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混浴温泉
作:高居空


  木々の間を高地ならではの爽やかな風が吹き抜ける。
  鮮やかな緑に囲まれ、近くを流れるせせらぎの音を聞きながら、俺は山の中にある野趣溢れる露天風呂で疲れを癒していた。
「ふう、やっぱり一仕事した後の湯は最高だな……」
  体を温める源泉掛け流しのにごり湯に思わず言葉が漏れる。
  俺はこの温泉郷で古くから伝わる源泉の一つを大切に守り続けてきた一族の跡取りだった。とはいっても、別に温泉旅館の主人のような大それた身分という訳ではない。温泉街から舗装もされていない山道を10分以上登ってきた先にある、4人入ることができるかどうかという大きさの露天風呂だけの公衆浴場。それが俺の受け継いだ仕事場だった。
  もちろん、小さな浴場だからといって管理が楽という訳ではない。逆に温泉しか武器がないからこそ、細かな部分での気遣いやこだわりが必要となってくる。建屋にはあえて木材を用いてひなびた雰囲気を醸し出しつつも脱衣所は常に清潔な状態に保ち、露天からの景観を守るために周囲の定期的なゴミ拾いも欠かさない。一番重要な温泉についても、加水、加温無しの文字通り源泉掛け流しだ。自慢の湯は乳白色のにごり湯で、その白さは湯船の底が見えないほどである。もちろん、底の汚れが目に付かないからといって湯船の清掃を怠ったりなどはしない。今日も湯船をはじめとした全ての清掃を終えた後に、こうして休憩も兼ねて一番風呂を楽しんでいるのだ。
  そうしてしばらくまったりと湯に浸かっていると、脱衣所の方から木の床がきしむ独特の音が聞こえてくる。
  なんだ、もう営業時間になってたのか。俺は湯に浸かったままゆっくりと脱衣所の方へと目を向けた。この浴場の従業員は俺しかいないが、入口には俺が不在でも問題のないように営業時間を知らせる看板と入湯料を入れる木箱が設置してある。つまり、客が来たからといって俺が慌てて出て行く必要はないということだ。ここはゆっくりと湯に浸かりながら今日最初の客を出迎えるとしよう。
  やがて、サッシを開けるガラガラという音とともに浴場へと姿を現したのは、おそらく二十歳前後であろう中肉中背の若い男性だった。
  男は最初何かを期待するような目で浴場を見渡していたが、この場に俺一人しかいない事が判ると明らかに落胆したような表情になる。
  まあ、気持ちは分からなくもない。実はこの浴場は男女共用……つまりは混浴温泉なのだ。それも開湯当初から“混浴の湯”として代々受け継がれてきた由緒ある湯なのである。しかも最近はネットで若い女性の利用率が非常に高い秘湯と紹介されているらしく、ソレ目当てで遠方からやって来る若い男性客がやたらと増えているのだ。
  そんな彼らを受け入れるこちらとしては利用者増に加えて色々と楽しみも増えて万々歳なのだが、遠くから女の子目当てにやってきた男性からすれば、せっかく楽しみにしていた温泉に女の子の姿がなく、野郎が1人入っているだけとなったら意気消沈するのも仕方のないところだろう。
  ショックが大きかったのか男はしばらくその場で悄然としていたが、やがて小さく息を吐くとゆっくりとこちらの湯船に近づいてきた。せっかくだから温泉だけでも入っていこうと思ったのか、それとも湯に浸かりながら若い女性がやって来るのを待とうと考えたのか。そのまま掛け湯もせずに湯船へと入ってくる男。
  次の瞬間、露天に張られた湯から一斉に湯煙が立ちのぼった。
  まるで急に濃霧にでもなったかのように視界がきかなくなる浴場。そんな中、俺は向かいにぼんやりと見える人影に向かって声をかける。
「どうですか、ここの温泉は?」
  そんな俺の問いに対して、湯煙の向こうから返ってきたのは女性特有の柔らかな声だった。
「ああ、すごく良いです。湯加減もぴったりですし、お湯もとても柔らかくてお肌がつるつるになりそう。さすが女性に人気の温泉なだけありますね」
  はあっと大きく息を吐きながらうっとりとしたような口調で話す人影。やがて徐々に湯気が薄くなってくると、その人影が黒い髪を結い上げた若い女性であることが明らかになってくる。一方、本来ならそこにいるはずの男の姿はどこにもない。
  目の前でリラックスした表情で湯に浸かる女性の姿に、俺は内心で笑みを浮かべていた。
  実はここにいる女性は元からこの姿であった訳ではない。先程湯船に入ってきた男、それが湯の力により変化したのが今目の前にいる女性なのだ。
  俺の家に伝わる伝承によると、この温泉は昔ある修験者が“常に男女が睦まじく湯に入れるように”と験力をもって湯を沸かせたのが始まりだと言われている。しかし、修験者の念が強すぎたのか、湧き出た湯は実に奇妙な効能を有してしまっていたのだ。
  まず、この湯は一人で浸かっているかぎりは何も問題はない。しかし、そこにもう一人が加わり、しかもそれが同性だった場合、湯に隠された効能が発現するのだ。その力は後から湯に入った者を先に入っていた者とは異なる性へと変えてしまうというもの。例えば、最初に湯に入っていたのが男性だった場合、後から入ってきた男性は女性へと変わってしまうのである。
  修験者のかけた念は“常に男女が睦まじく湯に入る”というものだった。その為には前提条件としてこの湯に男女が入浴している必要がある。おそらくはそれが理由でこの温泉の奇妙な効能が生まれてしまったのだろう。
