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肉欲鏡
作:高居空


「この度はご用命いただきありがとうございます」
  燕尾服風の衣装を纏った白髪混じりのその男は、慇懃な物腰で俺に向かって深々と一礼した。
  一分の隙もなくセットされた髪に、どこか優雅さを感じさせる身のこなし。その服装も相まってその男は漫画に出てくる老執事を連想させた。が、この男がそのような職業の者のはずがない。何せうちはごく普通のサラリーマン世帯、そして俺はやはりしがないただの男子高校生でしかないからだ。さらに付け加えるなら、この男はそんな俺の部屋に前触れもなく突然現れた。そう、俺の背後に音もなく、いきなりだ。
  あまりの異常事態に声を上げることもできずイスの上で口をパクパクさせる俺の目の前で、男は優雅かつ滑らかな動きで懐の中から何かを取り出した。それは、一見手のひらに収まるサイズの四角い手鏡のように見える。
「こちらがお客様に使用していただく品、『肉欲鏡』でございます」
  いかにも怪しげな名を平然と口にし、再び俺に一礼する男。
  そのあまりにも異様な状況の中で、俺は半ばパニクりながらも、どうして今このような状況に陥っているのかを必死で思い返そうとしていた。



『あるアダルトサイトの奥に悪魔が運営する通販ページがある』
  そんな噂を聞いたのは、学食でメシを食い終わりいつものごとくダチとダベっていた時だった。
「何いってんだよお前。アダルトサイトの見過ぎで頭がピンク色になってんじゃないのか?」
  その場はそう言って笑い飛ばした俺だったが、そのダチの言葉には少し気になる所があった。ダチが口にした通販ページへと繋がっているというアダルトサイト。そこは俺もちょくちょくお世話になっているなじみのサイトだったのだ。
  学校が終わり自宅に帰った俺は、共働きの両親が帰宅していないのを確認し、事の真偽を確認するべく自室で件のアダルトサイトへとアクセスする。ダチが言っていたようにずらっと表示された画像と画像の間の行間部分にカーソルを合わせクリックすると、画面は女性のアダルトな画像が張られたページから黒を基調とした新たなページへと切り替わっていた。
「…………なんだ、この頭悪げなサイトは…………」
  そのページの中心に貼られた商品リストらしき表を見て思わず一人ごちてしまう俺。
  その表には、どう考えても電波な奴がラリッて書き込んだとしか思えない商品名と説明書きがこれでもかとアップされていた。しかも、商品の画像データは一切なし。値段の欄には円の代わりに「寿命○年」やら「使い魔契約○年」、「商品購入○年後に生贄対象」といった文字がいくつも並んでいる。正直、これを見て真っ当な通販サイトだと思った奴は今すぐ病院に行った方が良いだろう。ったく、なんでアイツ、あの時こんなページを話題にしたんだ……?
  そんなことを考えながら画面をスクロールしているうちに、俺はリストの値段の項目に何も記されていない商品がいくつか存在していることに気が付いた。
  注意して見てみると、それらの商品にはみな一様に、説明欄の所に商品の説明ではなく「試作品。1日無料モニター募集中」という一文が記されている。
「無料モニター? なんだそりゃ」
  ここで申し込みでもすりゃ、このトンデモ商品をホントに送ってくるとでもいうのか?
  半ば馬鹿にしながらも、俺は怖いもの見たさで適当にモニター募集と記された商品のうちの一つにカーソルを合わせてみる。
  次の瞬間、背後にぞくりとするような異質な気配を感じる俺。
  反射的に振り返った俺が目にした物、それがこの白髪交じりの初老の男だったのだ。



「それでは商品についてご説明いたします」
  一見礼儀正しく見えるものの、男は俺が何を考えているか、どのような状況にあるかなど全く関係なしとばかりに話を一方的に進めていく。
「人間達の間では『何やらは人の欲望を写し出す鏡だ』などという言い回しをするようですが、この『肉欲鏡』はその人間の欲望のうち『肉欲』をその鏡面に写し出すものとなっております」
  そう言うと、男は手に持った鏡を俺へと向ける。
  …………?
