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目論見
作:高居空


  よし、思った通りだ!
  とある老舗旅館にある源泉かけ流しの露天風呂。5、6人入れれば上等といった大きさの湯船に今は誰もいないことを確認した俺は、タオル片手にほくそ笑んだ。
  こうした源泉かけ流しの良質の湯がウリの宿では、風呂目当てでせっかく早くに宿に着いても、いざ風呂に行ったら内湯、露天ともに誰かしらが入っていてゆっくりできないなんてことがよくある。場合によっては、日も高いうちから湯船も浴場も一杯で芋洗い状態なんてこともあるのだ。
  だが、団体旅行やらなんやらで旅慣れてくれば、そうした宿泊客の行動パターンというのは何となく分かってくるもんだ。今回、俺はその行動パターンの裏をかき、おそらく人がいないであろう時間帯を見計らってこの露天へとやってきたのだった。
  温泉宿に限らず旅館に宿泊する客は、チェックインすると大抵は次のような行動をとる。
  まず、部屋に旅の荷物を置いた宿泊客は、部屋で一服するか否かで多少時間にばらつきはあるものの、ほとんどが夕食の前までに風呂へと向かう。この夕方から夕食前までの時間帯というのが浴場の混雑のピークだ。宿泊客の他に日帰り入浴も受け入れている場合は、夕方前の2〜3時の時点から混んでいる場合もある。
  だがその後、6〜7時の夕食の時間帯が過ぎると、風呂に入る客というのはそれまでの混雑が嘘であったかのようにめっきりと減ってしまうのだ。
  理由としては、旅の疲れが出て早めに寝てしまうっていうのもあるだろうし、酒が飲める客は大体は夕食で酒が回っているため風呂に入れないっていうのもあるだろう。ともかく、風呂にゆったりと浸かりたいなら、まずはこの時間帯が狙い目だ。そのためには自分も酒を飲めないという欠点もあるのだが、まあ、そこは風呂と酒のどちらに重きを置くかってやつだろう。
  ちなみに、これが翌朝になってしまうと、早起きした風呂好き達が「出発前のひとっ風呂」とばかりに集まってくるので、これまた意外に混雑する。特に朝飯前の6時台はかなり危険な時間帯だ。よっぽどの早朝でもないかぎり、浴場には誰かしらいると考えた方が良いだろう。
  とまあ、これが基本的な宿泊客の風呂に関する行動パターンな訳だが、実はこれ以外にも浴場の混雑を左右する一つの特殊要素があることを俺は経験から学んでいた。
  その特殊要素とは、有り体に言ってしまえばテレビである。もちろん、部屋にテレビがあるかないかとかいう話ではない。まあ、テレビがなくては元も子もないのは確かなのだが。
  肝心なのは、宿に宿泊したその日に某国営放送の連続ドラマが放映されるか否かである。もっと絞って言うなら、日曜に放送されている大河ドラマと月から土に放映されている朝の連続テレビ小説が放送されているかだ。腐っても鯛とでも言うべきか、ともかくこれらの歴史あるドラマ番組の放映時間帯には、実際に風呂の利用者が激減するのだ。もっとも、朝の連続テレビ小説の時間帯は湯船の清掃等の関係で入浴は8時までという所も多く利用できない場合も結構あるのだが、日曜夜の場合は、夕食後ということも相まって、風呂の独占という点でかなり期待の持てる時間帯となる。ただ、その時間帯に風呂に入るとなると、必然的に翌日の月曜日に休みを入れなくてはいけないというのがちょっと痛いところだが。
  ともかく今、俺はその日曜大河ドラマの放映されている時間を見計らって浴場を訪れ、こうして無人の露天風呂に対面しているのだった。
  へへっ、この状況ならネットで見たあの“噂”、確かめることができるな!
  脱衣所の出入口から俺は湯気の立ち上る浴槽とその向こうにあるもう一つの出入口を眺めながら、思惑通りの状況に気分を昂ぶらせる。
  そう、この露天風呂には俺がひょんなことから出会ったSNS上でまことしやかに語られている噂があった。
  その噂とは、この露天風呂の浴場で入ってきた方の出入口とは逆の出入口に足を踏み入れると、その瞬間に自分の性別が反転してしまうというものだった。さらに、反転した自分の姿は、元の姿がどうであれ、必ず性的魅力に溢れたものとなるらしい。
  …………あらかじめ言っておくが、俺にはホモの気はない。だが、AVやら何やらをこよなく愛する健全な男子なら、画面の向こう側でこれでもかと見せつけてくる異性の快感というのが本当はどんなものなのか、知りたいと思ったことが誰にもあるはずだ!