  ちなみに、この温泉の効能によってその性別を変えられた者は、肉体のみならず精神、さらにはその存在までも元からその性別であったものとして作り変えられてしまう。要は本人も含めてその者が本当は異なる性であった事を認識できる者はいないということだ。唯一、開湯伝説の修験者の血を引くこの俺の一族を除いては。
  なお、男女が湯船に入っている状態で……実際の所二人で湯に入れば必ずこの形になるわけだが……さらにもう一人が湯に浸かったとしても、湯船に入っている人間の性別は誰も変化しない。つまり、混浴状態にさえなっていれば男女の比率は関係ないということだ。あくまでこの湯の効能は湯の中の性が片方のみになった際に後から入った者を異性へと変えるというものなのである。
「どちらからここまで来られたんですか?」
「東京からです。こちらにとても良い混浴の温泉があると聞いて電車を乗り継いでやって来たんですが、本当、来て良かったです」
  俺の問いかけに対して笑顔を浮かべながら答える女性。その表情には異性に見られる事に対する羞恥心や嫌悪感の類は一切感じられず、また、体を隠すような事もせずにゆったりと湯に浸かっている。それもそうだろう。彼女が女性になった時、その心も混浴をこよなく愛する温泉好きの女性へと大きく変貌しているのだ。
  少し余談になるが、混浴温泉と聞くと男性なら若い女性が湯に浸かっているイメージを持つ者が多いと思うが、実際に温泉地で混浴風呂に若い女性が入っているというケースはそれほど多くはない。そこが一軒宿で風呂が混浴しかないというのであれば話は別だが、複数の宿が軒を連ねる温泉街で女性風呂を持つ宿が一軒もないなどという事はあり得ないし、混浴をウリにしている宿であっても、混浴風呂の他に女性風呂を設置していたり、風呂に女性専用時間を設けていたりするところが結構ある。つまり、たとえ混浴がウリの温泉地であっても、女性は混浴風呂に入らずとも温泉を十分堪能できるようになっているのだ。そこであえて混浴風呂に入ろうとする年頃の女性は、よっぽどの混浴好きかカップルで彼氏に連れられてきた女性くらいのものだろう。
  ここで話を戻すと、この湯では男性が女性へと変化した時、その存在も元から女性であった事に変わってしまう。そして、元から彼女が女性であったとすると、その女性は“混浴露天風呂に先に男性が入浴している事を知りながら湯へと入ってきた”事になるのだ。そんな女性が混浴好きであることはもはや自明の理だろう。
  その後、しばらく東京から来たという“女性”と歓談していた俺の耳に、再び脱衣所の床がきしむ音が聞こえてくる。
  どうやら新たな客が来たらしい。脱衣所の方向に視線を向けた俺の前に現れたのは、高校生ぐらいの年齢の男女二人組だった。
  短い髪を茶色に染めたシャープな体つきの男子と、バスタオルを体に巻き付け男子の陰に隠れるようにしてこちらを窺っている少女。いかにも“彼氏に無理矢理混浴温泉に連れてこられた”といった感じのカップルだ。
  そんな二人に気を使ったのか、こちらにぺこりと頭を下げて風呂から上がる女性。それと入れ違うようにして、“お前も早く上がれ”といったような目をしながら男が湯船に入ってくる。
  再び立ちのぼる湯煙。
  やがて湯気が収まると、そこには髪を茶色に染めたショートカットの活発そうな少女がタオルを頭に乗せて湯に浸かっていた。
「ほら、由紀も恥ずかしがってないで早く入ってきなよ!」
  風呂の中からそう声を飛ばすショートカットの少女に対し、バスタオルで体を隠した少女はこちらの事をチラチラと見ながら湯船の縁でおどおどしている。そんな彼女達の関係は、想像するに“混浴好きの少女と、そんな彼女に無理矢理混浴温泉に連れてこられた女友達”といったところだろうか。
  やがて、バスタオルの少女はようやく意を決したのか、バスタオルを体に巻いたまま恐る恐る足を湯につけてくる。そんな少女達の様子を横目で見ながら、俺は一つ息を吐くと湯船から立ち上がった。おそらくここに俺がいたのでは彼女達はこの温泉を心から楽しむ事ができないだろう。ならば、ここは席を外すのが大人の対応というものだ。それに、そうした方がある意味“元の関係”に戻るだろうしな。
  湯から上がった俺は、タオルを持ってそのまま脱衣所へと向かう。サッシを開け、最後に湯船の方を振り返ると、そこにはたくましい男性の背中と、それをうっとりとした瞳で見つめる茶髪の少女の姿があった……。





「ふう、今日もなかなか出だしは好調だな」
  俺は脱衣所に備え付けられたドライヤーで髪を乾かしながらそう独りごちた。湯を守るという仕事を受け継いだ俺の一番の楽しみ、それは湯の中で別の性へと変わる利用客を観察する事だった。もちろん、営業時間中ずっと湯の中にいるのは仕事的にも体力的にも無理な話だが、欲望に目を輝かせながら風呂場へと向かった男が妙齢の美女となって脱衣所へと戻ってくる姿を見るだけでもなかなか楽しいものがある。
「さてと、確か今日から高校生が部活の合宿で下の宿屋に泊まる事になっていたよな」
  壁に掛けられたカレンダーを確認しながら俺はほくそ笑む。高校生位の年齢の健全な男子なら、“混浴”という言葉に心を動かされない者はいないはずだ。そしてこの温泉の事をネット等で事前に調べてきている者もいることだろう。当然、彼らは覗きに……もとい、温泉に入りにこの場所へとやってくるに違いない。さて、そのうちの何人が男のままで脱衣所に戻ってこられるのかな……。これから繰り広げられるであろう光景を想像し、俺はニンマリと笑みを浮かべるのだった……。



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