  その鏡面には、髪を茶色に染めたショートボブの女の子の顔が写っていた。
  やや童顔気味な顔立ち、その中でも一際大きな瞳、化粧をしていなくても全く問題ないようなきめ細やかな肌……その少女は、正直俺の好みの直球ど真ん中な顔をしていた。
  異様な状況に置かれているのは分かっていても、男の業で少女の顔が映る鏡面へと目を向けてしまう俺。
「このように、この鏡は写された者が持つ肉欲の対象……つまりは理想の異性の姿を映し出す物となっております。しかしながら、この鏡は文字通り『鏡』でもあるのです。お客様、ここで一つ、ご自身の体をご覧になってみて下さい」
  そう促す男に、何かあるのかと俺は少女の顔が映る鏡から自分の体へと視線を移す。
  そこには、ピンク色をしたパジャマを押し上げる大きな二つの膨らみがあった。
  な……なんだ、これは!?
「おや、どうかなされましたかお客様。自分の胸にそんなに驚いたような顔をなさって?」
「おい、何なんだよ、これは!?」
  これ以上はないくらいの異様な事態に反射的に男に詰め寄ろうとする俺に対し、一切動じた様子も見せずに静かな視線を向けてくる男。
「何だ、とはどういう事でございますか? お客様にはどこもおかしな所などございませんが?」
  おかしな所がない……だって? それって、どういう……
「ええ、何もおかしな所などございません。なぜなら、お客様は最初から『その姿』だったのですから」
  な……そんなはずはない。俺は男で……
「いいえ、そのようなことは決してございません。第一、お客様は名前からして、まさに女性そのものではございませんか」
「何言ってんだ! 俺の名前は『桃子』、だぞ……!?」
  って、何だそれは。確かに俺の名前は「桃子」だ。が、これじゃこの男が言うようにホントに女の名前じゃないか……
  そんな俺の頭に、突然過去の思い出がフラッシュバックしてくる。
  男の子と混じって遊んだ小学生時代。明らかに歳不相応な大きさの胸と、欲望むき出しの目でそれを見る男子達に悩んだ中学生時代。そして、中学時代とは逆に童顔のせいで子供に見られるのが嫌で髪を染めてみた高校生の今のわたし……
  って、何、この記憶? これじゃわたし、ホントに女の子だったみたいじゃない! ……それとも、もしかしてこの記憶の方がホントのわたしの記憶なの? いやでも、確かにわたしは男の子のはずで……
「ふむ。お客様、何故かは存じませんが、だいぶ記憶が混乱されているようですな。しかし、これを見ればお客様の意識もはっきりされるのでは?」
  そう言って男はわたしの机の引き出しの二段目を勝手に開けようとする。
「え! そこは!!」
  その引き出しは、わたしがとあるルートで入手した男の子の夜のオカズと道具をしまってある秘密の場所だった。男は鍵がかかっているはずのその引き出しを何事もなかったかのように簡単に開けると、そこに入っていたモノを取り出す。
「ほう、お客様はこれを使って夜な夜な楽しんでいらっしゃるのですな」
  その手には、女性の自慰のためだけに作られた特殊な器具が握られていた。
「……………………!!」
  それを見た瞬間、脳裏に男が手に持つ器具を使ってベッドの上で快感を貪るわたしの姿が鮮明に浮かび上がり、同時にその快感を思い出したわたしの体に異変が起こる。
「あ、ああ……」
  おなかの奥が切なさを訴えてくる。乳首が硬くなってくるのが感覚で分かる。わたしの体は完全にスイッチが入っていた。左手を自分の胸へと添えるわたし。もう一方の手は股間の上を彷徨っている。もしこの場に人がいなかったら、わたしはすぐにでも胸をもみ上げ、股間を愛撫していただろう。そのくらい、わたしの体は、その……ものすごく淫乱で、しかも我慢が効かないのだ。そう、自分の意志ではどうにもならないくらいに。
「ほう、これはまた淫乱なお嬢様ですな。人がいるというのに自慰を始めたくてうずうずしているとは」
  男の言葉にわたしの頬が火照り、それがまたわたしの肉欲を加速させる。頭がぼんやりとしてきて、はやくキモチ良くなりたいということしか考えられなくなってくる。
「しかし、お嬢様はそれで満足でございますか? このようなオモチャなどではなく、本物の『男のモノ』を味わってみたいとは思いませんか?」
  男のモノ……? 言われてみれば、確かにわたしは自慰用の器具を愛用してるけど、本物の男のモノに貫かれた事は一度もなかった。そして今、わたしの前にはそのモノを持つ者がいる……
「イヤ! それは絶対イヤ!!」
  が、わたしの口はそれより先を考えるよりも前に、勝手に答えを返していた。
「…………なるほど」
  わたしの返答に男は何やら納得したように一つうなずくと、手にした鏡を再びこちらへとかざす。
  そこには、わたしの好みど真ん中な男の人の顔が写っていた。
  …………というか、これって…………もしかして…………俺の…………顔…………?