  …………話を戻そう。この露天の噂にはさらに続きがある。それは、例え性別が反転してしまっても、その状態で最初に入ってきた出入口に戻れば、そいつは再び元の姿に戻れるというものだった。これならば一時の気の迷いで残りの人生大転換なんてこともなさそうだ。
  なお、なぜこの露天風呂に出入口が2つあるのかといえば、それはこの露天風呂が混浴だからである。つまり、俺の向かいにある出入口の先は女性の脱衣所ということになる。その出入口に足を踏み入れればということは……つまりはそういうことなんだろう。
  さっそく俺は大いなる目的を達成するため、露天の湯船を素通りし、もう一つの出入口へと向かう。
  まずはそっと隙間から脱衣所の中の様子を覗き見して……いくら混浴とはいえ、脱衣所が男女別になっている以上、そこに誰かがいるところに異性が堂々と入っていこうとすればどのようなことになるかは火を見るより明らかだ……そこに人の姿がないことを確認した俺は、出入口の前に立ちごくりと唾を飲み込むと、ゆっくりその先へと一歩足を踏み出した。
  瞬間、俺の目線ががくんと下がる。
「おおっ?」
  思わずバランスを崩しそうになった俺は、反射的に声を漏らす。が、口から出たその声は、本来の俺の声音とはまったく異なる可愛らしいものだった。同時に、胸から何かがぷるんと揺れる感覚が伝わってくる。
  こ、これは……!
  見下ろすと、俺の胸には形の良い二つの乳房があった。肌も白くきめ細やかになり、むだ毛などは一切見あたらない。腕も細くなり、体のパーツ全てが一回り小さくなったように感じられる。そして……
  いよいよ下腹部を確認しようとしたその時だった。
「あ〜ら、こんばんわ♪」
  突如かけられたその声に、俺の背中がびくんと跳ね上がる。
  嫌な汗が一筋頬にたらりと垂れるのを感じながら振り返ると、そこにはいかにも話し好きそうな雰囲気のオバサンが立っていた。
「まあ、あなたもこれからかしら〜? なら、一緒に入りましょうよ〜♪」
  俺の体や髪が濡れていないことからそう判断したのか、オバサンはパッパと服を脱ぎ、無造作に籠に放り込みながらそう声を掛けてくる。
  くそ、いらん邪魔が入ったな。これじゃこれ以上ここで“探索”を続けることができないじゃないか。しかたない。続きは部屋に戻ってからするか……。
「いえ、お、わたしはこれで……」
  だが、この場から去ろうとそこまで口にしたところで、俺は重大な過ちに気がついた。
  し、しまった! こっち側の脱衣所には、俺の服がない!
  俺が入ってきたのは男性側の脱衣所だ。当然、着てきた服はそちら側に脱いできてある。つまり、こちら側の脱衣所には俺の着る服がないということだ。さすがにこれはマズイ!
  このまま全裸で脱衣所の外に出ようものなら明らかに警察沙汰だし、かといって男性側の脱衣所に服を取りに行けば俺の姿は元に戻ってしまう。いや、そもそも今はここに人の目があるのだ。この姿で男性側の脱衣所に向かおうとすれば、すぐに止めらるか従業員に連絡されてしまうに違いない。
「と、え〜と……」
  まごまごする俺の様子に、目の前のオバサンはまた別の意味に受け取ったのか、カラカラと笑い声をあげる。
「あらあら〜? もしかして貴女、混浴は初めてかしら〜? 確かに、混浴のお風呂に入ろうって心に決めて来ていても、いざ脱衣所で“向こうに男の人がいるかも”って思っちゃうとちょっと気が引けちゃうのよねえ。アタシも最初はそうだったわ♪ それに実際に混浴って、行ってみたら男しかいないっていうのがほとんどなのよね〜。でも大丈夫。基本的にこうした場所って温泉好きが集まる所だから、男の人も“女の体”目当てのなんて滅多にいないから♪  まあ、万一そんなのがいても、アタシが追い払ってあげるから安心 しなさいな♪」
  そう言って親切面するオバサンに、俺は「ありがとうございます」と笑みを返しながらも内心で舌打ちする。
  まいったな……。こうなっては、このオバサンにお付き合いする以外の選択肢は俺にはないようだ。
  しかたなく、俺は服を脱ぎ終わったオバサンとともに、タオルで前を隠しながら再び浴場へと向かう。
