、この湯の効能によってその性別を変えられた者は、肉体のみならず精神、さらには過去を含めたその存在までもが元から変化後の性であったものとして全て作り変えられてしまうからだ。その事を認識できるのは修験者の血を受け継ぐ俺の一族のみ。つまり、他の者は湯に入った者の性別が変化したことに本人も含めて一切気付くことはないのである。そして、性別を変化させられた者はこれまで辿ってきた人生を全てリセットされ、本来の物とはまったく異なる新たな道を歩んでいくこととなるのだ。
　俺はそんな目の前の女性に対し、若干の皮肉を込めて再び声をかける。
「“お嬢さん”はいったいどちらから来られたんですか？」
　その俺の問いかけに、女は可愛らしい顔に柔らかな微笑みを浮かべながら答える。
「東京からです～。こちらにとっても良い混浴の温泉があると聞いて電車を乗り継いでやって来たんですけど、噂通りの温泉で本当、来て良かったです～」
　そう俺の瞳を見ながらどこかおっとりとした口調で話す女性の表情には、知らない異性と一緒に風呂に入っているという行為に対する羞恥心や嫌悪感の類は一切浮かんでいない。いや、それどころか女はにごり湯とはいえ自らの体を隠すような動作も見せぬまま、ゆったりと湯を楽しんでいた。まあ、それもそうだろう。彼女は肉体が女へと変わったときに、その心もまた混浴の温泉をこよなく愛する女性へと作り替えられているのだ。
　少し余談となるが、混浴温泉と聞くと男性ならば若い女性が湯に浸かっているイメージを思い浮かべる者が多いと思う。だが、実際に温泉地で混浴風呂に若い女性が入っているというケースはそれほど多くはない。その温泉が一軒宿で風呂が混浴しかないというのであれば話は別だが、複数の宿が軒を連ねる温泉街では女風呂を持つ宿が一軒もないなどという事はあり得ないし、混浴をウリにしている宿であっても、混浴風呂の他に女風呂を設置していたり、風呂に女性専用時間を設けていたりするところが結構ある。つまり、たとえ混浴がウリの温泉地であっても、女性は混浴風呂にあえて入らずとも温泉を十分堪能できるようになっているのだ。そこであえて混浴風呂に入ろうとする年頃の女性は、よっぽどの混浴好きかカップルで彼氏に連れられてきた女性くらいのものだろう。
　話を戻すと、この湯では対象が異性へと変化した時、その存在も元から変化後の性別であった事になってしまう。そして対象が女性へと変化した場合、その者が元から女であったとなると、状況からしてその女性は混浴の露天風呂、それも先客として男が入浴している所へ自分から入ってきた事となる。そんな女性が大の混浴好きであることはもはや自明の理だろう。
　その後、湯に浸かりながら東京から来たというその“女性”としばし歓談していた俺は、再び脱衣所の方から響いた床のきしむ音に意識を引き戻される。
　どうやら新たな客が来たらしいな。視線を浴場の出入口の方に向けると、そこにまだ高校生ぐらいの年齢に見える男女の二人組が現れる。
　短い髪を茶色に染めたシャープな体つきの少年と、バスタオルを体に巻き付け男子の陰に隠れるようにしてこちらを窺っている少女。いかにも“彼氏に無理矢理ここに連れてこられた”といった感じのカップルだ。この山の山頂付近にはスキー場もあるから、少年はおそらくそれを餌にして少女をここへと連れ込んだのだろう。とはいえ、少女の方も結局は服を脱いで浴場に入ってきているのだから、若いながらも二人の関係がかなり進展しているのは間違いのないところだ。
　そんな二人に気を使ったのか、女性はこちらにぺこりと頭を下げると風呂から上がって脱衣所の方へと歩いていく。それと入れ違うようにして“お前も早く上がれ”といったような目をしながら湯船に入ってくる少年。
　その瞬間、再び浴場が湯煙に包まれる。
　やがて湯気が収まってくると、俺の向かいでは髪を茶色に染めたボブカット風の髪型をした活発そうな少女が、タオルを頭に乗せ気持ちよさそうな顔をして湯に浸かっていた。
「ほら、由紀も恥ずかしがってないで早く入ってきなよー！」
　風呂の中から大きく手を振ってそう声を飛ばすボブカット風の少女に対し、一方のバスタオルで体を隠した少女は寒さに体を震わせながらもこちらの様子をチラチラと伺っては湯船の縁でおどおどしている。そんな彼女達の関係は、想像するに“混浴大好きな少女と、そんな彼女に無理矢理温泉へと連れてこられた女友達”といったところだろうか。
　しばしそのまま逡巡していたバスタオルの少女だったが、そのうちようやく意を決したのか、恐る恐るといった感じでその足を湯へとつけてくる。だが、その体には相変わらずバスタオルが巻かれたままだ。その様子に俺は一つ大きく息を吐くと、タオルで前を隠しながら湯船から立ち上がった。おそらくここに俺がいたのではこの少女は温泉を心から楽しむ事ができないだろう。ならば、ここは席を外してやるのが大人の対応というものだ。それに、そうした方がある意味彼女達は“元の関係”に戻れるだろうしな。
　湯から上がった俺は、タオルを手にそのまま脱衣所へと向かう。サッシを開け、最後に湯船の方を振り返ると、そこには逞しい男の背中と、それをうっとりとした瞳で見つめる茶髪の少女の姿があった……。

「ふう、今日もなかなか出だしは好調だな」
　脱衣所に戻った俺は、備え付けられたドライヤーで髪を乾かしながら誰に聞かせるでもなくそう独りごちた。
　湯を守るという仕事を受け継いだ俺の一番の楽しみ、それは湯の中で別の性へと変わる利用客を観察する事だった。特に女目当てでこの浴場へとやってきた男がその目的であるはずの女自身へと変わり裸体を惜しげもなく周囲に晒す様は実に皮肉で見ていて飽きない。もちろん、営業時間中ずっと湯の中にいるのは仕事的にも体力的にも不可能だが、欲望に目を輝かせながら風呂場へと向かった男がどのような姿となって脱衣所へと戻ってくるのかを番台で想像しながら待つというのもそれはそれで楽しいものだ。
「さてと、確か今日から下の宿屋じゃスキー教室で高校生の団体様が宿泊することになっていたよな」
　着替えの終わった俺は温泉組合から配られた月間スケジュールを確認しながら番台の上でほくそ笑む。高校生くらいの年齢の健全な男子なら、“混浴”という言葉に心を動かされない者はいないだろう。そして当然、生徒の中には自分達が宿泊する温泉街の近くに存在するこの浴場の事をネット等で調べてきている者もいるはずだ。自分達のいるすぐ側にそのような場所があることを知れば、彼らはまず間違いなく生の女体目当てにこの浴場へとやってくるだろう。そして……。
　高校生達が引き起こすであろう浴場の光景を想像しながら、俺は一人番台の上で笑みを浮かべるのだった。

トップページに戻る

小説ページに戻る