  そう意識したとき、夢から覚めたかのように一気に我へと返る俺。
  慌てて自分の体を確認するが、そこには当たり前の事だが、見慣れた自分の体…………男の肉体があるだけだった。
  何だこれは? 俺は………さっきまで催眠術にでも掛かってたのか……?
「いいえ、催眠術ではございません。これこそがこの鏡、『肉欲鏡』の効果でございます」
  まるで寝起きの時のようにどこかすっきりとしない頭に響く男の声。
「写しだした対象を、その者が理想とする異性へと変える……それがこの『肉欲鏡』の力なのです」
  となると……先ほどまでの事は全て現実で、あれが……俺の理想の女だっていうのか……? 確かにあの女は顔といい胸の大きさといい俺が思い描いている理想の体つきをしていた。が、ちょっとあれは淫乱すぎるような……?
  動揺する俺に対し、男は表情を変えぬまま言葉を続ける。
「ふむ。それは当然でございましょう。男が女の肉体に求める最大のモノは、実は胸でもあそこの締め付けでもなく、愛撫に素直かつ敏感に反応する感度、つまりは感じやすさでございますから。男は自分が愛撫しているのに女が反応しないと、ある種の恐怖を抱きますからな。しかも男というのは女は『初めて』でも絶頂に達することができるものだという夢想まで持っている。その条件を満たすとなると、その者の肉体がどのようなものなのかはいわずもがなといったところでしょう」
  なるほど……。非常識なことだとは分かっているが、非常識なりに筋の通った男の説明に思わず納得してしまう俺。
「ちなみに、この商品の効果は対象と1対1の時にしか発動いたしません。鏡に第三者が写りこんでいるのはもちろん、その場に第三者が存在しているだけでも、この商品は普通の鏡と同じになってしまう事にご注意下さい」
  そう言って再び恭しく俺に一礼する男。が、俺はその言葉に何か引っかかるモノを感じていた。ご注意下さい……? なぜこいつはそんな事を俺に言うんだ?
  その疑問に答えるように男が口を開く。
「それでは、お客様には契約通りこの商品を1日の間自由に使用していただきます。期限は明日16時まで。なお、もしもの話でございますが、お客様が期限内に商品を一度も使用しなかった場合……」
  そこまで語ったところで、これまで慇懃な表情を保ち続けていた男の顔が初めて崩れる。口の端をつり上げたその顔は……月並みだが、俺にはまるで『悪魔の笑み』のように見えた。
「モニター契約に違反したということで、お客様の魂を頂きます」
  そう言い残し、男の姿は空気と同一化するかのように薄くなり消滅する。が、男が確かにそこに存在したことを証明するかのように、男が立っていた場所にはあの鏡が……『肉欲鏡』が置かれていた…………。





  どうする…………。
  翌日。俺は放課後の学校の廊下を歩きながら内心焦っていた。
  昨日手に入れた『肉欲鏡』は今も制服のポケットに忍ばせてある。が、それを使用するチャンスがなかなかやってこないのだ。
  この鏡は対象を文字通り別の存在へと変える物。そんな物騒な物を家族やダチに使う訳にはいかない。となると、対象は俺とは関係性のない誰かということになるのだが、そうなると1対1の状況でしか発動しないというこの鏡の効果の発動条件を満たすのが難しくなってくる。知り合いならば理由をつけて人気のないところへと連れ込むことは簡単だろうが、見ず知らずの者にそれをすることはまず不可能だ。そして、実生活で知らない者同士で1対1となる機会というのはありそうでないものだというのは今日痛いほど思い知った。
  今朝はいつもよりも早く家を出て、そのような機会が比較的多いと思われる駅のトイレで遅刻ぎりぎりの電車まで粘ってみたものの、結局時間までに望んだ状況は訪れず、学校内でもそれは同じ。今考えれば学校をサボってでも駅のトイレで張っておくべきだったのかもしれないが、既に後の祭りだ。時刻はもう15時45分を回ってしまっている。このままでは…………。
  焦りながら、最後の賭けとばかりにもう一度トイレへと向かおうとする俺。その時だった。俺の目に鏡を使うのにおあつらえ向けな状況が飛び込んできたのは。
  扉の開かれた教室。俺とは別クラスとなるその教室内で、見知らぬ男子生徒が一人、机に向かい何か日誌のような物を書いていた。状況からして日直か何かか。その生徒以外誰もいなくなった教室で、それでも集中して机に向かっている男子生徒。名前は、黒板に書かれた名前が明日の日直の名前でないのであれば小山……か。その姿からは真面目な生徒といった印象を受けるが、ともかく俺にとっては好都合だ。この機会を逃せばおそらく次はない!