「あら〜♪ 今はどうやら、アタシと貴女の貸し切りみたいね♪ これならゆっくりできるわね〜♪」
  浴場に入るやいなや、誰もいない湯船を見てオバサンは喜びの声を上げる。いや、俺としては、ゆっくりなんてせずにざぶんと入ってとっとと出て行って欲しいところなのだが……。
  そんなことを俺が思っているとはつゆ知らず、オバサンは慣れた動作でかけ湯をすると、ゆっくりと湯船に浸かっていく。
「ああ〜♪ 良いお湯〜♪ ホント、生き返るわ〜♪」
  肩まで湯に浸かるや、恍惚の声をあげるオバサン。
  それに続いて俺も慣れない“体”で内心どぎまぎしながらかけ湯をし、湯船に入っていく。
「ホント、良いお湯よね〜♪ 今はダンナも部屋でテレビ見てるし、久々になんの気兼ねもなくゆっくりできるわ〜♪」
  ちょうど適温の白い濁り湯に心地よさを感じながらも、オバサンのその言葉に俺は心の中でげんなりする。
  この言葉から推測するに、このオバサンはどうやらいわゆる“心配性な客”のようだ。
  こうした宿に来ると、特に女性に多いのだが、貴重品やら何やらを部屋に置きっぱなしにしておくのが気になって、部屋に誰かがいないと風呂にいけないなんていうような客がいる。それが俺の客分類上における“心配性な客”だ。
  確かに湯に入る以上、貴重品や部屋の鍵を肌身離さず身に着けておくなんてことはできない。また、そうした脱衣所の貴重品を狙った犯罪があるっていうのも残念ながら事実だ。が、共同浴場や日帰り入浴の時間帯ならともかく、宿泊客しかおらず足のつきやすい夜間の風呂で盗みを行う輩なんてそうそういないし、そもそも部屋の鍵ならフロントに言えば預かってくれるところがほとんどだ。だが、それでも心配でたまらなくなるのが心配性の心配性たる所以なんだろう。
  ともかく、そうした心配性の客が風呂に向かうためには、誰かが部屋にいなくてはならない。その点で、特に夫婦で来ているのなら、確かに今は心配性なご婦人が風呂に来るのには絶好の時間といえた。食事の後で酒が入り、家でいつも見ているドラマがテレビでやっているとなれば、旦那は何も言わなくとも部屋にいてくれる。もちろん、自分が酒を飲んだり大河ドラマの熱心な視聴者だったりすれば話は別だが、男に比べ女はそういったものに対して興味が薄い者が多い。おそらく、このオバサンもそのクチなんだろう。
「それで貴女、今日はどこから来られたの? アタシはね〜……」
  人に話を聞いておきながらこちらの返答の前に自分のことを話し始めるまさに“オバサンらしさ”全開なオバサンを前に、俺は長期戦を覚悟するのだった……。



「ああ〜、良いお湯だったわ♪ それじゃ、アタシは先にあがるわね〜。お休み〜♪」
  あれからどれくらいの時間が経ったのか。ようやく湯とおしゃべりに満足したのか、オバサンはそう言って浴槽から上がり、体を拭きながら脱衣所へと戻っていく。
「はぁぁぁぁっ……」
  風呂に入っている間ずっと話しっぱなしだったオバサンの拘束からようやく解かれ、俺は安堵のため息をついた。
  やばかった……。これであと数分間オバサンの話に付き合わされていたら、完全に俺はのぼせてグロッキーになっていただろう。残念だけど、これじゃ今日のところは体力的にも限界だな……。まあ、SNSの噂は本物だったって確認できたわけだし、“お楽しみ”は次回来たときにとっておくか……。
  そう思いながら湯船から体を浮かそうとした時だった。
「おお、こりゃ珍しい。こんなべっぴんさんが一人で風呂に入ってるとはねぇ」
  俺が眺めていた女の脱衣所とは逆方向から、今度は低い声が聞こえてくる。
  まさか……。
  嫌な想像が頭をよぎる中、ゆっくりと振り返った俺の目には、タオルで前を隠した男の姿が映っていた。
  やばっ、ひょっとしてもう大河ドラマの放送終わったのか?
  思わず唖然とする俺の前でかけ湯をすると、男はざぶんと湯船に入ってくる。まさかの第2ラウンドが今、始まろうとしていた……。



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