  意を決した俺は、相手に気付かれぬよう忍び足で教室内に侵入すると、外部と遮断するために教室の扉を閉める。
  その音で初めて俺の存在に気付いたのか、はっと顔を上げた男子生徒の視線の先へと『肉欲鏡』をかざす俺。
  次の瞬間、俺の目の前で男子生徒の姿が猛スピードで変わり始めた。黒髪がぐんぐんと伸びていき、背中まで伸びるロングヘアを形作っていく。その下にある顔のパーツが、どんどんと美少女のそれへと変わっていく。胸がぐぐっと盛り上がり、巨乳と呼べるレベルまで成長すると、制服の生地が白く染まって変形し、女子の制服を形作った後にそこに再び色が付いていく。
  その男が女へと変わっていく非現実的な一連の光景に、俺は背徳感を覚えつつも思わず見入ってしまっていた。あの男も、俺が女になったとき、こんな感じで変わっていく俺の姿を眺めてたんだろうか……。
  そんな俺の脳裏に、あの時の男とのやりとりが蘇ってくる。………そういえばあのやりとり、今考えてみるとちょっと不自然な部分があるよな……。ひょっとして、あれにも何かの意味があるのか……?
  と、そこまで考えたところで完全に巨乳の黒髪美少女と化した元・男子生徒が俺に声を掛けてくる。
「あの、この教室に何かご用ですか。誰かお探しなら、もうこの教室には僕以外残っていないんですが」
  僕、か。その声音はアニメの美少女ヒロインさながらの可愛らしいものだったが、どうやらその一人称からして、意識の方は男のままのようだ。というか、俺の時も最初はそうだったよな。それがおかしくなったのは……
  そこではっとひらめく物があった俺は、物は試しとばかりに元・男子生徒へと言葉を返してみる。
「いや、こんな可愛い女の子が一人教室に残って何をやってるのかが気になってね」
  それに対し何を言ってるんだこの人はとばかりに訝しげな眼差しで俺を見上げてくる美少女。
「おや、ひょっとして君、自分が男の子だとでも思ってるのかい? それなら、君の服の胸の辺りを押し上げてる立派なモノは何なんだ?」
「え…………!?」
  俺の声に視線を下ろした少女は、そこに存在するモノに衝撃を受けたのか、そのまま固まってしまう。
「まさか、そんなモノを持っていて自分が男だなんて言わないよな。それとも、詰め物でもしてるのかい。自分でも分からないってんなら、直に触って確認してみたらどうだ?」
  俺のその言葉に誘導されたかのように、おずおずと自分の胸へと細く小さなその手を添える少女。
「あ…うそ、そんな……」
  そこから流れ込んでくる感覚に少女が戸惑っているのがありありと分かる。その相手に対し、俺は昨日自分に起こった事を思い出しながら追い打ちをかけた。
「嘘? それでもそれが本当に女のモノなのか分からないのかい? だったら、今手で触れているそれを揉んでみればいい。そうすれば、嫌でも自分が何者なのか分かるさ」
「あ、ああっ……」
  少女は俺の言葉に恐れ半分、興味半分といった表情を見せしばらく固まっていたが、ついに元・男の肉欲が恐怖を上回ったのか、ゆっくりとその手で自分に備わった大きな乳房を揉みしだいた。
「あん♪」
  同時に口から可愛らしい声をあげる元・少年。
「良い声じゃないか。まさに女そのものって感じのな」
「そんな……ああっ、そんな……」
「そんな可愛いあえぎ声を上げるんだ。きっと名前も可愛いらしい女そのものって感じのやつなんだろ?」
「ち、違う! 私の名前は小山涼香で……って、違う、違うの!!」
  昨日の俺と同じなんだろう、女そのものの名前を名乗り、自らが名乗ったその名にさらに混乱する少女。一人称もいつの間にか「私」へと変わっている。
「違う? 何が違うんだい涼香ちゃん? まだ何かが引っかかってるっていうんなら、もう一度その『胸』に聞いてみれば良いんじゃないか?」
「あ、やん! あ、あああん!」
  俺の声に導かれるように再び自分の胸を揉みしだき、顔を赤らめながら女の悦びを口にする少女。いや、それだけではない。さきほどはどこか恐る恐るといった感があったが、今の少女の手の動きはAVで見た快感を得ようと自分の胸を愛撫する女のそれと全く同じだった。見ると、少女はそのまま胸を弄り続けながら顔を上気させ、体をくねらせている。
「おやおや、涼香ちゃんは清楚で真面目って印象だったけど、まさかこんなに淫乱な女の子だったとはね」
「ち、違うの! 私、いつもはこんなじゃないの! でも、でも……ああん! 一度火がついちゃうと……止まらない、あっ、止められないの! こんな……ああっ、男の人の前だっていうのにぃ……!」
  少女は完全に自らの肉欲に呑まれていた。男が女の肉体に求めるのは感度……男の言葉が脳裏をよぎる。その恥じらいながらも乱れる女の痴態に、俺の息子も当然のごとくビンビンに反応していた。
「……涼香ちゃん、そんな自慰ばっかりに夢中になってないで、もっと良いことしてみないか? この俺とさ」
「え……あ……」
  その誘いに潤んだ瞳を俺へと向ける少女。しばしの見つめあいの後……
  乾いた音とともに、俺の頬に衝撃が走った。
  それが少女が俺を平手で張った音だと気が付いたときには、少女は教室の扉を開け走り去ろうとしていた。
「……………………」
  頬をさすりながら少女の後ろ姿を見つめる俺。そんな俺を現実へと引き戻したのは、昨日と同じく唐突に背後に感じた異質な気配だった。
「ふむ、やはりこうなりましたか」
  振り向くと、そこには予想通り昨日の男が立っていた。
  こちらが口を開くよりも早く、俺の心の内を見透かしたかのように語り始める初老の男。
「対象をその対象が理想とする異性へとその存在を変える力を持つ『肉欲鏡』。これを用いれば、対象は間違いなく魅力的な異性へとその姿を変えるわけですが…………やはり、最後の一線を越えられないというのでは商品にはなりませんな。自分以外の者と性行為に及ぶ異性…………それを理想の異性とする者などいないというのは、考えてみれば当然の事ではございますが」
  なるほど……。昨日の俺、そして先ほどの少女の行動に得心がいった俺の前で、男は恭しく一礼をする。
「ともあれ、今回は私どもの試作品を使用していただきありがとうございました。この結果を元に私どもはより良い商品開発へと取り組んで参ります。それでは、またのご用命をお待ちしております……」
  そう言い終えるとともに、男の姿は昨日と同じように急速に薄れ空気に溶けていく。俺が声をかけるよりも早く男の姿は消失し、がらんとした放課後の教室の中には俺一人だけが残されていた。
  助かった、か…………。
  魂を奪われなかったことに安堵しながら、俺は一つため息をつく。あの小山という奴には悪いことをしたが、ともかくあいつの事も含め難しいことは明日考えよう……。
  そう思いながら手を制服のポケットにつっこもうとした俺は、そこで初めて自分の手が何かを握りしめたままだということに気が付いた。
  何だ? もしかしてあの男、試作品を俺から回収せずに行ったのか……?
  一瞬短絡的にそう思った俺だったが、すぐにその考えを改める。
  いや、あれは人智を超えた存在だ。そんな者が人間のような単純なミスを犯すとは思えない。気付かぬ間に試作品は俺の手から抜き取られていて、代わりに同じ形の物を握らされていた……とかいう奴じゃないのか?
  ともかく、確認はしなくては。俺はさっそく右手を開き、握りしめていたその物体を覗き見る。
  そこにあったのは、当然といえば当然ともいえる、手のひらに収まるサイズをした四角い形の手鏡だった。先ほど使用していたこともあってか、鏡面はこちら側を向いている。そしてそこには────見覚えのある、『自分の顔』が写りこんでいた。



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